特別インタヴュー:ニコラウス・アーノンクール
音楽は心地よさのためだけか!!

                                            (「レコード芸術」1981年2月号所収)

 


筆者とアーノンクール(赤坂東急ホテルにて)

 

 

 1980年9月8日、アムステルダムの.コンセルトヘボウでヨーロッパ文化におけるノーベル賞ともいうべきエラスムス賞の授賞式が、オランダのベアトリス女王の出席のもとに行なわれた。受賞者は、オリジナル楽器によるバロック音楽演奏の中心的存在である ニコラウス・アーノンクールとグスタフ・レオンハルトの二人であった

 エラスムス賞は、1958年に発足して以来、ヨーロッパの文化諸分野に多大な貢献を成したと思われる人々の中から毎年一人または二人を選んで与えられる。これまでの受賞者の中からわが国でも知名度の高い文化人の名を拾ってみると、哲学のヤスパース、マルセル、心理学のピアジェ、人類学のレヴィ=ストロース、画家のシャガール、映画監督のチャップリン、ベルイマン等が挙げられる。今回のアーノンクールとしオンハルトは、音楽家としては1970年のオリヴィエ・メシアンに続いて二度目、演奏家としては初めての受賞である。これは、古楽器によるバロック音楽の演奏という新しい分野が、ヨーロッパの土壌の中に着実に根を下ろし、かつ彼らの演奏活動が諸々の文化活動の中に占める意義の大きさが一般にも認識されつつあることの一つの証明とも言うべきものであった。

 当夜は、レオンハルトが手兵レオンハルト・コンソ,トを率いたテレマンの《ターフェルムジーク第三集》の序曲と、アーノンクールがチューリヒ歌劇場のメンバーを指揮したモンテヴェルディの短いオペラ《タンクレディとクロリンダの戦い》が演奏され、二人の受賞者によるスピーチも行なわれ、両者の個性・考え方の違い等が浮き彫りにされて大変興味深かった。

 二人の受賞理由としては、この二人が、十九世紀以来の演奏習慣に立脚しながら過去の音楽作品の演奏に最善を尽すという通常のクラシック演奏家とは質的に異なる極めて創造的な芸術家として、何世紀も前に暮かれた作品を掘り起こし、それらの作品が前提としていたいわゆるオリジナル楽器によって、それらの作品の歴史的背景、当時の音楽理論・演奏習慣等を徹底的に研究し、従来の音楽の捉え方とは全く内容的に異なる演奏を行なってきたこと。そして、それを決して古美術を蒐集して展示するような博物館的意味あいにおいて行なうのでなく、その個性的な演奏によって、今日の聴衆をして、今日これらの作品がこれらの形態で演奏されることの今日的意義を納得せしめ、過去の音楽作品の演奏という行為が多かれ少なかれ必然的に直面しなければならない「時代的ギャップの克服」という重大な課題の解決法をまさに端的に提示したこと等が挙げられる。また、過去二十年余りにわたって彼らが録音してきた彪大な数のレコードが積極的に評価されたことは言うまでもない。諸々の室内楽や協奏曲等はもとより、モンテヴェルディのオペラ、マドリガルや宗教作品、シュッツの受難曲、パーセル、ラモー、ヘンデルらのオペラ、バッハのミサや受難曲等、バロック時代が生み出した記念碑的な大作の数々が彼らの演奏によって全く新しい光を当てられ、楽曲本来の蜜きと現代的なセンスによって甦った。それが全世界の音楽を愛する人々に与えた影蟹の大きさは測りしれない。現在テレフンケンによって進められている、アーノンクールとしオンハルトによるバッハのカンタータの全曲録音は、レコード界にも稀にみる壮挙であり、バッハが求めた色彩的な響きや底の知れない多様な音楽表現の全貌が解明されつつあると言っても過言ではなく、バッハについての従来の概念を大幅に変更しつつある。

 

■バロック音楽は美しいだけか!

