フルトヴェングラーと巨匠たち
〜二十世紀の音楽が失ったもの〜
(「ムジカノーヴァ」1997年7〜8月号)
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 モーツァルトのソロ曲は極めて限られた数しか録音されていないが、シュナーベルのK310のイ短調のソナタは、テンポが自由で、風格の大きさとニュアンスの細やかさを兼ね備えた名演である。その他に、KV332、KV533/494、KV570のソナタ、KV511のロンド(EMI)などがある。フィッシャーのKV331のイ長調のソナタ(英Pearl)も印象的だ。モーツァルトの協奏曲は名演奏の多い分野で、私の知る限り、シュナーベルには第10、19〜24、27番の録音(EMI、米Music & Arts他)があり、フィッシャーには第17、20、22、24、25番の録音(EMI)がある。特にフィッシャーがバルビローリの指揮する室内管弦楽団と共演した第22番の演奏は秀逸で、緩徐楽章はいま聴いても思わず涙が出そうになるほど素晴らしい。

 シュナーベルは晩年、ベートーヴェンの協奏曲を全曲録音している(EMI)。フィッシャーには、前号で述べた《皇帝》のフルトヴェングラーとの記念すべき名演(EMI)の他に、戦前に録音されたベームとの共演による《皇帝》(英Pearl)、戦後のヨッフムとの第4番のライヴ(独Orfeo)がある。

 シュナーベルとフィッシャーには、それぞれ、彼らの音楽観を平明ながら深みのある言葉で語った著書がある(シュナーベル『わが生涯と音楽』邦訳・白水社、フィッシャー『音楽を愛する友へ』邦訳・新潮社、フィッシャー『ベートーヴェンのピアノソナタ』邦訳・みすず書房)。また、フルトヴェングラーには、音楽の本質に関する幾つかの哲学的な著作がある(『音と言葉』『音楽ノート』『手記』いずれも邦訳・白水社、『音楽を語る』邦訳・東京創元社)。いずれも、音楽と演奏の本質に迫る名著で、真摯な音楽の徒の胸を打つ。「あらゆる意図的なテンポの変化は音楽作品を歪曲する」などと十把ひとからげにきめつけてかかる、客観主義の批評家の冷たい言葉は、どこから出てくるのであろうか。「客観的真実」など、音楽の演奏に求めようがないではないか。次に掲げるのは、1935年3月、ラフマニノフのリサイタルに対するエリック・ブロムの批評の一部である。「この種の、異議を唱えるべき演奏の自由さは、劣等の芸術家によって導入されることの多いもので、内容空疎な慣習の再現に堕する以外に能のないものである。その最たるものはルバートで・・・これは聴衆に偽りの音価を示唆するのだから始末が悪い・・・。」

 パウル・ベッカーは、既に1922年に「指揮者のハンス・フォン・ビューローとヴァイオリニストのヨーゼフ・ヨアヒム[写真]を失って以来、演奏家のスケールが小さくなり、個性的な演奏が減った」と嘆いている。そうした点から振り返ると、現代の情況は絶望的である。しかし近年、ささやかながら客観主義への抵抗があちこちの演奏の現場で試みられるようになって来た。

 今世紀後半になって、古楽の復興は、17〜18世紀の演奏習慣に新たな光を投じた。それによって、装飾音やアーティキュレーション、不協和音の捉え方と演奏法、古楽器のニュアンスに富んだ音――そこから得られるバロックや古典派音楽の音のイメージなどにおいて、顕著な前進が見られた。しかし、古楽器奏者の多くも、「20世紀の演奏様式」の柱である「イン・テンポ」と非即興性に阻まれて、目指すオーセンティシティへ向かって前進することが出来ない。寧ろ、最近は古楽器の分野でも、類型的な演奏がその大半を占めている。筆者は、実証的な研究の価値を過小評価するつもりは毛頭ないが、この種の成果は、本来、不完全な表記しかすることができない「楽譜」の読み方に多少の貢献をしたに過ぎない。問題は、個々の作品のもつ固有の生命の把握に、それをいかに役立てられるか、ということだ。「客観的」情報が多過ぎて、作品の内部へ向かうべき目が外へそらされてしまうのでは、それは「演奏」という行為の単なる「逸脱」でしかない。

 自身作曲家でもあったフルトヴェングラーは、「即興演奏とは事実あらゆる真の音楽演奏の根本形態なのである」と言う。従って、音楽作品とは「自己完成としての即興演奏」と呼ぶことができる、と。即ち、作曲家は彼の内部に生起した、茫漠たる全体的ヴィジョンに基づいて素材を選び、生きて呼吸している音楽的想念の中で作品を形成するのであるが、彼がその作品を完成しようと或いは破棄しようと、彼の思考はそこで停止するわけではないのである。このことは、一度でも、精神的な創造的作業に携わったことのある人になら、容易に納得されよう。多くの作曲家が、一度完成した作品に再び手を入れなければいられず、時として大掛かりな改作にまで及ばこそである。1つの作品に幾つものヴァージョンがあるのは、作曲家が「より完成度の高いもの」を目指した結果であることもあれば、演奏に際しての異なる具現化を試みている場合もある。全体的なヴィジョンという意味で、1つの作品には1つの真実しかないが、それを実際に音にする方法には無限のヴァリエーションがあり得るのである。演奏家たるものは、作曲家がこのように全体のヴィジョンから出発して細部を作りながら「作品の完成」に至る「即興演奏」の過程を再構築して、「即興的な自己」を通じてそれを表現しなければならぬ。換言すれば、演奏家の仕事は「再現」ではなく「再創造」である、というのである。筆者は、作品解釈についての、これほど明快かつ説得力のある見解を他に知らない。

 「20世紀の演奏様式」への反省とその克服に積極的に取り組もうとしている人々はまだごく僅かに過ぎないが、21世紀はもうすぐそこまで来ており、世紀の変わり目へ向けてこの動きはやがて加速し大きく広がって行くに違いない。今世紀前半の録音の数々は、創造的で個性豊かな演奏の模範的な実例であると同時に、「客観主義」によって故意に断ち切られるまでの、自然に継承された偉大な音楽伝統の最後に立つ演奏でもある。我々が常に求めてきた過去の音楽作品の真実に至る道標でもあるのだ。

[完]


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