フォルテピアノ


モーツァルト時代のピアノ (Ferdinand Hofmann, Vienna c1790)

■フォルテピアノ Fortepiano とは・・・?

 「フォルテピアノ」とは、初期のピアノを現代のピアノと区別する際の便宜的な呼称である。この呼称は、18世紀後半のドイツでは、C・P・E・バッハやテュルクをはじめとして、数多くの作曲家や著述家によって広く用いられた。19世紀に入ると、ドイツの作曲家たちは「ピアノフォルテ」やドイツ語の「ハンマークラヴィーア」などを多く用いるようになったが、ウィーンのピアノ製作家たちは世紀の半ばに至るまで自らを「フォルテピアノ製作者Fortepiano Macher」と称した。今日では、歴史的ピアノの呼称として半ば定着するに至っているが、スラヴ系諸言語では現代のピアノを意味する語として普通に使用されていることから、時折誤解や混乱を招いている。

その他の呼称についても、検討してみよう。

□ピアノフォルテ Pianoforte

ピアノの呼称として18世紀から用いられている語。今日では、歴史的ピアノを指して用いられることもあるが、ピアノの正式名称――すなわち「ピアノ」は「ピアノフォルテ」の短縮形である――という認識も広く存在するため、歴史的ピアノに対象を限定した用法には無理がある。

□ハンマーフリューゲル Hammerflugel

 ドイツ語で「ハンマー・アクションをもったグランド型ピアノ」の意。歴史的ピアノを意味する言葉としても用いられるが、元来、歴史的ピアノも含めて有弦鍵盤楽器のアクションの方式と楽器全体の形状を明確に示した楽器の形態分類のための概念(例えば、グランド型チェンバロを意味する「キールフリューゲル」などと同種の語)であり、その意味では、今日のグランド・ピアノもハンマーフリューゲルの1タイプであることから、歴史的ピアノだけに対象を絞ることには無理がある。

□ハンマークラヴィーア Hammerklavier

 18世紀末ないし19世紀初頭からドイツ語圏で使われているピアノに対するドイツ語の呼称。ベートーヴェンのピアノ・ソナタ作品101及び106において明確に示された。グランド型の形状のものに限定して用いる「ハンマーフリューゲル」に対し、形状を限定しないためより広い範囲のピアノを対象とした用法と、グランド型の「ハンマーフリューゲル」に対し、ターフェルクラヴィーア(スクウェア・ピアノをはじめとした小型のピアノ)に対象を絞る限定的な用法がある。

□ピアノPiano

 楽器の名称としてのこの短縮形については、既に1785年の『ブロードウッド・ジャーナル』における使用例が知られている。

 

■ピアノの発明

 ピアノを発明したのは、周知にように、フィレンツェのメディチ家の楽器工房主任であったバルトロメオ・クリストフォリ(1655-1732)であった。現在の研究では、「1700年頃」ということになっている。以前、「1698年説」が強く主張されたこともあったが、現在のところ、この主張の裏付けは確認することが出来ない。

 しかし、これは「今日的意味」におけるピアノに限っての話である。「弦を叩いて音を出す鍵盤楽器」というより広い意味においては、既に1440年頃、チェンバロのページでも紹介したズウォレのアンリ・アルノーがブルゴーニュ公に提出した「ドゥルチェ・メロス」の図面というのがある。ドゥルチェ・メロスとはダルシマー――即ち、プサルテリウムと同じような形状の弦楽器だが、弦をはじくプサルテリウムとは異なり、弦をばちで叩いて音を出す――のことだが、この場合には「鍵盤付きダルシマー」を意味している。

 クリストフォリにしても、ピアノを発明した際には、「鍵盤付きダルシマーの開発」を意識していたことは間違いないと思われる。従って、ピアノという楽器の発想の始まりは、少なくともクリストフォリの発明以前3世紀半余りも時代を遡るのである。

□クリストフォリは「ピアノ」を何と呼んだか?