 昨年秋より、チェンバロ及びオルガンのトン・コープマン、そしてフランス・ブリュッヘンの来日に続いて、アーノンクールとウィーン・コンツェントゥス・ムジクスを初めて日本に迎え、四種類ものプログラムを聴くことが出来たことは、十七・八世紀の音楽に関心を寄せる日本の音楽ファンにとって極めて意義深いことであったと思われる。このインタヴューでは、先ず、コンツェントゥス・ムジクスを結成することになった動機から訊いてみることにした。

アーノンクール(以下H):私が音楽の勉強を初めた時から、と言って差支えないでしょう。私は十八歳の時からウィーンの音楽アカデミーでチェロの勉強を初めたのですが、アカデミーの教育の方法にはすぐ失望させられ、これでは自分自身の室内オーケストラを作らなければ駄目だと痛感したのです。古楽器演奏を専門とする特別な合奏団という考えは少し後になってからのものですが、自分自身の楽団を結成しようということはアカデミー入学直後から考えていました。

渡辺(以下W):何にそんなにがっかりさせられたのですか?

H:これはいまだに私をがっかりさせることなのですが、音楽の教育の中でテクノロジーが最も優先すると考えている人は多いのです。考えられる限り美しい音を出すために最善を尽す、というようなことですね。聴く者の耳障りにならないような……しかし、それだけでは音楽の現状はいつまでも変わらないでしよう。十九世紀以来人々は、ベートーヴェン以前の音楽は十九世紀の音楽のような緊張感に欠けると考えてきました。そこにあるのは、単に大変な量の「美」のみである、と。現代の音楽史が教えるのは、ベートーヴェンをはじめブラームス、ブルックナーあるいはチャイコフスキーなどの巨匠たちこそが感性とか人間的な感情を音楽の中で表現した、ということです。しかるにそれ以前の音楽では、例えばモーツァルトは汚れを知らぬ青年の神、限りない美を体現した若い神のようなものだと考えられています。バッハは音楽上の数学者であり、壮大な音の建築を示してみせた。しかし両者は人間感情の表現に乏しく、彼らの音楽は人間の内面的苦悩とは無縁のものである、と。これはまさしく、私が金輪際、受け容れることの出来ない考え方です。

 モーツァルトの時代、またバッハの時代、あるいはモンテヴェルディやそれ以前の時代の人々もまた、常に力強い生きた人間達であり、そればかりか、それらの人々は、哲学的諸問題に深い関わりを持っていました。ひとは何ゆえに生きるのか、何故ひとは向上を目指さねばならないのか、道徳とは何か、宗教とは何か等々。

 当時、音楽は教育における極めて重要な科目の一つでありました。音楽は、それらの時代においては、人々の生活に安らぎと美を与えるものというよりは、寧ろ一種の「思考」の方法と考えられていたのです。

 思考と一口に言っても、物を考えるにはいるいるな方法があります。たとえば、AとBという二つの事象から、Cという第三の事象を証明する。これはギリシャ・ローマ以来の三段論法ですが、こうした思考方法の中には音楽のはいり込む余地はありません。

 しかし言語を介して概念的に考えることだけが思考のすべてではありません。音楽の表現について「音楽は言葉に直すことの出来ない内容を聴き手に伝える」と言った人があります。音楽は、人の気分・感情などを言葉よりもっと直接的に説明することが出来ます。

 さてそこで、もし音楽が何かを語ったり説明したりすることが出来るのなら、音楽は当然「質問する」という機能をも持っているに違いない、と人は考えます。そこで音楽による対話・問答(英dialogue)が始まります。これは、一種の弁証法(英dialectic、前掲dialogueと語源を同じくする)の音楽的表現への応用と言えるでしょう。

――弁証法とは、古代ギリシャにおいて、対話術から発展した思考方法である。弁証法的思考においては、相互に矛盾する二つの事象の対立が、より大きな全体の中に解消する、とされる。バロック時代には、あらゆる芸術において劇的でダイナミックな感情表現の方法が追及され、そのために、相反する二つの要素を対照させる手法が好んで用いられた。彫刻家のベルニーニは運動原理の異なる二つの人体の組合せによる群像を彫り、カラヴァッジオやル1ペンス、レンブラント等の絵画には光と影の極端な対比が典型的に見られる。音楽においては、不協和音と協和音、フォルテとピアノ、即興性と厳格さなどの対照が新しい表現手段として注目されたのである。

