30年間待ち望んだ《マタイ》!

〜アーノンクールの新盤に寄せて〜


アーノンクールと筆者(1980年の来日時)

 

 物事にはタイミングというものがある。つい最近(2001年3月30日)、12年ぶりに《ヨハネ受難曲》の通奏低音を弾いた。明治学院で、バッハ研究家として盛名を馳せておられる樋口隆一氏が昨年から、重要文化財にもなっている同大学のチャペルで始められたバッハ・アカデミーのコンサート・シリーズに、こちらからお願いして参加させて頂いたのである。そして、リサイタルの直前にも拘わらず、頭の中が受難曲でいっぱいになって、長年戸棚の奥にしまい込んで埃をかぶっていたカール・リヒターのレコードなども引っ張り出してみたりしていた折りも折りのこと、レコード店で、発売されたばかりのアーノンクールの《マタイ》の新盤(2000年5月の録音)が目に留まり、早速聴いてみたのである。

 

 聴いて驚いた。古楽器によるバッハを聴いて感動する、等ということはここ久しくなかったことだったからである。実際のところ、この演奏は私が30年の間、待ちに待ったものであった。その間、随分いろいろな《マタイ》を聴いた。しかし、録音でも実演でも、私の求めるような演奏に出会うことは出来なかった。今回のアーノンクールの新録音を聴いていて、第2部の途中まで来たところで、私はまるで稲妻に打たれたような興奮と感動に襲われた。途端に、以前、やはり《マタイ》を聴いていて同じような感覚を味わったことを思い出したのである。

 

 《マタイ》というのは、私にとっては特別な曲である。高校3年の時、初めてリヒターの旧盤(1958年録音)を聴いて電撃的なショックを受けた。それまでの私は熱烈なオペラ・ファンで、ヴァーグナーとヴェルディに特に入れ込んでいた。それがバッハ党に一変した。受験勉強そっちのけで、同じリヒターの《ヨハネ受難曲》、《ロ短調ミサ曲》、《マニフィカート》、《クリスマス・オラトリオ》などを聴き漁った。高校のクラスメートたちにはバロック・ファンが多かったので、《ブランデンブルク協奏曲》や《音楽の捧げ物》といった器楽作品には以前から親しんでいたのだが、声楽曲には関心が及んでいなかった。「宗教作品」ということも、腰が引けていたことの理由の1つであったのかも知れない。「渡邊も、ヴァーグナーばかりじゃなくて、バッハの《マタイ》でも聴いたら?」と薦めてくれた友人も、自分のアドバイスのあまりの効果覿面ぶりにちょっと面喰らったようだった。1968年のことである。

 翌69年の春には、リヒターがミュンヘン・バッハ合唱団と管弦楽団を率いて初来日し、両受難曲や《ロ短調ミサ曲》などを演奏した。私は東京での彼らの公演は全部聴きに行って、毎晩感動の連続だった。エルンスト・ヘフリガーの福音史家の名唱には、忘れがたい印象を刻みつけられた。

 

 今から丁度30年前――1971年の4月に私はチェンバロを初めて弾いて、チェンバロ奏者への道を歩むことを決意した。その後まもなく、「古楽器演奏」というものの存在を知るとその方向へ急速に傾斜するようになり、その結果、リヒターのような流儀のバッハ演奏とは自然、距離を置くようになって行った。その頃、古楽器による宗教曲のレコードも続々発売されつつあった。私は、「オリジナル楽器による最初の録音」と銘打たれた一連のテレフンケンのレコード等を聴き漁ったが、かつてリヒターの演奏から受けた感動やインパクトに比肩するものはなく、我ながら複雑な心持ちであったことをよく覚えている。

 

 1973年にオランダに留学すると、当時はまだ駆け出しだったフィリップ・ヘレウェヘとトン・コープマンが共同で宗教曲を演奏しているのが目に付いた。彼らの間では、ヘレウェヘが合唱を指揮し、コープマンが器楽をリードする、という分業が成立していた。彼らの演奏は、小規模な作品では非常に印象的なものもあったが、バッハの受難曲ともなると、作品全体の統一感に欠けていたり、歌手の質が揃わなかったりで、とても期待したほどの満足が得られないことが多かった。しかし、この時期のオランダの古楽界の急成長ぶりは目覚ましく、印象深い演奏に接する機会も年々増えて行った――バッハの「受難曲」を除いては。