 クリストフォリ自身が、彼の発明したこの新しい楽器を何と呼んだのかは記録されていない。

 1700年のメディチ家の楽器目録には、この楽器は単に「アルピチェンバロ」と記されている。

 1709年にクリストフォリにインタヴューしたヴェローナの貴族シピオーネ・マッフェイ侯爵は、その2年後に彼のクリストフォリ訪問を公にし、その中でこの楽器を「グラーヴェチェンバロ・コル・ピアノ・エ・フォルテgravecembalo col piano e forte」(強弱を伴う大型のチェンバロ)と呼んだ。「フォルテピアノ」や「ピアノフォルテ」は、このマッフェイの呼称の短縮形である。

 18世紀のイタリアの文献資料には、「クラヴィチェンバロ・ア・マルテレッティclavicembalo a marteletti」(小さなハンマーの付いたチェンバロ)という呼称も珍しくない。これに対して、弦をはじいて音を出す通常のチェンバロは「クラヴィチェンバロ・ア・ペンネclavicembalo a penne」ということになる。

□ピアノはチェンバロの一種!

 このように、クリストフォリのピアノは「新種のチェンバロ」として受け止められた。これ以後、1800年頃までは、ピアノは「チェンバロの一種」と考えられていた。モーツァルトは、明らかにフォルテピアノを意図している時でさえ、自筆譜には「クラヴィチェンバロ」と書いている。

■ピアノのための最初の作品

ロドヴィーコ・ジュスティーニによる「チンバロ・ディ・ピアノ・エ・フォルテのためのソナタ集」(1732)
Lodovico Giustini di Pistoia (1685-1743): Sonate da Cimbalo di piano, e forte detto volgarmente di marteletti (Firenze, 1732)

■ドメニコ・スカルラッティとファリネッリ

 クリストフォリや彼の弟子ジョヴァンニ・フェリーニの作ったピアノフォルテと深い関係にあった最初の大作曲家はドメニコ・スカルラッティであった。スカルラッティの仕えたスペイン王妃マリア・バルバラは、この新しい楽器をたいへん好み、あちこちの宮殿にピアノフォルテを置いた。有名なカストラート歌手のファリネッリことカルロ・ブロスキも同じ王妃に仕えた。スカルラッティが個人的にピアノフォルテを好んだという記録はないが、ファリネッリはこれをたいへん好んでいた。

 

■ドイツにおけるピアノフォルテの開発

 ドイツにおいては、バッハの活躍したザクセンで、最初のピアノが開発された。

 オルガニストのクリストフ・ゴットリープ・シュレーターは、1717年に最初のピアノのアクションを考案し、楽器技術者にそれを製作させた、と主張している。

 1725年には、ザクセンの宮廷詩人ケーニヒが、マッフェイによるクリストフォリのピアノフォルテの紹介論文をドイツ語に翻訳して公刊した。

 1732年に、ザクセンのオルガン製作家でバッハとも親しかったゴットフリート・ジルバーマンが、最初のピアノフォルテを開発してザクセン選帝侯に献上した。しかし、この楽器は、後年、ジルバーマンがクリストフォリのアクションの実物をコピーした楽器に比べると、様々な点で劣っていた。従って、ドイツにおける最初の優れたピアノフォルテは、1745年頃、ジルバーマンによって作られ、フリードリヒ大王に好まれて、プロイセンの宮廷に導入された。

■バッハとピアノ

 J・S・バッハは、1747年に、ポツダムの宮廷にフリードリヒ大王を訪ね、大王の求めに応じてジルバーマンのピアノフォルテで即興演奏を行なった。その時に弾いたのが、《音楽の捧げ物》の第1曲である「3声のリチェルカーレ」と考えられている。

 しかし、ジルバーマンが改良型のピアノフォルテの製作に成功した1745年以前に、バッハが開発途上のピアノフォルテに重大な関心を抱いたり、その種の楽器を好んだりしたという記録は皆無である。従って、バッハがクラヴィーア作品に想定していた楽器は、チェンバロかクラヴィコード、あるいはその両方であったと考えられる。

■スクウェア・ピアノの登場

 18世紀の後半になると、ドイツとイギリスでは、テーブル型のピアノ(スクウェア・ピアノsquare piano[英]、ターフェルクラヴィーアTafelklavier[独])が作られるようになる。このタイプのピアノは、グランド型のピアノよりも音量が小さく、ニュアンスが豊かである、という点で好まれ、人気を増していった。バッハの次男カール・フィリップ・エマヌエルやロンドンで活躍した末子のヨハン・クリスティアンは、こうしたデリケートなスクウェア・ピアノを好んだ。