H:このような弁証法的対立、一種の問答、私は、こうしたものが1600年から1800年までの音楽の真髄だと思うのです。そういう考え方はそれ以前にも以後にも無いこの時代特有のものです。十九世紀という時代が、それ以前の音楽のいろいろな要素を消し去ってしまったおかげで、この時代の音楽は今まで大変な誤解を被ってきました。この時代の音楽は今述べたような表現の分野で測りしれない重要性を持ったものであり、さればこそ、私は、この時代の音楽の演奏に、私自身の生涯をこれほどまでに献げ尽してきたわけなのです。

 

 

■二つの《音楽の捧げ物》

――アーノンクールは今年51歳。これほどの大家でありながら、熱い血がたぎるような雄弁を以て自らの真情を語る、ひたむきなまでの情熱の持ち主――その人柄は誠に敬服すべきものであった。アーノンクールやレオンハルトらがこれまで演奏によって示してきたのは、十九世紀以来の音楽の捉え方と訣別しバロック音楽本来の姿を的確に提示することであった。そしてそうした演奏姿勢こそが、彼らの、現代人としての現代的センスをかえって鮮明に浮かび上がらせる原動力となったのである。確かに彼らの演奏におけるアクセント、細部のニュアンスづけ、また古楽器の音色等は耳慣れぬ聴き手を当惑させる要素があるかもしれない。しかしながらそれらの、いわば未知の要素の不可解さを、従来の音楽的常識に基づいて否定的に評価してしまうなら、彼らの演奏が妥協することなく、のっぴきならぬ形で突きつけているものを、しっかり受け止めることは出来ないだろう。イ・ムジチやカール・リヒターのような、十九世紀以来の演奏伝統に基づくバッハやヴィヴァルディの演奏と、これらの古楽器演奏を同じ土俵の上で比較することは、古楽器演奏にとっては極めて公平を欠いたやり方である。何故なら人の趣味趣向には「慣れ」という要素が強く働くからである。西洋人を寿司屋へ連れて行くと、最初は「奇怪な食物だ」などと言っていた人が、何度か通ううちに寿司が大好物になり、日本食に慣れ親しむうちに納豆まで大好きになる等のことがよくある。《ブランデンブルク協奏曲(セオン)》の解説の中でレオンハルトがいみじくも指摘しているように「耳は、人が思いがちなよりも早く慣れるものであり、そうすれば、楽器は演奏者と聴き手にとって再び、文字通り音楽に仕える道具になるのである」。まさにそうした過程を経て、今日の、ヨーロッパの楽壇における古楽器演奏の「市民権獲得」という状況がもたらされたのであった。

H:今回、エラスムス賞を分け合ったレオンハルトと私は古くからの友人でした。初めて会ったのは1949年で、その時は二人共19歳でしたが、会ってから喧嘩を初めるまでに、実に5分とはかからなかった。レオンハルトはその年バーゼル・スコラ・カントルムを卒業し、「バッハの《フーガの技法》が、チェンバロ作品として書かれたことの証明」という有名な卒業論文を発表したばかりだったし、私はちょうどその頃、《フーガの技法》を4つのガンバで演奏することに意欲を燃やしていました。したがって私達の論争はあっという間に深刻この上ない口論にまで発展したのです。

――両者はこの20年余り後、それぞれ 《音楽の捧げ物》を録音(セオン及びテレフンケン)したが、その中の種々のカノンにおいて、可能な限りチェンバロを中心に拵えるレオンハルトと、あくまで旋律楽器で演奏するためにテノール・ガンバまで持ち出すアーノンクールのアプローチの違いは、若さ日の論争の片隣を窺うに足るもので、大変興味深い。

H:私たちはその日以来、ほとんど毎日のように一緒に合奏を続けました、まる5年もの間ね。

――二人の同志は、レオンハルトがウィーンを去った1954年以来、それぞれの故国で独自の道を歩み始める。アーノンクールが、自分の属するウィーン交響楽団の楽員の中に同志を募り、コンツェントゥス・ムジクスを結成したのもこの頃であった。二人はその後も機会ある毎に共演し、バッハの《ヨハネ受難曲》をはじめ、数々のレコードを残したが、中でもブリュッヘンと共演した『リコーダー音楽の楽しみ第一集』とヴィヴァルディ『室内協奏曲集』は記憶に残る名盤であった。