 


音楽について熱っぽく語るアーノンクール(1980年)

 

 

 今回のアーノンクールの演奏は、粒ぞろいの独唱陣に加えて、合唱もよいし、オーケストラもよい。しかしその本領は、そうした個別の良さを超えたところにある。特に裁判からペテロの否認、ユダの首吊りに至る部分はドラマティックな力がみなぎっているが、叙情的な部分、内省的な要素も決して置き去りにされることはなく、全体としては極めてスケールが大きい。要するに、平板な言い方になってしまうが、統一性がとれていて細部も魅力的であり、一点非の打ち所がない。そして、随所で熱く歌われるコラールが、また堪らない。今まさに眼前に展開している聖書の文句による受難のドラマに対する信徒たちの熱い思いが、ほとばしり出る奔流のように歌われると、聴いている側としてはもう、激しく心を揺さぶられるしかないのである。

 

 粒ぞろいの独唱陣の中でも特に優れた力を発揮しているのが、福音史家のクリストフ・プレガルディエン、イエスのマティアス・ゲルネ、そして第1群のアルトを受け持つベルナルダ・フィンクである。はじめレコード店で独唱陣の顔ぶれを見たときには、アーノンクールがわざわざプレガルディエンを選んだことにやや意外の感をもった。それは、それはアーノンクールの演奏に対してあくの強いドラマティックな演奏を予想したのに対し、これまで私の接したプレガルディエンの福音史家は、レオンハルトの録音(1989年)といい、バッハ・コレギウム・ジャパンの生演奏(94年)といい、決してドラマティックな歌唱を期待させるものではなかったからである。しかし、私の予想は見事に裏切られた。アーノンクールの指揮は、あくの強いドラマティックな力強さというような単純な次元よりもはるかに高い境地を獲得しており、その下でのプレガルディエンは、ある時はドラマティックな、またある時は優しい語り口で緩急自在、いまや円熟の頂点にある。今回のアーノンクールの名演も、このような非凡な福音史家あってこそのものである。

 プレガルディエンは、今から丁度10年前(91年)の栃木[蔵の街]音楽祭に私の提唱で招聘し、宇田川貞夫の指揮による《ロ短調ミサ曲》のソロを歌ってもらった。また、私はその時、バルバラ・シュリックとマックス・ファン・エグモントと彼のためにモーツァルトの歌曲の演奏会――この年はモーツァルトの没後200年に当たっていた――を企画し、自分でもシューベルトの《美しき水車小屋の娘》で伴奏した。歌を歌っていないときの彼は、好んで冗談を言う愉快な人物で、モーツァルトの二重唱では《コジ・ファン・トゥッテ》のフェランドのパートを歌って、喜劇役者としての側面ものぞかせた。みずみずしいリリックな歌声がすこぶる新鮮な印象を与えたが、今の彼は、あの頃に比べると比較にならないほど大きくなった、という、彼のファンなら誰でも知っていることを今更ながら痛感した次第である。



1991年の『モーツァルトの歌曲の夕べ』
左からプレガルディエン、崎川晶子、シュリック、エグモント

 

 マティアス・ゲルネは、威圧的でも重々しくもない優しいイエスを自然な語り口で歌っている。リート歌手の歌うイエスとしては、かつて、フルトヴェングラーのライヴ盤で歌っていたまだ20代のフィッシャー=ディースカウの優れた歌唱を真っ先に思い出す――勿論、フィッシャー=ディースカウを単なる「リート歌手」に限定してしまうつもりはないが・・・。このマティアス・ゲルネという人は、晩年の佐々木節夫さんが「最近、こんなにいいリートを歌う人が出てきたよ」と教えてくれた。今回、慈愛に満ちたイエスを歌う彼の歌声を聴いていたら、今は亡き佐々木さんの面影が浮かんで来た。

 

