ベートーヴェンと「不滅の恋人」 (コンサート・プログラムより、1998年4月) ベートーヴェンより《不滅の恋人》に宛てた3通の手紙(蛯原徳夫・訳)
[1] 7月6日、朝
私の天使、私のすべて、私の私自身よ――今日はただ数言を、しかも(あなたの)鉛筆で書きます。――明日にならなければ私の宿もはっきりと決まらないでしょう。――こんなことは無意義な暇つぶしです。――けれども、こうなるよりほかはない今となっても、なぜこのような深い哀しみが湧くのでしょう。――私たちの愛はいろいろなものを犠牲にしたり、なにも欲してはならぬと考えたりすることによって、はじめて可能ではないのでしょうか。あなたがすっかり私のものではなく、また私もすっかりあなたのものではない、という以外に、今はどうしようもないではありませんか。――どうぞ、美しい自然でも眺めて、あなたのお心を静めてから、どうすべきかをお考えなさい。――愛はすべてを要求し、しかもそれは当然のことであって、それはあなたを持つ私にとっても、私を持つあなたにとっても同様です。――けれどもあなたは、私が私のためとあなたのためとに生きなければならないということを、すぐにお忘れになります。――もし私たちがすっかり結びつけたら、あなたも私もこんな苦しみを味わわないことでしょう。――私の旅行はさんざんでした。昨日の朝の四時にやっと当地に着いたのです。馬が足りなかったので、駅馬車は別の道を通ったのですが、それはひどい道でした。終点の一つ手前の駅で、夜は旅行をしないほうがいいと言われました。――通らなければならぬ森が怖いぞと威かされましたが、私はなおさら通ってみたくなりました。そしてそれは私の間違いだったのです。そのひどい道で馬車が毀れてしまうところでした。けれどもひどいと言っても、道の地面が凹んでいるだけなのです。――その時私が傭っていたような馭者がいなかったら、私はおそらく途中で立往生をしてしまったことでしょう。エステルハージはほかのふつうの道を通られたのですが、私は四頭立てだったのに八頭立てで、しかも私と同じ運命に遭われました。――けれども私は障害をうまく乗り越えたときには、いつものように嬉しくもありました。――さて外部的なことはここで止めて、さっそく内面的なことに戻りましょう。私たちは近いうちにきっと会えるでしょう。ここ数日間に私は自分の生活についていろいろ考えましたが、それを今日もあなたにお知らせすることはできません。――もし私たちの心がいつもぴったりと寄り添っていれば、そんなことなどを考えたりする必要もないでしょう。心があまりにもいっぱいすぎて、あなたになにも申し上げられません。――ああ、言葉などはまったくなんの役にも立たないと思える時があります。――明るい気持ちになってください。――いつまでも私に忠実な人、私の唯一の宝、私のすべて、であってください。それ以上のことについては、私たちがどうあらねばならぬかということや、どのような成りゆきになるかというこについて、神様が決めてくださるでしょう。
あなたの忠実なルートヴィヒ
[2] 7月6日、月曜日、夜
私の最もいとしい人であるあなたは悩んでいられる。――手紙は早朝に出さなければいけないことに今気づきました。月曜日と――木曜日――この両日だけ当地からKへ駅馬者が出るのです。――あなたは悩んでいられる。――ああ、私がいるところには、あなたも私といっしょにいるのです。私とあなたといっしょにいるのです。あなたといっしょに暮せるようにしましょう。あなたのいない、このような生活!はたまりません!――ここかしこで人の好意に悩まされるのですが、私としてはそれを受けたいとも思っていず、また受けるに足りる自分とも思っていないのです。――人間が人間に対して卑屈になること――それが私には耐えられないのです。それにこの宇宙全体の中における自分というものを考えてみると、この私など何者でしょう。――また人が最も偉大な人間などと言っている人なども何者でしょう。――けれどもそうは言っても人間の神性というものは認められます。――土曜日にならなければ私の最初のお便りをあなたがお受け取りにならないだろう、と思うと泣きたくなります。――どんなにあなたが私をお愛しくださっているとしても、私はそのあなたよりももっと強くあなたを愛しています。――私には隠し立てをなさらないでください。――おやすみなさい。――私も湯治者らしく寝なければなりません。ああ――こんなに近くもあり、こんなに遠くもあろうとは。私たちの愛はほんとうに天井の殿堂ではないでしょうか。――また空の円天井のように堅固ではないでしょうか。
[3] 7月7日、早朝――まだ床にいるうちときから、あなたへの想いがつのります。わが不滅の恋人よ。運命が私たちの願いを聴き入れてくれるのを期待しながら、私の想いはうれしくなったり悲しくなったりします。――あなたと完全にいっしょに暮すか、それともすっかり離れきってしまうか、そのどちらかでなければ私は生きてゆけません。私があなたの腕の中に飛んでゆき、そこですっかり故郷に帰ったように思い、あなたにかしずかれて、私の魂を精霊の国へ送れるようになるまでは、私は遠くまで彷徨おうという決心をさえしました。――ああ、悲しいことにそうしなければなりません。――あなたは私がどんなにあなたに忠実であるかをご存じですから、いつも安心していられるわけです。他の女性が私の心を占めるなどということは決してありません。決して、決してあり得ません。――ああ神よ、愛しているものからなぜこのように離れていなければならないのでしょうか。私の現在のV(ウィーン)での生活もみじめなものです。――あなたの愛は私を最も幸福な人間とも最も不幸な人間ともしました。――現在の私ぐらいの年配になると、生活にある程度の一律さや平静さを欲するようになるものです。――私たち二人の仲にもそれが得られるでしょうか。――私の天使よ、私はいま駅馬車が毎日出ると知りました。あなたがこの便りを早くお受け取りになれるように、これでペンをおかなければなりません。――冷静にしていてください。私たちの現状を静観しているほかには、いっしょに暮すという私たちの目的を達する道はないのです。――冷静にしていてください。――私を愛していてください。――今日も――昨日も――あなたと共に抱くこの憧れは、涙に濡れました。――あなたと共に――あなたと共に――私の生命よ――私の一切よ――さようなら――ああ、いつまでも私を愛してください。――ほんとうに忠実な心を見忘れないでください
- あなたの愛するLの。
- 永遠にあなたのもの
- 永遠に私のもの
- 永遠に私たちのもの
ベートーヴェンの手記より
[4] (1812年9月あるいは10月)
諦め、お前の運命に対する心の奥底における諦め。・・・・・ああ苦しい闘い。遠方への旅行の準備のために、なおすべきことをすべて為つくすこと。・・・・・お前の最も大切な願いを確実に果たすことができるようになれるものを、すべてお前は見出さねばならぬ。あらゆるものに反抗してもそれを奪い取り、これを絶対的に守り抜かねばならぬ。
(「遠方への旅行」とは、翌年にメルツェルと共にすることを予定していたイギリスへの旅行のことであろう。これは、弟カールの病のために実現しなかった。)
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