 しかしアーノンクールが最も遺憾なくその真価を発揮しているのはモンテヴェルディ、ラモー、ヘンデル等のオペラやオラトリオであろう。その中でも、モンテヴェルディの《オルフェオ》と《ポッベアの戴冠》を躊躇なく挙げたい。言葉と音楽の理想的な結びつきという占仙において、そしてバロック時代を特徴づける劇的表現において、これらの作品はまさに不滅の金字塔という名に価するから。

 アーノンクールの演奏様式は近年目覚ましい変化を遂げた。《ブランデンブルク協奏曲》や《管弦楽組曲》の頃は、古楽器ならではの響きを楽しんでいるような典雅さと大らかさが特色であり、それなりに物足りなさを感じる部分もあった。それが、ロマンティックな感覚の残滓を清算して新しい方向へ向ったことが確認できるのがバッハの《チェンバロ協奏曲二短調》のレコードであった。その後のバッハの『協奏曲集第二集』では更に一歩進んで、ダイナミックで極めて進行感の強い演奏を行なっている。モーツァルトの『ホルン協奏曲集』も印象に残るレコードで、古楽器ならではの透明な響きと細部のデリケートな表情が素晴らしかった。ただ筆者は、モーツァルトの作品に頻繁に現れる、長調と短調の突然の交替による表情の変化が、アーノンクール言うところの弁証法的対比のモーツァルト的な応用の典型と考えたいのだが、そうした部分では際立った表現は行なわれていない。今なら随分違った演奏の仕方をするだろう。

 最近のアーノンクールは、音楽のドラマティックな側面を強調しているように思われる。その代表選手がヴィヴァルディの《四季》のレコードだ。テンポの設定、フォルテ・ピアノの極端な対比、クレッシェンドの頻用、独奏部の即興的でレシタティーフ風の扱い等、随所に音楽の劇場的効果が発揮されており、初めて聴いた時には度肝を抜かれたのであった。これは、最近のオランダの奏者達が《ブランデンブルク協奏曲》、《四季》、『イタリアのオーボエ協奏曲集』(いずれもセオン)等に見られるように、古楽器ならではの軽快さと、音楽の運びの自然さに重点を置いているのと好対照を成している。古楽器演奏の多様化をまざまざと見る思いがする。

 

■モダン楽器で古楽演奏は可能か?!

 こうした近年のアーノンクールの変貌は、彼が最近頻繁に行なっているオペラの上演やいわゆるモダンの交響楽団の指揮とも関係が深そうだ。また近年、ヨーロッパのあちらこちらに散見されるようになった中途半端な古楽器演奏に、彼は辛嫌な批判を加える。

H:私は、楽器に魔術的な力があると思ったことはありません。楽器は音楽の僕であり、道具なのです。良い演奏のための条件というのは、演奏者一人一人が自分の演奏を心から納得して行ない、その行為に自ら責任を持つことでなければなりません。資質の秀れた演奏家に秀れたオリジナル楽器を与えれば必ず良い演奏が出来る、などということはありません。古楽器の演奏にしばしば劣悪な演奏が多いのは、演奏家が楽器に不慣れであったり、その楽器と表現方法に確信を抱いていなかったりするためであることが多いのです。演奏者の資質が充分でない場合などもはや論外です。秀れたモダン楽器を持って適切な演奏様式を選ぶことによって、楽曲の要求に相当程度近づくことは充分可能なのです。オリジナル楽器を持つことは、演奏の完成における最終段階と言ってよいのです。

 楽器と作品の関わり方にもいろいろな場合があります。オリジナル楽器の響きを本当に要求する作品の場合は、良いオリジナル楽器の奏者が得られなければ、その演奏を断念しなければなりません。しかし作品の力点が主にその作品の構成にある場合、楽器の重要性は主に二義的なものに停まります。

