Cembalo, Clavicordo & Fortepiano
 チェンバロの歴史と名器[第1集]/渡邊順生
 解説


 □「名器」の条件
 □使用楽器について
 □「チェンバロ」の「モデル」はリュート
 ■DISC I イタリアのチェンバロ
 □DISC II フランダースのチェンバロ
 □曲目一覧

★★DISC I:イタリアのチェンバロ★★

エリザベス朝のヴァージナル音楽とウィリアム・バード
 イギリスでは、16世紀後半、女王エリザベス1世の下で市民文化が花開いたが、音楽においては「ヴァージナリスト」と呼ばれたチェンバロ奏者達が活躍した。この言葉は、イギリスでは「ヴァージナル」が特に好まれたような印象を与えるが、16〜17世紀のイギリスでは、撥弦鍵盤楽器が「ヴァージナル」と総称されたのである。すなわち、この時代の「ヴァージナル」は「チェンバロ」と同義語なのであった(→本書p.39)。
 16世紀のイギリスは、イタリア文化の影響が強い。それは、シェイクスピアの劇に、イタリアの題材が多く用いられたことによってもはっきりと示されている。中世以来、イタリア商人たちは地中海をわが物顔に帆走したが、この頃になると、イギリスの海賊たちが大西洋でスペイン船を襲う。折しも大航海時代である。この時代には、イタリアから数多くのチェンバロが、海路イギリスに運ばれたのである。
 ウィリアム・バード(1543-1623)は、エリザベス1世(在位1558-1603)からジェイムズ1世(1603-25)の時代に活躍したルネサンス期のイギリス最大の作曲家。「イギリス音楽の父」とも呼ばれ、ミサ曲のような大規模なものから、聖俗の声楽曲、室内楽、鍵盤作品等、種々の分野にわたって多数の作品を残した。
□《カリーノ・カストゥラメ》は、シェイクスピアの史劇『ヘンリー5世』の挿入歌。いわゆる百年戦争のさなか、太っちょで大酒飲みの無頼の騎士フォールスタッフの手下の一人ピストルが、フランス兵を捕虜にするのだが相手の言っていることがわからず、その言葉をまねてでたらめに「カリーノ・カストゥラメ、カリーノ・カストゥラメ」と繰り返す、という愉快な場面で歌われる。
 アルピコルドの音色は、このようなリュート・ソング風の作品の演奏には最も適している。16世紀のイタリアのチェンバロは、楽器のタイプにかかわらず、書かれた音楽作品よりもずっと広い音域をもつものが多い。私は、こうした広い音域は、楽曲の一部分を臨機応変に1オクターヴ上げたり、あるいは下げたりすることで音色に変化をもたせて演奏するために使われたと考えている(片手だけ移動する、というようなことも行われたに違いない)。そこで、この曲も、こうしたアレンジを加えて演奏することにした。
□《涙のパヴァーヌ》は、ジョン・ダウランドの作曲したリュート・ソング《流れよ我が涙》の鍵盤用編曲である。もう1枚のディスクには、同じ曲のスウェーリンクによる鍵盤用編曲をフランダース様式のチェンバロで聴いて頂くようになっている。「流れよ我が涙、泉より滝となって! 追放されて、永遠に嘆き悲しむ我が心。夜の黒鳥が物淋しく暗い歌を歌う場所で、ひとりわびしく恋し続けさせておくれ。・・・聞け、暗闇に宿る陰よ、光を拒むことに馴れるが良い。地獄にいる者たちは幸せだ、この世の苦悩を感じることもない。」という暗い歌詞によるこの作品が世紀の変わり目に大流行したことは、シェイクスピアが四大悲劇に手を染めるこの時代の気分をよく物語っている。
 ルッカースのチェンバロに、相互に4度ないし5度離れた2つのピッチがあったことは、上記「使用楽器」の項で、移調楽器に関連して述べたとおりだが、イタリアにおいても同様、相互にかなりかけ離れたピッチが併用されていたことが指摘されている。そこで、この作品では、実験的に、下方に4度下げて演奏した。こうすると、基になった歌曲と同じ調になり、しっとりした味わいが出てくる。こうした操作が効果的なのは、ひとえにアルピコルドの特徴的な音色によるもので、他のタイプのチェンバロでは低すぎてほとんど効果を発揮し得ないであろう。
□バードの部の最後は《鐘》。この作品はチェンバロで聴いて頂こう。「ド」と「レ」という、鐘の音を表すこの2音が低音部で常に繰り返す中、上声部では様々な変奏が展開される。この時代にはバスが同じ定型を繰り返す方式の変奏曲が多数書かれた。バロック音楽のファンには良く知られている《聖ジュヌヴィエーヴ教会の鐘の音》(18世紀フランスで、マラン・マレによって作曲されたヴァイオリン、ヴィオラ・ダ・ガンバ、チェンバロのための室内楽曲)も同種の発想で書かれているが、それより100年以上も前に書かれたこのバードの作品の響きは、いかにもルネサンス的明るさに満ちている。

