Cembalo, Clavicordo & Fortepiano
 J.S.バッハゴールドベルグ変奏曲/渡邊順生
 解説


 □成立事情/バッハ自身の手による改訂版
 ■変奏の手法と変奏曲の種類
 □全体の構成
 □各変奏曲の特徴 前編
 □各変奏曲の特徴 後編
 □作品の内容的特性
 □ゴールドベルグ 表

変奏の手法と変奏曲の種類

□アリア

 冒頭のアリアの、穏やかで豊かに装飾された旋律の美しさは、すこぶる印象深いものだが、続く変奏は、左手のバスに基づいている。このアリアは前半・後半16小節ずつから成り、それぞれが繰り返される2部形式をとっている。更に、前半も後半もはっきりとした2つの部分に分けられ、これらの4つの部分が明快な起承転結の構造をもっている。最初の8小節は主調(ト長調)で終止し、次の8小節で属調(ニ長調)に転調する。次の8小節で属調から並行短調(ホ短調)へ転調し、最後の8小節では下属調(ハ長調)から始まって主調に戻る、というものである。第2の「承」の部分のバスと最後の「結」の部分のバスは、音の高さが違うだけで、ほとんど同じ旋律線をもっている。【譜例】はこのアリアのバスを示しているが、最初の8小節は、パッサカリアやシャコンヌによく使われた形になっている。
 このアリアは、1725年に書き始められた《アンナ・マクダレーナ・バッハのための音楽帖》の中にも書かれているので、従来、バッハがこの作品を作曲するに当たり、このアリアを夫人のアンナ・マクダレーナのお気に入りの小曲の中から選んだのだ、と説明されることが多かった。しかも、このアリア自体の真作性にすら疑問が持たれていたのである。このような、美しい旋律と明快な和声構造、そして均整の取れた形式をもつ完璧な作品を、バッハ以外の誰が書き得たというのだろうか。最近の研究では、《ゴルトベルク変奏曲》が完成した後で、夫人がこのアリアを気に入って、自分の音楽帖に書き写したと考えられている。
 この32小節にわたるバスを基礎に、30曲の変奏曲が展開する。各々の変奏曲には、それぞれ新しい素材や手法、固有の雰囲気が盛り込まれていて、個々の魅力を1曲ずつ味わうのも楽しいが、それらは有機的に配列されて壮大な全体を形成している。別掲の表はこの作品の全体のプランを辿りながら聴いて頂くためのものである。30の変奏曲は、大まかに、この表を縦に見た3つのグループに分けることができる。

□Aグループの変奏

 1の列(第1,4,7,10・・・変奏)は、通常のクラヴィーア曲や室内楽、すなわち組曲やソナタの楽章として頻繁に用いられた形式による変奏で、各種の舞曲(コレンテ風の第1変奏、フランス式ジーグ=第7変奏、メヌエット風の第19変奏)、フランス風序曲(第16変奏)、フゲッタ(小フーガ=第10変奏、その他に模倣の技法を用いたものとしては、舞曲の要素も兼ね備えた第4変奏、アラ・ブレーヴェと題された第22変奏がある)、装飾豊かな緩徐楽章(第13変奏と第25変奏)などから成る。このグループの変奏を、以下Aグループと呼ぶことにしよう。2の列の最初に位置する第2変奏はこのグループに属しているが、1の列の最後に位置する第28変奏はBグループに属する。一方、2の列の最後の第29変奏は、A・B両グループの性格を併せもっている。