 ベルナルダ・フィンクは素晴らしく情感の豊かな歌で感動させる。アルトの1というパートは、独唱パートの中でも特に重要なものである。まず第1部の最初のアリア「悔いの悲しみは罪の心を千々にさいなむBuss' und Reu' 」があり、第2部の開始曲である合唱付アリア、そして全曲中でも屈指の泣かせ場の1つであるペテロの否認の場面のアリア「憐れみたまえ、わが神よErbarme dich, mein Gott」、そして、磔刑の場面のゴルゴタのレチタティーヴォとアリア、という具合で、正に演奏全体の成否を担っている。フィンクは、92年の「東京の夏」音楽祭で、ルネ・ヤーコプス率いるモンペリエ・オペラの一員として来日し、モンテヴェルディの《ユリシーズの帰還》で主役のペネーロペ(ユリシーズの妻)を演じ、感動的な名唱を聴かせた。《マタイ》におけるアルトのソロとしては、ヘレウェヘの新盤(98年の録音)で聴かせたカウンターテナーのアンドレアス・ショルの世紀の美声が記憶に新しい。アリアだけを取り出して聴くなら「ショルの方が好き」という人も少なくなかろうが、全曲を通して聴くなら、今回のフィンクのエモーショナルな歌唱は圧倒的である。

 余談だが、「東京の夏」の《ユリシーズ》で、ペネーロペの夫ユリシーズを演じたのがプレガルディエンであった。こちらの方は、どうにもモンテヴェルディには似合わない声質で、いかにも「意外性のセンセーションを狙った配役」という、現代的コマーシャリズムの悪臭を感じさせた。当人は、不慣れな役どころを頑張ってこなし、相当に立派な歌を歌っていたので、友人としては、終演後に会った時に何と感想を述べたらよいか戸惑ったものである。

 

 さて、今回の演奏に接して、非常に考えさせられたのはテンポの問題である。アーノンクールは総じて速めのテンポでどんどん進むが、「軽快」というのとは些か趣を異にする。十分な重量感を感じさせるのである。冒頭合唱など、リヒターの旧盤の9分50秒、レオンハルトの8分25秒は言うに及ばず、全体に速めのテンポで押すヘレウェヘの新盤(6分58秒)さえ凌ぐ6分46秒しかかかっていない(因みに、ヘレウェヘの旧盤は7分8秒)。私ならこうしたいと思うテンポとは随分差のある曲が多いが、ほとんど不満を感じさせない。先に挙げた情感あふれるアルトのアリア「憐れみたまえ」にしても、リヒターの旧盤の7分44秒、レオンハルトの6分41秒、ヘレウェヘの新盤の6分37秒に対して、何と6分3秒という速さである。特に叙情的な曲というのは、速すぎると問題が生じる場合が多い。このアリアなど、ヴァイオリンのオブリガートが忙しく聞こえたらぶち壊しなのだが、そうした不満を全く感じさせない手腕は見事の一語につきる。

 私は、常々、物理的な速度は、音楽上の「時間(テンポ)」とは別の次元に属すると考えて来た。だが、それは、テンポのおそさには、その演奏が真に深い内容をもっている場合には、容易に慣れることが出来る――とか、速すぎるテンポがもたらす混乱は演奏の明晰さを損なう――とか、またあるいは、テンポを速くとることは、往々にして、表面上の爽快感によって細部における表現力の不足を覆い隠す――というような場合が多かった。何れも、この演奏から教えられたこととは全く逆の方向である。その意味をよく考えてみることは、今後の私の宿題になりそうだ。

 

 しかしながら、この演奏にも、特に終わりに近い幾つかの部分では、疑問ないし不満が残った。それは、全体としての感銘の深さを妨げるほど大きなものではないが、それぞれの部分に私が求めるものとは随分大きな距離がある。私にとって最も大きな不満となったのは、バスのアリア「わが心よ、おのれを潔めよMache dich, mein Herze, rein」のテンポが余りにも速く、ここではさすがにせわしない印象がこのアリアに対する感動を著しく損ねている、と思うのである。このアリアの所要時間は5分52秒で、それより3秒短いヘレウェヘの新盤もまた、同じようにせわしない印象である。レオンハルトの6分14秒は、物理的な速度としてはそれほど大きな違いはないがこのテンポなら納得できる。ただレオンハルト盤は独唱者の歌唱に大きな不満がある。私にとって最も感動的だったのはリヒターの旧盤におけるフィッシャー=ディースカウの歌唱で、こちらは7分7秒もかかっているが、いま聴き直してみても涙が出るほど強く心を動かされる。アーノンクールの最初の録音(70年9月)におけるマックス・ファン・エグモントの歌唱もまた、滋味の深い素晴らしいものだ。この演奏には、他にも印象的な部分がたくさんあり、初めて聴いた頃よりもいま聴き直してみるとよほど強い感銘を受ける。それは私自身の変化や最近の古楽事情など様々な要因がそう感じさせるのであろうが、「オリジナル楽器による初録音」という歴史的価値以上に、聴く者の魂に強く訴えかける力をもっている。CDになっていないのがいかにも残念である。