■17世紀イタリアのチェンバロ音楽
 さて、ここでルネサンスのイギリスをあとにしてバロックのイタリアに移ろう。17世紀初頭のイタリアでは、既に「バロック」と我々が呼んでいる新しい様式が成立していたのである。前の時代が理性の光によって全てを明るく照らし出そうとしたのに対して、時代の気分の変化は、神秘的なもの・不可思議なものの探求へと人々を駆り立てた。人々は、光と闇の対照を、感情の爆発を、激しいドラマを求めて新しい様式を確立する。「オペラの誕生」は、正にそれを象徴する出来事であった。
 新しい音楽様式の発信基地の1つとなったヴェネツィアでは、特に直接的な表現が好まれた。なかんずく、新しい世紀の初めにこの地で活躍したジョヴァンニ・ピッキの作品は、特別、直情的な傾向が強い。《トッカータ》は、鍵盤音楽ならではの音階的な速いパッセージによって聴き手の耳を奪う華麗な作品で、中間にポリフォニック(多声的)な部分が挿入されて、急速で華麗な部分と好対照をなしている。
 当時イタリアという国はなく、イタリア半島は教皇領と幾つもの国に分かれていた。その中で、重要な音楽の中心地としては、ヴェネツィアの他に、ミラノ、ローマ、フィレンツェ、ナポリなどを挙げることが出来る。このディスクに収録した、当時のイタリアの典型的な3拍子の舞曲《ガリヤルダ》を作曲したジョヴァンニ・デ・マックエ(ジャン・ド・マック)は、フランダース出身のオルガニスト。いわゆる「フランドル楽派」の最後の1人で、ナポリで活躍した。トラバーチはデ・マックエの弟子で後継者。この時代のイタリアの「カンツォーナ」には無機的な信号音のような音型を取り扱ったものが多いが、トラバーチによるこの《カンツォーナ・フランチェーザ》は、いかにも声楽ポリフォニーを思わせる魅力的な佳品である。

■フレスコバルディの作品
 ジローラモ・フレスコバルディは、17世紀イタリアにおける最大の鍵盤作曲家で、ローマとフィレンツェで活躍した。即興演奏の伝説的な名人であり、彼のオルガンを聴くためにヴァティカンの聖堂に3万人の聴衆がつめかけたと伝えられる。
 彼の作品中で、音楽史上画期的な意義をもったのは、1615年と27年に出版された2巻から成る《トッカータ集》であった。ここで彼は、オペラや声楽曲のレチタティーヴォ的な表現を《トッカータ》という即興演奏の形式の中に取り込んで、この形式を更に自由で表現力豊かなものとした。その序文の中で、フレスコバルディは、拍にとらわれずテンポを自由に変化させる奏法について詳しく説明している。彼はまた、その後数多く書かれることになる《繋留と不協和音のトッカータ》という形式を創始して、技巧的で華麗なパッセージが目立つこのジャンルに、和音の変化に重点を置いた内面的な表現を導入した。《トッカータ第11番》はその先駆けをなす作品で、このような内面的苦悩を表した鍵盤音楽は、フレスコバルディの独壇場であった。
 《バレット》は、彼の作品の中では珍しく規模の小さい珠玉のような作品で、2つまたは3つの舞曲から成る。その中で「バレット」は2拍子系の中庸あるいはやや活発な舞曲、「コレンテ」は3拍子の軽快でリズミックな舞曲である。「パッサカリア」はスペイン起源の定型バスによる舞曲でやはり3拍子、バスの主題は主音から属音を経て主音に戻るが、バス主題もまた変奏される。《第2番》の「バレット」と「コレンテ」は、いかにもリュート伴奏の歌曲を思わせる。
 《パッサカリアによる100のパルティータ》は、彼の作品中でも最も規模の大きなものの1つ。「パルティータ」とはこの場合「変奏曲」の意である。ここでフレスコバルディは、拍子やテンポを変化させ、時に激しい転調を繰り返しながら、この形式に盛り込むことの出来るあらゆる可能性を試みている。開始部は、彼の書いた独唱歌曲《かくも我を蔑み》(パッサカリアによるアリア)とよく似ている。やはりリュート伴奏の歌曲の雰囲気である。それに、同じバスの上に展開される軽快な「コレンテ」が続き、少しテンポのたっぷりした「パッサカリア」に戻る。後半では、「パッサカリア」とよく似た和製構造をもつが、よりリズミックで明るい気分をもつ「チャッコーナ」(仏名シャコンヌ)が導入され、パッサカリアとチャッコーナが何度も交替を繰り返す。

