INTERVIEW/渡邊順生

『チェンバロ・フォルテピアノ』について

きき手/松本彰(新潟大学人文学部教授)

 

(古楽情報誌「アントレ」2001年3月号所収)

 

I: はじめに=楽器を通じて音楽とのつきあいが深まった

 

M(松本): 『チェンバロ・フォルテピアノ』、たいへん興味深く読みましたし、感銘を受けました。とくに印象的だったのは、次の二つの点です。 

 まず第一に、この本は、いわゆる初期有弦鍵盤楽器、チェンバロ、クラヴィコード、フォルテピアノを全体として見通すことのできる画期的な本だということです。これら三種の楽器はそれぞれいろいろ多様な型、タイプがありますから、たいへんなことになるわけで、実際、さまざまなタイプの鍵盤楽器がたくさん出てきてびっくりさせられました。その多彩さに圧倒されつつ、ヨーロッパではそれらの時代ごと、地域ごとにも違う楽器が、豊かな鍵盤楽器音楽の伝統を作っていったのだ、ということをあらためて感じました。古楽器復興以降の研究蓄積、最新の学説を批判的に検討して、三種の初期有弦鍵盤楽器全体についてこれだけ包括的にまとめたものは欧米にもないわけで、日本語でこのような高度なハンドブックを持つことができたことはすばらしいことだと思います。

 第二に、この本はそのように高度な研究書であるとともに、あくまでそれらの楽器の演奏者である渡邊さんの立場で実践的に書かれていて、それがたいへんな魅力になっているということです。演奏家としての飽くなき関心、追求心で、楽器の歴史を考えておられるわけで、さっきも言ったようにここでは実にさまざまな楽器が扱われているわけですが、それらはただ珍しいから興味深い、というだけでなく、実際にどのように用いられたのか、どのような曲がその楽器で弾かれたのか、それは音楽的にどのような意味があるのか、考察され、実験され、演奏家の立場で率直な感想や意見が述べられていて、それが非常に刺激的でした。

 

 またとくにご自身のオリジナル楽器との出会い、格闘の様子、また最初にチェンバロに集中し、その後日本に帰られてからフォルテピアノ、そしてその後、クラヴィコードへ、と発展してきたこの三つの初期有弦鍵盤楽器とのご自身の関わりについて書かれていることや、楽器の修復家、製作家との交流のなかで考えられたことなどもたいへん印象的でした。

 さて、それでは最初に、そもそもこの本を書かれた経緯、意図などについてお尋ねしたいのですが。

W(渡邊): 本の中にも書いたように、私は演奏家として、いろいろなタイプのチェンバロに触れて、そういうものから多くのことを学びました。私が幸運だったのは、比較的早くから17〜18世紀のオリジナルのチェンバロに触れる機会が多かったことです。自分の耳で音を聞きながら、楽器のタッチだとか響かせ方だとか、そういうものを作っていったので、楽器を通じて音楽との付き合いが深まったという――それを是非多くの人に知らせたいという思いがまずありました。

 それからいわゆる初期鍵盤楽器を3種類手がけたお陰で、それらの間にある境界線の見え方が違って来ました。例えば、チェンバロとクラヴィコードとどちらで弾くべきかを決めるときでも、厳密にどちらかでなくてはならないというのではなく、どちらの表現手段というのもあり得るというような作曲家や作品もあるし、それから一人の作曲家の中でも、これはクラヴィコード用、こっちはフォルテピアノ用、こっちはチェンバロ用、という風に、少なくともその作曲家自身の中では整理しながら、それぞれの楽器の性格の違いと自分の表現意欲に応じて使い分けが為されている場合もある。そういうことをよく知らないと、それぞれの作曲家の音楽、あるいはその時代の音楽というのが見えて来ない。知識や経験が不足した演奏家というのは――少なくとも、僕自身もそうだったんですけれど――自分の勝手な都合で作曲家の作品を解釈したがる、あるいはそうなり易いんですね。そういう勝手な解釈っていうのは洋の東西を問わず非常に沢山行われていて、例えば国際クラヴィコード・シンポジウムなんていうところに行けば、そういうところに集まって来る人って言うのは何でもクラヴィコードでやりたがるし、例えば特にエマヌエル・バッハの作品などは、フォルテピアノの専門家っていうのは何でもフォルテピアノで弾きたがるし、逆にチェンバリストは何でもチェンバロの方へ持って来たがる。要するに、3つの楽器についてそれぞれについて同じようによく知っていて、同じような愛情を注いでいないと、フェアな物の見方は出来ないですね。

 これらの3種類の鍵盤楽器が混在した18世紀には、「これからはピアノの時代だ」という人もいたけれど、「やはりチェンバロの音がいちばん美しい」、あるいは「本当に音楽的な人は、耳を聾するチェンバロやフォルテピアノの前を通り過ぎて、クラヴィコードの前で立ち止まるだろう」という意見もあった。だから、自分はどの意見に最も共感するか、ではなくて、どの意見もよくわかる、というのでなくては、この時代の理解が一面的になってしまう。そういう意味では、どの楽器についても同じぐらいよく知り、等しく情熱を注いでいないと分からないことっていうのは沢山あるんだという・・・。だから、正しい知識を求めるっていうことと、それから正しい知識を基にして自分なりの想像力をフルに働かせることっていうのが、どっちも非常に重要なんじゃないか、少なくともそういう音楽に対するアプローチの仕方っていうのを、何とかこういう形で世間の人に伝えたかった、ということですかね。

