フルトヴェングラーと巨匠たち
〜二十世紀の音楽が失ったもの〜
(「ムジカノーヴァ」1997年7〜8月号)
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[第2回] ロマン主義の克服
 はるかな昔、ヨーロッパの人々は作曲されたばかりの音楽――それぞれの時代における現代音楽のみを、主に演奏していた。やがて時代の推移と共に、人々の関心は、過去の音楽に向けられるようになった。その「過去」も、次第に近過去から遠過去へと広がって行った。関心は、遠い昔の楽器や、それらの楽器を用いた演奏慣習にまで及ぶようになった。古楽の復興は、バロックやルネッサンスの音楽から、いまや中世の音楽を中世の楽器で「再現」できるところまで進んでいる。

 いま、レコードの世界で同じような現象が起きている。古楽器の研究のためにヨーロッパへ赴いた筆者が、3か月の滞在中に、ロンドンやパリをはじめ西欧の街々で見たのは、半世紀も一世紀も前に録音された演奏に人々の関心が集まる、いわばレトロ・ブーム、昔の録音のリヴァイヴァル・ブームであった。

 東京でも、輸入CDの量販店へ行けば、似たような店頭の光景を目にすることは珍しくない。だが、音楽の本場ヨーロッパが違っていたのは、音楽ファンやレコード業界にとどまらず、学者・批評家・演奏家などの中にも、これら20世紀前半の録音を手がかりに、今世紀全体の音楽情況を把握し、21世紀への展望を開こうとする動きが出始めている、ということであった。

 現代のCDは、演奏家の「名刺代り」になるくらい手軽に作られているが、それにひきかえ戦前のレコードは、その名の通り、名演奏家の演奏の記録であったのだ。そこには聴き手の予測をあっさり超越する、スリルと豊かな精神体験に満ちた世界が繰り広げられている。没個性的な現代の演奏に飽き足りない音楽ファンが、より大きな感動を求めて昔の録音に傾斜して行くのは、ある意味では無理からぬ現象とも言えるのである。

 その魅力に富んだ19世紀の演奏習慣、それを成り立たせていた幾つかの要素を、さまざまな録音から聞き出してみよう。まず、現代の演奏常識では禁じられている「テンポの自由さ・柔軟性」が特筆できる。テンポ・ルバートも多用されていた。テンポ・ルバートとは、「盗まれた時間」という意味のイタリア語で、演奏の途中で一時的に速度を速めたり緩めたりすることである。これによって、特定の音符や楽句の表情が強められる。フルトヴェングラーが、テンポ・ルバートを「リズムが精神的な衝動で一時的に揺れ動くこと」(門馬直美・訳)と規定したことからもわかるように、ルバートはリズムとも強く結びついており、特定のリズムを強調するためにも用いられた。今世紀後半の批評家たちが「ルバートはリズムを破壊する」という見解をとることが多いため、最近ではルバートの使用はごく禁欲的な枠の中に閉じ込められている。世紀の初頭には、ルバートを伴わない付点リズムの強調なども行なわれた。そして、弦楽器と声楽におけるポルタメントの多用や鍵盤楽器のアルペッジョ奏法。ポルタメントは、音と音とのつながりを強調するために音程を連続的にスライドさせることで、その表現効果は極めて大きいが、現代では「悪趣味な」表現の代表として、可能な限り回避することが適当であるとされている。ポルタメントをかけることが不可能なピアノでは、アルペッジョで上向きのポルタメントを代用するような表現が多く行なわれた。また、左手の伴奏音型をより規則的に、右手の旋律をより不規則に演奏することも、盛んに行なわれたが、これもテンポ・ルバートの一種である。これらの方法は、音楽作品の角ばった輪郭を丸くすることにおいて、著しく効果的であった。弦楽器におけるヴィブラートは、現代のように音程の幅の広いヴィブラートをひっきりなしにかけるのではなく、音楽の表情に応じて緩急が調節されさまざまな音程幅が使い分けられた。全体として、この時代の演奏は、フレーズが長く、感情表現が直接的かつ豊かで、自由な即興性に富んだものであった。こうした即興性と、それに代表される創造的精神こそ、20世紀のクラシック音楽の演奏が失い続けてきたものではなかったか。