 たとえばモーツァルトの交響曲を演奏する場合、理想的な古楽器のオーケストラはまだどこにもありません。したがってモーツァルトの交響曲を現時点で演奏したいと思ったら、オリジナル楽器による第一級のオーケストラという理想はユートピア的理想であるという現実を認識して、モダンのオーケストラで演奏する以外に道はありません。しかし、そういう状況の中でも、私は古楽器によって得た知識と経験から、オーケストラに的確な指示をすることが出来ます。

 しかし、モンテヴェルディの《オルフェオ》を演奏する時にはオリジナル楽器を使うことが絶対に必要です。ツィンクやレガールに代わるべきモダン楽器が存在しないことからもこれは明らかです。

――9月のアムステルダムにおいても、チューリヒ歌劇場のメンバーはバロック・ヴァイオリンで演奏した。コンサート・マスターの席にはアリス・アーノンクールが座っていた。W:ああいう風に歌劇場のオーケストラにバロック楽器を演奏させるのは大変なことでしょうね?

H:日 しかし彼らは皆、自分自身で納得してやっているんですよ。御存知のようにバロック・ヴァイオリンにもいろいろな弾き方があります。たとえば顎当てを使うとか使わないとかね。私はそれらの中から最少限度必要だと思われるものを抽出して提示します。そして私が示す音楽的あるいは音響的な意見をもとに、彼らは彼ら自身で積極的な音楽作りに取り組んでいくのです。

W:毎年アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団を指揮してマタイ受難曲を演奏なさっていますが、そうした場合についてはどうなのですか?

H:最近、コンセルトヘボウ管弦楽団とモーツァルトのハフナー交響曲などのオーケストラ曲を録音しましたよ。オランダのオーケストラは実に柔軟性がありますね。ミラノのスカラ座を振った時には、最初の反応は反感に満ちたものでした。しかし10分後には、それ興味と熱意に変わりました。そういう点では、ドイツのオーケストラが一番骨が折れますが、それでも2回目のりハーサルからは興味を持ってくれています。

 

 

■技術は音楽の僕であって音楽そのものではありません!

――今回の来日公演では、リハーサルを見学する好機に恵まれた。コンツェントゥス・ムジクスのリハーサルは、ヴァイオリン群をまとめるアリス夫人と、管楽器群を押えるユルク・シェフトライン、そしてアーノンクールの三者が中心になって進められる。最終的にはアーノンクールが絶対的な支配権を掌握しているのだが、終始和気藹々としたムードで進行するのが信じられないほどだ。「それがこのグループがこんなに長く続いている理由なのですよ」とオーボエのシェフトラインは言う。「今までにやめていった人はいます。しかし喧嘩してやめた人は一人もいません。しかも音楽は、結局はボスの音楽なのです!」と、同年輩のボスを自慢する。この、指揮者として楽員を心服させ、しかも敬愛されるという、人間集団のまとめ方における非凡な才と人格が、今日の巨匠アーノンクールを作っているのだ。

H:演奏家は、楽曲の作られた時代についているいるなことを知・りなければなりません。それがどういう時代だったか、当時の哲学、当時のものの考え方、芸術等々。

 当時のいろいろな芸術作品は、その時代の考え方・感じ方を知るのに役立ちます。もし私が当時の教会や城館等の建築を理解出来ないなら、私は音楽を理解することも出来ないでしょう。「時代」は個々の芸術家の手を通じて、その時代の一般的思想を表現します。画家や彫刻家、音楽家の表現するものは、一つの時代精神がそれぞれの分野で具体化されたものにほかならないのです。

 また、当時の音楽作品が当時の人々にどのように受け容れられたかを知ることも重要なことです。たとえば、ここに1640年に作曲された作品があるとします。私は知りたい。その作品はその1640年にはどのように演奏されたのだろうか? またその作品は当時の人々にとってどういう点で重要だったのだろうか? そして私は考えます。その作品の演奏によって今日の人々に一体何を伝えることが出来るだろうか、と。現代の演奏家の貢務は、現代の聴衆に何かを伝えることであって、単に300年前にどういう演奏が行なわれたかを示すということであってはならないのです。

