Cembalo, Clavicordo & Fortepiano
 チェンバロの歴史と名器[第1集]/渡邊順生
 解説


 □「名器」の条件
 □使用楽器について
 □「チェンバロ」の「モデル」はリュート
 □DISC I イタリアのチェンバロ
 ■DISC II フランダースのチェンバロ
 □曲目一覧

★★DISC II:フランダースのチェンバロ★★
 2枚目のディスクに収録された曲目の作曲者は、ファーナビーとJ・S・バッハを除いて、ルッカース一族のチェンバロと直接関わりのあった作曲家ばかりである。

フィリップスとスウェーリンク、ファーナビー
□ピーター・フィリップスは熱心なカトリック信者だったので、カトリックの守護者をもって自ら任じるスペインとイギリスの政治的対立が顕著になった1580年代にイギリスを逃れてローマに赴き、オランダではスウェーリンクと親交を結んだ。その後、ハプスブルク家の大公でスペインのフェリペ2世の娘婿でもあったアルベルトのブリュッセルの宮廷に仕えた。この宮廷にはヨハネス・ルッカースが出入りしており、フィリップスも当然、ルッカースのチェンバロに親しんだことであろう。
 ジュリオ・カッチーニの《アマリッリ美わし》はイタリアの初期バロックを代表する有名な作品。通奏低音の伴奏による独唱歌曲だが、通奏低音楽器としてはリュートが最もふさわしい。フィリップスはこの原曲にかなり自由なアレンジを施している。
□オランダのヤン・ピーテルソーン・スウェーリンクは、フランドル楽派の流れを汲む最後の大作曲家である。また、彼の育てたドイツ人の弟子たちは「北ドイツオルガン楽派」と呼ばれ、バッハにも大きな影響を与えたのである。スウェーリンクはオルガンとチェンバロの名手で「アムステルダムのオルフェウス」という異名をとった。先に述べたように、1604年にアントワープへ赴き、彼の雇い主であるアムステルダム市のためにルッカースのチェンバロを購入した。
 《涙のパヴァーヌ》は、バードによる編曲と比べるとずっと単純で、原曲の雰囲気をより忠実に伝えていると言えるだろう。《イ調のトッカータ》は、リュート的な響きを求めた曲ではないが、ルッカースのチェンバロにゆかりのある作品としては欠かすことの出来ない、スウェーリンクの代表作の1つである。
□ジャイルズ・ファーナビーは、同時代のヴァージナリスト達の中でも独創的な作曲家であった。ルッカースのチェンバロとの関わりについては何の記録も残っていないが、彼の活躍した時代には、イギリスにもルッカース一族のチェンバロが相当入っていたであろうから、彼がそれらの楽器の1台を所有していたり、あるいは親しい知人の家などでよく弾いたとしても、全く驚くには当たらない。《スパニョレッタ》はごく短い小品で彼の真価を問うような規模のものではないが、溢れるような才気と、バードの作品に共通する明るい響きが特徴的である。

フローベルガーの作品
 ヨハン・ヤーコプ・フローベルガーは、チェンバロのための作品に関する限り、J・S・バッハ以前のドイツにおける最大の作曲家である。シュトゥットガルト生まれだが、神聖ローマ皇帝フェルディナント3世の覚えめでたく、ローマへの留学を許されて晩年のフレスコバルディに学んだ。ハプスブルク家のウィーンの宮廷にもルッカースのチェンバロの1台や2台、無かった筈はなかろうが、フローベルガーは一時、皇帝の弟であるブリュッセルの大公の下に配属されているので、ブリュッセルでは確実にルッカースのチェンバロを弾いたであろう。
 彼の「トッカータ」は、師のフレスコバルディから承け継いだ様式によっているが、フレスコバルディのトッカータには、楽曲形式上のパターン化がほとんど見られないのに対し、フローベルガーのトッカータでは、全体は4つないし5つの部分に分けられ、和音と音階的パッセージによる自由な部分と対位法的な部分が交替する。
 彼の作品中とびきり美しいのは、リュート風の書法によるフランス様式の組曲――なかんずくその導入楽章であるアルマンド――と何曲かの「トンボー(墓)」である。これは、17世紀前半にリュート奏者達が始めた私的な追悼曲で、偉人や著名な人々の死を悼む「詩」の形式を音楽に応用したものであった。世紀の後半には、この様式はチェンバロやその他の楽器にも広がって行った。今よりも死がずっと身近であったこの時代には、即興的な自由なスタイルと美しい和音の響きのうちに個人的な悲しみの情を表現したトンボーが数多く書かれたのである。フローベルガーは、「トンボー」「哀歌」などと題された典型的なトンボーの他にも、必ずしも他人の死に寄せたものではない「瞑想」あるいは「嘆き」などの表題の下に、同様のスタイルによる作品を書いている。
 《組曲第2番》は、フローベルガーが1649年に皇帝フェルディナント3世に献呈した「第2巻」というタイトルをもつ曲集に含まれている作品である。彼の組曲中でも特に低い音域で書かれており、中音域に特徴のあるルッカースのチェンバロでは特別魅力的に響く。後(1656年)に同じ皇帝に捧げた「第4巻」中の6つの組曲では、フローベルガーはアルマンド〜ジーグ〜クーラント〜サラバンドという楽章配列を採っているが、この第2番の組曲でのみ、より一般的な、ジーグを最後に置く配列を採用している。
 《組曲第20番》は、フローベルガーの組曲中でも最高傑作の1つ。「瞑想」は先にも述べたように、一種のトンボーと考えられるが、自らのためにトンボーを書いたのは恐らくフローベルガー唯一人であろう。この作品は、北ドイツで活躍したオルガニスト、マティアス・ヴェックマン(c1616-1674)の筆者譜で残っているので、フローベルガーがこの作品をヴェックマンに贈った可能性が指摘されている。フローベルガーは、1650年頃にドレスデンを訪れ、ザクセン選帝侯の宮廷で、ヴェックマンと鍵盤楽器の腕競べをしたと伝えられる。これを機に、南北ドイツを代表するこの二人の鍵盤の名手たちは親交を結んだのである。
 《フェルディナント3世の死に寄せる哀歌》もまたフローベルガーの傑作中の傑作である。典型的なトンボーだが、彼の他のトンボーやそれに類する作品がアルマンドの形式によっているのに対して、この作品だけは、3部分から成るゆっくりした舞曲「パヴァーヌ」の形式によっている。この曲の終わりでは、高いFの音を3回打ち鳴らす、という、バロック期に特徴的な象徴法が用いられている。