□Cグループの変奏

 3の列(第3,6,9・・・変奏)は、それぞれ異なった種類のカノンである。カノンとは、模倣の技法によって作られた対位法的な楽曲のことである。ここでは、第2の声部が第1の声部を模倣しながら追いかける。第3変奏では同じ音程で、第6変奏では2度、第9変奏では3度、という風に、段々と追いかける音程が広がってゆく。第24変奏までの8つのカノンは、模倣したりされたりする2つの声部を、主題を変奏するバス声部が支えるという3声部構成をとる。これをCグループとする。
 第27変奏の9度のカノンは2声部のみから成っているという点で、他のカノンとは異なる。この曲では、バス主題を変奏する左手を、右手が9度上で追いかけるという、バス主題の変奏そのものを模倣するという技法が用いられている。後半では右手と左手の関係が逆転する。しかも、後半を開始する右手の旋律は、冒頭の左手の倒置形になっている。
 第24変奏までの8曲のカノンは、シンメトリックに構成されている。1度と8度は1オクターヴの関係にあり、7度は2度を転回したもの――すなわち、7度は1オクターヴ上(8度)から2度下がった音程――であり、同様に6度は3度を、5度は4度を転回した音程だからである。1度と8度のカノンに比べると2度と7度のカノンは緊張感が高く、3度と6度のカノンはさほどでもない。8曲のちょうど真ん中に位置する4度のカノンと5度のカノンでは、そのままの模倣ではなく、反行形による模倣(すなわち、第2声部は、第1の声部の旋律を倒置した形になる)を用いている。これら2曲のカノンでは、音楽的緊張感が最高度の昂まりを見せる。ここでバッハは、定められた小節数という制約の中で、バス主題を変奏しながら、その上に反行カノンを組み立てるという、作曲技法上の離れ業をやってのけた。このように、カノン群は緊張と弛緩を繰り返しながら中程で頂点に達する。上に述べたように、第27変奏はこのグループからの逸脱を示しており、第30変奏のクォドリベットはもはやこのグループには属さない。また、このグループの変奏を出来るだけヴァラエティに富んだものとするために、バッハは、2度と7度及び4度と5度の2つずつのカノンの組の片方(第21及び第15変奏)を、それぞれト短調で書いている。

□Bグループの変奏

 第5変奏以降の2の列の変奏曲は、チェンバロの2つの鍵盤の使用が指定され、それぞれの鍵盤上に置かれた右手と左手が対等に、めまぐるしく走りまわり絡み合う。両手の頻繁な交叉もまた目立った特色の1つである。これは、対等な2つの旋律楽器のための2重奏を思わせる書法であるが、こうした書法は、それまでのバッハのクラヴィーア作品の中では、2〜4台のチェンバロのための協奏曲以外では、あまり用いられたことのないものである。このグループは、音楽的には明快であるが高度な演奏技巧を要求するので、極めて華やかな印象を与えるものが多い。軽快且つユーモラスで、「遊び」の要素も強く感じさせる。確固たるバスの存在感が希薄であることも、このグループの目立った特色と言えよう。そのため、落ち着いた安定感のあるAグループの変奏とも、音楽的緊張度の高いCグループのカノン群とも著しい対象を作り出している。1の列の最後に位置する第28変奏もこのグループに属する。
 このグループの変奏では、間断のない16分音符の動きが主体となる。第1変奏は、16分音符の動きが主体でしかも両手の交叉と対話的なフレーズを含んでいるので、A・B両グループの性格を併せもっていると言える。以後、16分音符の順次進行を主体とした第5変奏、和声的な跳躍進行を主体とした第8変奏、16分の12拍子と拍単位を細かくした第11変奏(この変奏は、Bグループの中で、4分の3拍子で書かれていない唯一の変奏曲である)を経て、初めて32分音符の急速な動きが登場する第14変奏で最初のクライマックスに達する。3度の動きを中心としたユーモラスな第17変奏で緊張がやや緩和された後、緊張感は一気に高まる。16分音符の6連音符を初めて導入する演奏至難な第20変奏、再び32分音符が登場ししかも初めて片手に和音が登場することによってテクスチュアが厚みを増す第23変奏、無窮動的な6連音符の動きと和音の付点リズムが好対照を見せるやはり演奏至難な第26変奏、32分音符によるトレモロ的な動きの支配的な第28演奏と、クライマックスへ向かってほとんど直線的と言ってもよい盛り上がりを見せる。

BACK