Cembalo, Clavicordo & Fortepiano
 J.S.バッハゴールドベルグ変奏曲/渡邊順生
 解説


 ■成立事情/バッハ自身の手による改訂版
 □変奏の手法と変奏曲の種類
 □全体の構成
 □各変奏曲の特徴 前編
 □各変奏曲の特徴 後編
 □作品の内容的特性
 □ゴールドベルグ 表

成立事情/バッハ自身の手による改訂版

 この作品が《ゴルトベルク変奏曲》の名で呼ばれるようになったのは、次のような事情による。ゴルトベルクとは、バッハの弟子で、才能豊かなクラヴィーア奏者であったヨハン・ゴットリープ・ゴルトベルク Johann Gottlieb Goldberg (1727-56)のことである。バッハの最初の伝記作者ヨハン・ニコラウス・フォルケルは、その『バッハ評伝』(1802)の中で、この作品の成立事情を次のように記している。
 〈すべての変奏曲が模範とすべきこの作品――誰にもわかる理由から、これを手本にして創られたものはまだ1曲もないけれども――は、ザクセン選帝侯宮廷駐在の前ロシア大使、カイザーリンク伯爵のすすめによって生まれた。伯爵はしばしばライプツィヒに滞在し、前記のゴルトベルクを連れてきてバッハから音楽の教授を受けさせた。伯爵は病気がちで、当時不眠症に悩まされていた。同家に居住していたゴルトベルクはそのようなおり控えの間で夜をすごし、伯爵が眠れないあいだ何かを弾いて聴かせねばならなかった。あるとき伯爵はバッハに、穏やかでいくらか快活な性格をもち、眠れぬ夜に気分が晴れるようなクラヴィーア曲を、お抱えのゴルトベルクのために書いてほしいと申し出た。変奏曲というものは基本の和声が常に同じなので、バッハはそれまでやりがいのない仕事だと考えていたが、伯爵の希望を満たすには変奏曲が最もよいと思ったのである。しかし、このころバッハの作品はもうすべてが芸術の模範というべきもので、この変奏曲も彼の手でそのようなものとなった。しかも彼は変奏曲の模範としてこれ1曲しか遺さなかった。伯爵はその後この曲を『私の変奏曲』と呼ぶようになった。彼はそれを聴いて飽きることがなく、そして眠れぬ夜がやって来ると永年のあいだ、『ゴルトベルク君、私の変奏曲を1つ弾いておくれ』といいつけるのであった。バッハはおそらく、自分の作品に対してこのときほど大きな報酬を得たことはなかったであろう。伯爵はルイ金貨が100枚つまった金杯をバッハに贈ったのである。しかし、この作品の芸術的価値からすれば、たとえ贈物が千倍も大きかったとしても十分とはいえまい。なおつけ加えるならば、この変奏曲の印刷本にはいくつかの重大な誤りが見られ、作者が私蔵版においてそれらを注意深く訂正した、ということを述べておかねばならない。〉(角倉一朗・訳)
 フォルケルのこの話は、今日まったく無条件に信じられているわけではない。第1に、これが事実とすれば、出版に際して献呈の辞がないことは、当時の慣習からすればまことに不自然である。また、当時ゴルトベルクが若干14〜15歳の少年であったことを考えれば、技術的にはともかく、バッハがそのような年齢の少年に弾かせることを前提にして、かくも深甚な内容の音楽を作曲することがあり得たかどうかなど、この物語の信憑性には疑問の余地が少なくない。寧ろ、バッハのこれまでのクラヴィーア作品を展望するなら、55歳になったバッハが、単一主題に基づく大作に自ら挑んだと考える方がよほど自然であろう。だが、バッハが印刷本の1冊を伯爵に贈って大きな返礼を受けたことは十分に考えられるし、当時の風説からすれば、名手であったゴルトベルクが少年の頃からこの大曲を弾きこなすほどの驚異的な技術を持っていたことも、十分に頷けることなのである。それよりも、このフォルケルのエピソードがいまだに好まれるのは、この話が、柔和な広がりをもったこの作品の景色によくマッチしているからであり、その意味では、この物語は、たとえ歴史的事実には立脚していなくとも、作品の真実を端的に伝えていることも事実なのである。なおゴルトベルクは作曲の才にも恵まれて幾つかの野心的作品を残したが、1756年、29歳の若さで世を去った。
 1975年、フォルケルが述べている初版本のバッハ自身の私蔵版が、ストラスブールの個人の蔵書の中から発見された。そこには、事実バッハ自らの手で数多くの訂正が施されていたが、そればかりではない。余白には、バス主題に基づく14曲のカノンが書き込まれていたのである(カノンについては、以下の解説を参照されたい)。なお、このバッハの私蔵本は、現在、パリ国立図書館に所蔵されている。

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