17世紀フランスのチェンバロ音楽
 17世紀のフランスには古くからのチェンバロ製作伝統があり、ルッカースとはかなり性格の異なる響きをもったチェンバロが作られていたが、王家や貴族達のステータス・シンボルというだけでなく、音楽家の中にも好んでルッカース一族の楽器を使う者が次第に増えてゆく傾向にあった。フローベルガーとも親交のあったフランス・クラヴサン楽派の開祖ジャック=シャンピオン・ド・シャンボニエールが、ヨハネス・ルッカースの甥であるヨハネス・クーシェの楽器を所有していたことはよく知られており、恐らく彼の弟子で、ルイ14世の宮廷付きチェンバロ奏者の地位を彼から引き継いだジャン・アンリ・ダングルベールもまた、ルッカースのチェンバロを愛用した。
 シャンボニエールの《パヴァーヌ》の前に置かれている《前奏曲》は、17世紀フランスの作者不詳の作品で、「パルヴィユ」と呼ばれる手稿譜に収録されている。この前奏曲は、ルイ・クープラン(c1626-1661)の前奏曲と同じく、全て全音符で記譜されていて演奏の際の個々の音符の長さは奏者の判断に委ねられる(=プレリュード・ノン・ムジュレ[拍節のない前奏曲]と呼ばれる)。ルイ・クープランは、フローベルガーのトッカータの演奏をパリで聴いて強い刺激を受け、それまでリュート奏者達によって即興的に弾かれていた音価が自由で和声的な短い前奏曲を拡大し、華麗な走句などのトッカータ的要素を大幅に採り入れた。この作者不詳の前奏曲は、明らかに、ルイ・クープランのプレリュード・ノン・ムジュレから大きな影響を受けているが、規模は比較的小さい。
 ダングルベールの《シャンボニエール氏の墓》も、その名の示すとおり、典型的なトンボーであるが、フローベルガーの同種の作品と比べると、かなり抑制された内容となっている。彼は、元来テンポが速くリズミックな舞曲であった「ガイヤルド」(=伊:ガリヤルダ)の非常にテンポを遅くしたものを何曲か書いているが、このトンボーもその形式に従っている。

J・S・バッハの《ラウテンヴェルク組曲ホ短調》
 この《ラウテンヴェルク組曲》は、バッハのクラヴィーア曲の中でも、最も強くリュート的な響きを追求した作品である。
 「ラウテンヴェルク」というのは、18世紀のドイツで何人かの製作家が手がけた文字通り「鍵盤付リュート」であり、ガット弦を張ってチェンバロのように弦をはじくための鍵盤アクションを組み込んだ楽器であった。「リュート・チェンバロ」ともいう。この「ラウテンヴェルク」または「リュート・チェンバロ」は製作された記録が残っているだけで楽器は現存しない。一般的には、ラウテンヴェルクの形状はチェンバロを短くしたようなものと考えられているが、18世紀のドイツの資料には、「ラウテンヴェルクのケースの中には、リュートの胴体が並んでいる」というような記述もあり、様々な形状が試みられていたものと思われる。何れにせよ、チェンバロにガット弦を張った、というだけの安易なものではなかったであろう(→本書p.398〜404)。
 今日、何人かの学者や製作家がこの楽器の復興を目指した研究や試作を行っているが、ごく最近わが国でも、チェンバロ奏者の山田貢氏が詳細なリサーチを行い、自ら設計された楽器が製作された。その辺の事情は、彼の著書『バッハとラウテンクラヴィーア』(シンフォニア、2001年)に詳しく書かれている。
 バッハの一族の中にはこのラウテンヴェルクを製作していた人もおり、またバッハ自身、ケーテンの宮廷楽長時代(1717-23)にこの楽器を発注したと言われており、1740年頃には、自らラウテンヴェルクを設計して高名なオルガン製作家に作らせた、という記録も残っている。この組曲は、バッハのいとこでオルガニストのJ・G・ヴァルターによる1717年頃の筆者譜によって伝えられているもので、単純なテクスチュアと響きの美しさを特徴としている。

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