 グランド型のピアノがチェンバロから発展したのに対し、スクウェア・ピアノは明らかにクラヴィコードから発展したものである。

■イギリス式ピアノとウィーン式ピアノの分化

 1770年代になると、ロンドンでは、アメリクス・バッカースがイギリス式グランド・アクションを開発し、グランド型のピアノの製作に乗り出した。当初、バッカースのグランドはやたらと音が大きいだけでニュアンスに欠けるという不評を買ったが、バッカースの死後、ストダートやブロードウッドによって改良が重ねられた(1780年代)。イギリスのグランド・アクションは、クリストフォリの方式に則りながら、ハンマーを回転させる力がより直接的に加わるよう工夫したものであった。

 一方、南ドイツのアウクスブルクに工房を構えるヨハン・アンドレアス・シュタインは、1780年頃、プレルツンゲン・メヒャーニクと呼ばれる微妙で反応の敏感なアクションを開発した。シュタインのアクションの繊細さは、イギリスのピアノの比ではなかった。その後、この方式はウィーンで定着したために「ウィーン式アクション」と呼ばれる。

 ウィーン式アクションは、20世紀の初頭まで作られ続けたが、現代のピアノの主流はイギリス式であり、ベーゼンドルファーがウィーン式アクションの製作を見限った時、この方式は淘汰されたのである。

■シュタインによるピアノとチェンバロの複合楽器

 シュタインは、20年余りにわたって、ピアノとチェンバロの複合楽器の開発に取り組んだ。シュタインは18世紀後半では最も優れた鍵盤楽器の製作家の一人で、発明の才にも恵まれていた。彼は、ピアノとチェンバロの特定のストップを組み合わせたり別々に用いたりすることで、ピアノの音に輝かしさを加えたり、ピアニッシモの効果を出そうとした。1769年に開発された楽器は、シュタインによって「ポリ・トーノ・クラヴィコルディウム」と名付けられた。1777年と83年に作られた「ヴィザヴィ」――ピアノとチェンバロを組み合わせた巨大な長方形の楽器――は、シュタインのアイデアの変化を如実に物語る。1789年に、彼は「ザイテンハルモニカ」なるピアノとチェンバロの複合楽器をマンハイムの顧客に売ったが、1790年にシュタインを訪問したライヒャルトは、同型の楽器を見て強い感銘を受けたと語っている。

 

■モーツァルトのヴァルター・ピアノ

 モーツァルトは1777年にシュタインの工房を訪れ、彼のピアノに強い感銘を受けた。しかし、シュタインの楽器は余りにも値段が高かったので、モーツァルト一家はシュタインのピアノを購入するという望みは断念せざるを得なかった。ヴォルフガングは、1781年にウィーンに移り、恐らく1782年に、アントン・ヴァルターのピアノを購入した。この楽器は、今でもザルツブルクのモーツァルト博物館に残っており、演奏可能な状態に修復されている。

□改造されたモーツァルトのヴァルター・ピアノ

 モーツァルトのヴァルター・ピアノは、1810年頃に、1795−1800年頃の楽器の仕様に改造された。従って、オリジナルの状態は今ではわからなくなってしまっている。1780年代の前半に作られたヴァルターのピアノは数台が現存するが、オリジナルの状態を保っているものは1台もない。従って、モーツァルトの愛器を復元することは今日では不可能である。

 今日、ヴァルターのピアノのレプリカは相当数作られており、モーツァルトの演奏に好んで使用されている。しかし、それらのレプリカが元にしているのは、1795年頃のヴァルター・ピアノなので、これらはモーツァルトのピリオド楽器とは言い難いものだ。

 ヴァルターのピアノ製作においては、1790年代には、1780年代と比して、同じ製作者の楽器とは思えないほど大きなモデル・チェンジが行われた。2000年春にポーランドで、1789年のヴァルター・ピアノが発見されたが、この楽器の発見は、こうした大きなモデル・チェンジの跡を完全に裏付けることとなった。従って、今日、モーツァルトが体験したようなピアノを求めるならば、ヴァルター以外の楽器――特に、シュタインやホフマンのピアノ――に頼らざるを得ない状況にある。

フォルテピアノ書簡集

渡邊順生著『チェンバロ・フォルテピアノ』

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