 

 もう一つの不満は、磔刑の部分の最後で、百卒長以下の群衆による合唱が「げにこの人は神の子なりきWahrlich, dieser ist Gottes Sohn gewesen. 」と歌う部分である。リヒターの旧盤では、ここの場面は、「それに先立つ3時間が全てこの瞬間のためであったのか」と思わせるほど感動的であり、フルトヴェングラーのライヴ盤でも極めて印象深かったのに対し、アーノンクールのこの新盤では、あまりにも素っ気なく、あっさりと通り過ぎてしまう。ヘレウェヘの新盤でもやはり同じような印象だ。レオンハルトの演奏では、リヒターやフルトヴェングラーのようにおそくはないが、決してクールな感じではなく、印象深く歌われている。前後の間の取り方なども、感銘を与えるのに寄与している。アーノンクールも、初録音のレコードでは、この部分を随分印象的に扱っているので、してみると解釈が変ったのかとも思えるが、私にはこの部分を素っ気なく通り過ぎてよい理由を発見することは出来ない。

 

 終結合唱「われら涙流しつつひざまづきWir setzen uns mit Traenen nieder」は不満というほどではないのだが、5分12秒はいかにも速い。ヘレウェヘの新盤も同じようなテンポである。この終曲で最も深い感銘を与えられたのはレオンハルトの演奏で、リヒターより30秒以上も長く6分57秒もかけているが、おそいからよいのではなく、その静けさの中に立ち帰って行くような佇まいがいかにもこの作品の終わりにふさわしい印象を与えるのである。

 

 第2部の中程に位置するソプラノのアリア「愛よりしてわが救い主は死にたまわんとすAus Liebe will mein Heiland sterben」は全曲の中心を為す重要なアリアとされているだけでなく音楽としても素晴らしいものだが、このアリアの演奏はまことに問題である。バッハの時代の習慣に則ってボーイ・ソプラノに歌わせているのはアーノンクールの旧盤とレオンハルトだけだが、特にレオンハルトの演奏が素晴らしい。優れた女性のソプラノ歌手と比べるとボーイ・ソプラノにはどうしても不安定な感じがあるが、レオンハルト盤でソロを受け持っているテルツ少年合唱団のソリストはなかなか大したものである。バルト・クイケンのトラヴェルソのソロもよい。この曲を女性のソプラノ歌手が歌うと、どんなにうまく歌っても、何か現世的な感じがして具合が悪い。ボーイ・ソプラノの清澄さこそバッハの求めた響きなのだと痛感させる所以だが、ボーイ・ソプラノには、その不安定さから来る居心地の悪さが払拭できない場合が非常に多い。レオンハルト盤では、第2部の初めの方でテノールが歌うアリア「忍べよ、忍べよ、偽りの舌われを刺すときGeduld, Geduld, Wenn mich falsche Zungen stechen 」におけるジョン・エルウィスが、忘れがたい名演だ。このように、本当に突き刺すような痛みを感じさせる演奏は、他にはほとんど例がない。

 

 このように、レオンハルト盤には印象的な部分がたくさんある。プレガルディエンののびやかな福音史家も魅力的だし、マックス・ファン・エグモントの静かな慈愛に満ちたイエスは他の追随を許さない。しかし、強弱節を強調したコラールはいかにも儀式張っていて、なかなか近寄りがたい印象を拭い去れない。ヘレウェヘの新盤も素晴らしい部分は多いのだが、受難のドラマとしては、やや求心的な力に欠けるという印象がある。

 そこに、このアーノンクールの、望んでも望み得ないほどの名演の登場はまことに大きな意味がある。この演奏は、20世紀の最後を飾るバッハ演奏として、また21世紀の始まりを飾るCDとして、長く人々に記憶されるものとなるだろう。


アーノンクール1980年来日時のインタヴュー

(「レコード芸術」1981年2月号)

 

アーノンクールの著書

『古楽とは何か〜言語としての音楽』(樋口隆一・許光俊訳)音楽之友社

『音楽は対話である〜モンテヴェルディ・バッハ・モーツァルトを巡る考察』

       (那須田務・本多優之訳)アカデミア・ミュージック株式会社


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