フルトヴェングラーと巨匠たち 〜二十世紀の音楽が失ったもの〜 (「ムジカノーヴァ」1997年7〜8月号) (3)
次に、19世紀生まれのピアニストの録音の中から、古典派の作品の演奏例を少し拾ってみよう。
その演奏が今日でも幅広く聴かれているピアニストの中で、最も古い世代に属するのは、セルゲイ・ラフマニノフ(1873-1943)[写真]とアルフレッド・コルトー(1877-1962)であろう。彼らは、残念ながら古典派のレパートリーには余り多くの録音を残さなかったが、ラフマニノフによるモーツァルトのソナタK331の第一楽章[抜粋](BMG)は極めて自由闊達な演奏で、即興性の本質を伝える録音として非のうちどころがない。また、コルトーがヴァイオリンのティボー、チェロのカザルス(カザルス・トリオ)[写真]と共に録音したハイドン、ベートーヴェン、シューベルトなどのピアノ・トリオ(EMI)は、フレーズの造形の見事さに舌を巻かざるを得ない。彼らの演奏の背後にあるのは、1分間に15〜20回という、極めて長い拍単位(演奏の中で時間を数えあるいは刻むための)である。今日のメトロノーム的な短い拍の取り方では、長いフレーズは分断され、フレーズとフレーズの繋がりはどうしても並列的に聞えてしまう。カザルス・トリオの演奏では、拍を長くとることによってテンポが自由で柔軟性に富み、各々のフレーズのシェーピングもさることながら、フレーズどうしの繋がり具合も立体的で、大きな広がりと変化に富んだ表現が実現されているのである。
19世紀のピアノ演奏のスタイルを知る上で極めて興味深いのが、「ヴェルテ=ミニョンによる19世紀のピアニストたち」("The Closest Approach to 19th Century Piano Interpretation" ARC-106, Archiphon 1992) というCDである。このディスクは、ドイツのヴェルテ社が1904年に開発した自動ピアノ(リプロデューシング・ピアノ)「ヴェルテ=ミニョン」の演奏ロールに、カール・ライネッケ(1824-1910)[写真]、テオドール・レシェティツキー(1830-1915)、カミーユ・サン=サーンス(1835-1921)の3人がそれぞれの演奏を記録したものの再現である。最も印象的なのは、作曲家としても有名なライネッケによるモーツァルトのピアノ協奏曲第26番《戴冠式》の第2楽章である。彼は、弦楽器のポルタメントのような効果を出すアルペッジョ奏法とリズムの細かい「揺れ」を多用しながら、実に歌謡的な演奏を行なっている。ライネッケが生れた時には、ベートーヴェンもシューベルトもまだ生きていた。彼は、リスト風のピアノのテクニックを拒否して生涯「保守派」で通し、19世紀前半のピアノ演奏の伝統を守り抜いたと言われる。サン=サーンスは自由なテンポの中で独特なリズム感を聞かせる。彼の演奏は6曲収録されているが、その中にはベートーヴェンのソナタ作品31の1の第2楽章が含まれている。レシェティツキー[写真]は、モーツァルトのハ短調の幻想曲(K475)を感興の趣くままに弾いている。彼は優れたピアニストであると同時に偉大な教育家でもあった。彼の育てた弟子の中には、イグナツ・ヤン・パデレフスキー(1860-1941)、イグナツ・フリードマン(1882-1948)、アルトゥール・シュナーベル(1882- 1951)などの超大物ピアニストたちが含まれている。
パデレフスキーには、テンポとテンポ・ルバートについての非常に興味深い小論があるので、その一部分を紹介しよう。テンポについて、彼は、「音楽においては絶対の速度は存在しない。われわれがテンポと呼んでいるものは、われわれの心理的及び生理的条件に支配されるもので、それは人間の内部及び外部の温度、感興、楽器、音楽効果などに影響されるものなのである。」(原田光子・訳)と述べている。従って、生きた演奏にとって、テンポの変化は回避することの出来ない重要な表現要素となる。「人間の持つメトロノームである心臓も、熱情に影響されると、正確な鼓動をつづけることをやめるものである。・・・ショパンは彼の心で演奏した。彼の演奏は民族的ではなく熱情的(エモーショナル)なのである。音楽のインタープリテーションにおいて、メトロノームに忠実であり同時に感情的であれということは、機械工学に感傷的であれというのと同じことを意味する。機械的な演奏と熱情は両立しがたい。・・・音楽作品の性格を一般的に指示するものとして、速度が重大な要素であることは疑問の余地がない。メトロノームは役に立つであろうし、メルツェルの巧妙な工夫は完璧という点からは遠いにしても、生まれつきリズム感に恵まれていない学生にとっては、ことに効果があるであろうが、作曲者の幻想力と演奏家の熱情は決してメトロノームやテンポに縛られた、卑しい奴隷であってはならない。」
こうした考え方は、この時代の芸術家一般に共通するものであったように思われる。音楽作品が生き物である、というような見解は、フルトヴェングラーの著作でも、随所で述べられている。
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