Cembalo, Clavicordo & Fortepiano
 チェンバロの歴史と名器[第1集]/渡邊順生
 解説


 ■「名器」の条件
 □使用楽器について
 □「チェンバロ」の「モデル」はリュート
 □DISC I イタリアのチェンバロ
 □DISC II フランダースのチェンバロ
 □曲目一覧

「名器」の条件

 「名器」というと、ストラディヴァリウスのヴァイオリンのように、遙かな昔に作られて幾星霜を経た楽器を思い浮かべる人が少なくない。確かにヴァイオリンでは、18世紀のクレモナの名器には、それ以後の楽器は到底比肩しないと言われる。ヴァイオリンは実に神秘的な楽器で、クレモナのニスの秘密など、何度取り上げられて来たかわからないほどだが、その秘密はいまだに解明されていない。
 しかし、チェンバロにおいては、現代に製作されたものでも、その素晴らしさに目を瞠るような楽器に時折出会う。勿論、17〜18世紀に製作されたものの中には優れた楽器が多い。この時代は、人間が手で行う――すなわち機械によらない――様々な技術が頂点を極めた時代である。例えば、オランダの画家レンブラントは、老人の顔の皺の1つ1つ、レース糸の1本1本を、正確かつ克明に描写することが出来たばかりか、衣服の素材の違い――麻、レース、ビロード、毛皮等――による感触の違いを極めてリアルに描き分けることが出来た。写真にはとても出来ない芸当である。この時代の楽器職人達は、ヴァイオリン製作家ならずとも、美しい音を創り出す秘密とそれを実現する技術を掌中に収めていた。しかし、こうした昔のチェンバロの全てが優れた特質をもっているいるわけでは毛頭ない。確かに、きちんと修復された昔の楽器は、香り立つような素晴らしい響きをもっていることで共通している。だが、その香りのほとんどは時間の経過によって得られたものである。香りを取り去ってしまったら大した実体の残らない楽器だって珍しくはない。だから、古いと言うことは「名器」であるための必要条件とは言えないのである。
 数少ない現代の「名器」に共通しているのは、それらが単に美しい音色をもっているというだけではない。それらの楽器の製作家達は、いずれも、16〜18世紀に製作されたチェンバロの調査・研究・修復などを通じて、オリジナルのチェンバロについての深い知識と経験を持ち、彼らの製作するチェンバロの音からは、モデルとしたオリジナルの製作者たちの意図、その背景となった時代が見えてくる。それはちょうど、優れた演奏家の演奏から、作品の真実と演奏家の個性の緊密な結び付きが聞こえてくるのとよく似ている。
 また、それらの「名器」の中には、音の向こう側に製作者の人間性が強く感じられるものもある。鍵盤楽器は大きくて、ヴァイオリンやフルートのように演奏家の身体の一部のようになるわけではない。そうではなく、こうした個性的な楽器は、弾いていると、ちょうど優れた共演者と二重奏をしている時と同じように、こちらのイマジネーションを刺激しインスピレーションを与えてくれるのである。そんな「対話」を楽しめる楽器というのは、昔の優れた楽器の中にも滅多にあるものではない。

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