 今世紀の音楽演奏の歴史は、ある意味で、演奏家の個性のは二つの大戦を挟んで、大きく2つの時期に分けることが出来る。1918年に第1次世界大戦が終ると、政治・経済・文化のあらゆる分野で「19世紀の克服」が論議され、様々な方法論が模索された。音楽では「客観主義」が新たな演奏の潮流となった。客観主義は、「楽譜に忠実な演奏」というスローガンのもと、感情の起伏豊かな十九世紀の演奏スタイルに懐疑の眼差しを向け、これらを敵視し、遂にはこうした即興性の強い表現方法の多くを葬り去ってしまったのである。

 「ロマンティックな演奏においては、演奏家が自らの個性を表現するために、時には作曲家の意図や作品の特性を犠牲にした」という、繰り返し聞かされてきた主張も、新たな潮流となった客観主義が、自らを正当化するために作り出したフィクションとさえ思えてくる。事実は全くその逆で、19世紀の名演奏家たちは常に作曲家の意図や作品の特性に対して忠実であろうと心がけており、批評家もまた、そうした観点から演奏を厳しく批判したのである。

 2つの大戦に挟まれた時期に、客観主義はさまざまな議論を巻き起こしながらも勢力を拡大し続けた。この時期には、ロマンティックなスタイルをもった多くの演奏家が、新しい潮流に自らを適応させて行く様子が随所に見られる。そして、第2次大戦後になると、客観主義の方法論と価値観によって育てられた新しい世代の演奏家が、演奏会のステージに登場する。そして、メトロノーム的な細かい拍の取り方に裏づけられた物理的に一定のテンポ感が、客観主義演奏の、即ち20世紀演奏手法の主流として定着することになった。近年、「CDの時代」とでも言うべき音楽状況は、演奏家に同じ演奏を何度も繰り返すことのできる能力を求め、一回性や即興性とは無縁の演奏が何の疑問もなく受け入れられている。

 しかし、モーツァルトやベートーヴェンの時代には――いや、もっとずっと以前から――テンポは柔軟に扱われることが重視され、ルバートも多用されていた。フリードリヒ大王に仕えたヴァイオリンの名手フランツ・ベンダ(1709-86)[肖像画]は、その伸縮自在な演奏で賞賛を浴びたし、優れた鍵盤奏者であったカール・フィリップ・エマヌエル・バッハ(1714-88)は、自由なテンポが表情豊かな演奏にとっていかに重要であるかを説き、テンポ・ルバートの能力を身につけることが一流演奏家になるための最終教程であると述べている。詩人で音楽家でもあったクリスティアン・フリードリヒ・ダニエル・シューバルト(1739-91)は、1780年代の半ば頃、表情豊かな演奏を成り立たせているのはポルタメントと装飾音、演奏中に現れる突然の「間」とテンポ・ルバートであると指摘し、「演奏が先へ進むかと思うと後戻りするような」このテンポ・ルバートは「恋人のもとを去らねばならぬ者が見せる甘美なためらい」であり、「これら諸々の手法は、名人の手にかかって初めてその効果を発揮する」と述べている。作曲家であると同時に著述家でもあったヨハン・フリードリヒ・ライヒャルト(1756-1814)は、名ヴァイオリニストでベートーヴェンとも親交のあったルートヴィヒ・シュポーア(1784-1859)の演奏を1805年に聴いて、「シュポーア氏は1つのアレグロ楽章の中で3回も4回もテンポを急激に変化させるが、・・・かつては、優れた歌手や演奏家たちは、演奏を美しく表情豊かに聴かせるために、テンポを徐々に優雅に変化させたものだった」と書いている。ともあれ、ベートーヴェンの時代には、シュポーアのようなテンポの変化はごく当たり前に行なわれていた。最初はメトロノームの発明に夢中になったベートーヴェンも、やがてメトロームに否定的な見解を示すようになる。「正しい感覚の持ち主にはメトロノームは必要でないし、正しい感覚のない人にはメトロノームは役に立たない」。そして何よりも忘れてならないことは、モーツァルトにしてもベートーヴェンにしても、彼らは何れも当代きっての即興演奏の名手であったということだ。

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