――『カンタータ全集』の序文の中で、彼はその考え方を次のような言葉で表現している。「私達のこの新しい演奏は、久しい昔に消滅したものへ戻ろうという試みではなく、この古く偉大な音楽が、一般のクラシック・オーケストラの響きと歴史的に混同されて来たことから解き放とうという試みである。」

H:したがって「博物館的」とか「学究的」とかいった批評ほど私を憤慨させるものはありません。そんなことなら、私はとっくの昔に古楽器の演奏などやめてしまったことでしょう。批評家達は仕事が多過ぎて、いちいちの演奏にじっくり耳を傾けることなど出来ないのでしょう。そして彼らの理解を妨げているのは、先入観と悪い音楽教育の結果であることが多いのです。

 しかし音楽が、作曲当時考えられていたように、生活に潤いをもたらすだけでなく、何かを伝えるものならば、私達には、そうした心の準備の出来た受け取り手が必要です。これは大変難しいことですが、私は、一般の聴衆の中に私達の真意を理解してくれる聴き手が大勢いることを確信しています。

――アーノンクールの言葉の中には、ウィーンとザルツブルクという、世界中で最も保守的な音楽伝統の根強い地域を基盤に、新しい原理を掲げて闘いぬいてきた彼の、力強いエネルギーと確信が減っている。

W:最後に、日本の聴衆の皆さんに対するメッセージをお聞かせ願えれば、と思いますが・・・・・。

H:これは、私が、エラスムス賞授賞式の際のスピーチでも強調したことで、世界中どこへ行っても声を大にして言いたいことなのですが、現在の音楽はテクノロジーの偏重に陥っています。この傾向は入変危険なものです。

 ほとんどの音楽学校における教育はテクノロジーに基づくものです。若い音楽家達は音楽を教わるのではなく、楽器を最良の方法で演奏する方法を教えられています。人は、楽器が巧妙に演奏され、作曲家の書いたスコアが完璧に演奏されれば、そこに音楽が現れると思っていますが、それは大変な誤りです。適切な音楽教育においては、若い音楽家が学ばなければならないのは音楽の語法であり、彼らは音楽の語るものを理解しなければなりません。それがしっかり解った上でこそ、テクノロジーは音楽に奉仕することが出来るのです。私は技術的に完全な演奏が好きです。しかし技術は音楽の僕であって音楽そのものではありません。

 私達の日常生活の中で、生活を快適にするためのテクノロジーが一般に与えられている重要性は大変なものです。そこでは、自動車やカメラ、その他生活を便利にするあらゆるものが大変重視されています。

 こうした物質文明の氾濫の中で、音楽は、単に演奏会のある一晩の心地よさを与えるに過ぎないという位置へ追いやられてしまっています。時間の余裕があるなら、過去数十年間の原子物理学の成果を学校で勉強すべきだと人は考えがちです。しかし私は、それは大変危険な考え方だと思います。教育とは人間性を高めるためのものであるはずです。たとえば、物理学はニュートンの古典的物理学に帰結します。関心のある人は独力でその後の発見との間のギャップを埋めることが出来るでしょう。学生は、美術や建築や音楽についてはほとんど学ぶことがありません。しかるに音楽は、西洋文化の長い歴史の中で、常に、一つの特殊な思考方法と考えられ、教育の中の重要な位置を占めてきたのです。

この危険な傾向を再び改めることが出来ないならば、われわれ人間は文化を失い、人間性を失って、ロボットと化してしまうでしょう。

W:音楽を愛する人々は、そういうことを、無意識的にせよ、敏感に感じているのではないでしょうか? あなた方の演奏の中に、そうした現代文明の行き方に対する無言のアンナテーゼを聴きとっている人は意外に多いのではないでしょうか? そしてそういう人々の存任が、古楽器演奏が大幅に受け容れられるようになってきたという事実を支えてきたのではないでしょうか?                                                          [完]

 

30年間待ち望んだ《マタイ》!〜アーノンクールの新盤に寄せて〜

 

アーノンクールの著書

『古楽とは何か〜言語としての音楽』(樋口隆一・許光俊訳)音楽之友社

『音楽は対話である〜モンテヴェルディ・バッハ・モーツァルトを巡る考察』

       (那須田務・本多優之訳)アカデミア・ミュージック株式会社