フルトヴェングラーと巨匠たち 〜二十世紀の音楽が失ったもの〜 (「ムジカノーヴァ」1997年7〜8月号) (1)
[第1回] レトロ・ブームとフルトヴェングラー
1996年末から97年3月まで、チェンバロ、クラヴィコード、フォルテピアノなど、16〜19世紀の鍵盤楽器を研究するため、ヨーロッパ各地を廻って歩いた。モーツァルトやベートーヴェンゆかりのフォルテピアノの数々を見、これらを演奏するなど収穫の多い滞在ではあったが、ここではパリ、ロンドンなどの街角で目にした音楽の新しい風景、そして西欧の音楽会に台頭している新しい潮流について報告したい。そこには、西欧の「クラシック音楽」が20世紀の間に失ってしまった、ある種のスピリットを取り戻そうとするうねりが始まっているように見えたからである。
滞在中、時間が出来ると、各地のレコードやコンパクトディスク(CD)を並べたミュージックショップを覗いて歩いた。数年前から、今世紀前半に録音された歴史的演奏に音楽愛好家の人気が集まる、レトロ・ブームとでも呼べる現象に関心を抱いていたので、これを確かめたかったのだ。果たして、どこの街へ行っても、このレトロ・ブームが、衰えを知らぬどころか、ますます勢い盛んになっていることを知らされた。最近では、初期のSPから今世紀初頭のシリンダー録音等に至るまで、レコード会社は大手も含めて、CD化できる音源を躍起となって探し求めて手当たり次第に商品化している。19世紀のピアノの名手たちが「自動ピアノのロール」に記録した演奏を復元してCD化する試みも盛んに行なわれている。現代の演奏ではなく、半世紀から1世紀近くも前の演奏に多くの人の関心が集まる。このようなことは、フルトヴェングラーや彼の最大のライヴァルであったトスカニーニ、ブルーノ・ワルターなどの大指揮者たちのような例外的なケースを別にすれば、かつてなかったことである。
フルトヴェングラー・ブームは、最近また、ひときわ盛り上りを見せている。このブームは、無論、昨日や今日始まったものではない。ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1886-1954)という、この文字通り今世紀最大の指揮者は、鬼籍に入る前から既に生ける伝説であった。少なからぬ数の学者や批評家たちが手厳しく彼の演奏を批判しているにも拘らず、彼の残した録音の数々は、現在に至るまで、その後の多くの指揮者や演奏家に大きな影響を与え、おびただしい数の賛美者、崇拝者を作り続けて来た。彼の著作は、メモの類に至るまで、日本語も含めて何か国語にも翻訳され、彼の芸術や生涯、人間性などを語った書物も次々に出版されている。彼の業績や資料を正しく評価して整理し、後世に伝えようとする「フルトヴェングラー協会」が、故国ドイツはもちろんのこと、アメリカ、イギリス、フランス、日本など各国に作られ、活動を続けているのも、他の指揮者や演奏家ではほとんど例のないことだ。
フルトヴェングラー・ブームの炎は、没後××年、あるいは生誕100年などを機に、時折り激しく燃え盛ってきたが、ここ数年、新しいCDが世界中の大小のレコード会社から発売されるのが目立った現象となっている。また今年に入って、フランスのレコード会社ターラTahraから、彼の残した全ての録音を記録したディスコグラフィーと、1906年から54年までに彼が行なった3200回に及ぶ演奏会の記録が出版された。これらのリストは、国内でも、輸入CDの量販店などで販売されているが、特にディスコグラフィーは、今後のブームの拡大に少なからず貢献するにちがいない。
フルトヴェングラーの演奏の最大の特徴は、情感の豊富さ、聴き手を感動させる力の大きさ、比類ない説得力などである。その拠って来たるところは、第一に、本能的なものであるが、彼は決して情緒過多に陥ることはなかった。彼の最も得意とするレパートリーが、ベートーヴェン、シューベルトからシューマン、ヴァーグナー、ブルックナー、ブラームスなど19世紀のドイツ音楽であることは、ほとんど常識になっているが、それ以外の音楽でも、彼は、バッハやヘンデルなどドイツのバロック、グルック、ハイドン、モーツァルトなどの古典、ベルリオーズ、フランク、ラヴェルなどのフランス物、チャイコフスキーやシベリウス、そしてリヒャルト・シュトラウスやヒンデミットなどの作品を演奏した。
彼の演奏における集中力の大きさと精神性には定評があるが、それが最も極端な形で発揮されたのは、戦時中にベルリン・フィルやウィーン・フィルを振ったベートーヴェンやブラームスの演奏で、痛々しいまでの悲しみと絶望、自由と人間愛への狂おしいまでにひたむきな想いなどが余すところなく伝わってきて、聴くものの心を激しく揺り動かし、興奮させ、異常なまでの感動に導くのである。まさに音楽に生命を賭けた凄絶な演奏であるが、この時期には、オーケストラの楽団員も、また聴衆も、文字通り命がけで音楽会に臨んでいたのだ。戦後になると、彼の演奏には著しく柔らかみと深みが増し、大きな広がりと奥行きをもった晩年のスタイルへと変化して行く。1950年代に録音されたシューベルトの演奏では、生と死の間を揺れ動く苦悩と心の中に激しく吹き荒れる嵐、その間に現れる美しい幻などが印象的に描かれている。
フルトヴェングラーの演奏は主観的だ、とよく言われるが、彼は決して、彼自身の個人的な感情を表出するために作品を歪曲したり誇張したりすることはない。彼の描き出す感情は、作品に内在するもの、作曲家が表現しようとしたエモーションにほかならない。そのような演奏を実現するするために発揮されたのが、彼の天才的な解釈力であった。彼は、今日の演奏者にすら一般的にはよく認識されていない、ハイドンとモーツァルトの様式的な違いを、直観的に知っていた。
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