■J・S・バッハの《トッカータ ト長調》
 ヨハン・ゼバスティアン・バッハのクラヴィーア作品の多くは、リュート的であるとは言い難い。だからこそ彼の作品がピアノで弾き続けられてきたのだ、と言うことも出来るかも知れない。特に《ト長調トッカータ》は、遅くとも1710年前後に作曲されたと考えられている作品で、彼が、イタリア風の協奏曲形式を用いた最初のクラヴィーア独奏曲である――すなわち、ここではリュートではなく、弦楽オーケストラがモデルになっているのである。この作品は、バッハが、チェンバロを一人で弾くことの出来る彼の私的なオーケストラとして扱った一連の作品の「最初の一歩」として位置づけることが出来る。
 バッハはこの作品で、それまで幾つもの部分に分かれていたトッカータ(→下記フローベルガーのトッカータの解説参照)を、ちょうどイタリアの協奏曲の楽章配列のように、急−緩−急の三部分構成とし、最初の部分に和音の連続による短いリトルネッロ(協奏曲のトゥッティに相当する)を用いると共に、トゥッティとソロの対照という協奏曲の原理を導入した。もっとも、この部分の終結部における分散和音の連続はリュート様式と言えないこともない。この部分は、明らかに、彼と親交のあったゲオルク・ベーム(1661-1733)の《プレルーディウム ト短調》からの借用である。第2の部分は和声的な性格の強いアダージョ、そして締め括りは活発なフーガで、その主題は、舞曲的なリズムによるモティーフと音階的な走句を含んだものである。
 この曲をここへ入れたのは、バッハの作品がイタリアのチェンバロでどのように響くかを是非聴いて頂きたい、と思ったからである。イタリアのチェンバロはドイツのチェンバロ製作にも大きな影響を及ぼしており、バッハの周辺にも、イタリアのチェンバロか、または「イタリア風の」チェンバロの1台や2台、必ずあったに違いないのである。
 鍵盤楽器を一種のオーケストラとして扱う、というのは、18世紀以降多くの作曲家が行なった試みである。このような書法は、バッハの息子達の時代になると、クラヴィーア・ソナタの様式として定着する。そのような鍵盤楽器の扱い方という点では、モーツァルトのピアノ・ソナタや、ベートーヴェンやリストの作品につながって来る。その意味でも、この「トッカータ」は大変興味深い作品である。

■D・スカルラッティのソナタ
 ドメニコ・スカルラッティは、バッハと同じ1685年の生まれ。ナポリのオペラ王、アレッサンドロ・スカルラッティの息子である。若い頃にはローマなどで活躍したが、1719年にポルトガルに赴き、その後、鍵盤楽器に秀でた才能をもつ王女マリア・バルバラに仕え、彼女のためのものを含めて、500曲以上のチェンバロのためのソナタを書いた。マリア・バルバラがスペインの皇太子と結婚すると、彼女に付き従ってマドリードに移り、その地で没した。その献身の故に、1738年、ポルトガル王ジョアン5世によって騎士に列せられている。
 スペインにおいてスカルラッティの関心を引いたのは、特徴的な大衆音楽であった。アラビアの影響とアンダルシアのジプシーの音楽が混じり合ったファンダンゴなどの――いわばフラメンコの前身となった音楽である。主に、ギターとカスタネットによって奏されるこの種の音楽を、彼はチェンバロの鍵盤上に移し替えようと考えた(特にK.238-9の2つのソナタ)。その点で、スカルラッティは、リュート音楽に範を置いた数多くの先輩たちとよく似た発想をもっていた、ということが出来る。尤も、彼はギターやカスタネットの音を模倣するだけでは飽き足らず、金管楽器を初め、様々な楽器の要素をチェンバロ音楽の中に取り入れた(K.96のソナタ)。そうした意味で、彼は、バッハをはじめとする18世紀の音楽家の多くと同様、チェンバロを一種のオーケストラのように扱ったのである。
 K.52のソナタは、スカルラッティのゆっくりしたソナタには珍しく、厚いテクスチュアによっている。K.426-7の2曲のソナタは、G−g3という、スカルラッティの作品の中でもほぼ最大音域を要求する。ト短調のソナタはカンタービレの旋律による情感豊かな音楽だが、それに続くト長調ソナタは、スカルラッティの全ソナタ中でも最も奔放な作品の1つである。

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