 最初は図版中心の眺めて楽しむ本にしたかったんですよ、チェンバロってこんなに綺麗な楽器なんですよ、という――。それにデータなんかもたくさん入れてね。ところが、東京書籍の編集部の鳥谷さんと話しているうちに、読む本にしよう、ただ楽器だけ、あるいは音楽家との関係というのではなくて、その背景となった時代や社会が見えて来るような、しかも、専門家のための難しい本ではなくて、一般の読者が楽器や音楽に対する興味から読み進んでいくうちに、いろいろな展望が開けてくるような本にしたい・・・という風に変わっていって、どんどん膨らんで、こんなに厚い本になってしまいました。

M: まだ買っていないひとには、どうぞ恐れずに買って読んでみて下さい、と言いたいですね。絵・写真や図もたくさん入っていますし、説明もていねいですから楽器についてそう詳しくないひとにも読みやすいと思います。私も昨秋は忙しくてしばらく積んでおいたのですが、ちょっと時間ができた時に読み始めたら止められなくなり、一気に読んでしまいました。手にとって見ないと恐ろしくなるかもしれませんね。あの厚さでは(笑)

W: 写真はとにかく、チェンバロ製作家の柴田雄康さんに書いて頂いたいろいろな図が素晴らしいんですよ。楽器の内部構造とかアクションの機構とかが立体的に書かれていて、いままで洋書でもこんな図はほとんどありませんでした。わかっている人にしかわからないような図が多くてね。その点では、柴田さんの図は実在感があってわかり易く、この本の中で私が一番自慢している部分なんですよ。

 

II: チェンバロ

M: さて、次に、三つの楽器のそれぞれについておうかがいしたいと思います。先ずチェンバロからです。チェンバロと言っても、非常にいろいろな種類があるわけで、その全体を見通すのは容易なことではありません。チェンバロという楽器がかなり広く知られるようになって来たといっても、一般に目にするのは、ほとんどが後期のもののレプリカですから、そのようなものがチェンバロだと思ってしまいがちです。いや、日本だけでなく、ヨーロッパでもそのようで、ドイツ語でも英語でも用語がかなり混乱しています。また、歴史的に、また地域によって呼び名が違うこともあって、現在どのように呼ぶと整理しやすいか、ということはそれとは区別しなければならないわけで、けっこうめんどうです。渡邊さんは、いわゆるチェンバロを広義で撥弦鍵盤楽器の総称として用いる場合と、狭義で、その撥弦鍵盤楽器の一種としてのグランド型のものを指す場合とに分け、撥弦鍵盤の他の型としてヴァージナル、スピネット、クラヴィツィテリウムを挙げておられますね。

W: ええ。まず、「チェンバロ」という呼称ですが、18世紀にはピアノもクラヴィコードも含めて、有弦鍵盤楽器はみんな「チェンバロ」なんです。それをまず押さえてかからないと、18世紀の鍵盤音楽を理解する上で支障を来す。

 それからまた、現代のドイツのように、小型の物は何でも「スピネット」で片づけてしまうというのも問題ですね、三角のも四角のも、多角形の物も。形の違うのにはそれぞれ理由があるわけだから、その理由についても考えながら、それぞれを固有の名称で呼んでいく、というのは大事なことだと思います。

 ヴァージナルは、日本ではあまり馴染みのない人が多いでしょうが、たいへん魅力的な楽器が多いので、もっとたくさん作られるといい、と常々思っています。イタリアのヴァージナルには多角形のものが多く、これには「アルピコルド」という名称もありますが、グランド型のチェンバロとは性格がずいぶん違います。フレミッシュ・ヴァージナルは長方形ですが、「ミュゼラー」と呼ばれているタイプは、あらゆるタイプのチェンバロの中で最も深い響きを持っていて、『涙のパヴァーヌ』なんかを弾くと最高ですね。イギリスのヴァージナルはまたイタリアのともフランダースのとも性格が異なっていて、イギリスのチェンバロの中では一番魅力的です。

M: 特に日本では、かんたんにイタリアンとかフレンチ、ジャーマン、フレミッシュと言ってしまいますが、当時イタリアとかドイツとかという国はなかったのですから、そして特にドイツなんかは後進国で、外国の音楽家が活躍し、外国の楽器がたくさん入ってきたわけですから、固定的に見るとたいへんに誤解することになります。

W: 確かに、同じイタリアンといっても、ヴェネツィアとトスカーナ、そしてナポリではずいぶん違うようです。正直言うと、その辺の様式の違いについては、私自身、余りはっきりとはわかっていないのです。こうやって本を書いてみると、今まで自分の知らなかったこと、勉強不足の点などがはっきりして、これからしっかり勉強しなければ、と思うところがいろいろ出て来ますね。

 ジャーマンには、ハンブルクを中心とした北ドイツ、バッハの活躍したザクセン・テューリンゲン、そしてアルザスにそれぞれ別々の伝統がありました。アルザスとフランスのリヨンは地理的にも近いので、チェンバロの様式にも深いつながりがあります。今回はジャーマンと17世紀フレンチの関係に力を入れました。その辺にチェンバロの原点がありそうだ、ってことでね。それついては、少し前に、横田誠三さんも「アントレ」の連載で述べられていましたが・・・。

 18世紀ドイツのクラヴィコードを見ると、北ドイツとザクセンでは、はっきりとした様式的な違いがあります。

 それから、これは音楽との関連でも基本的に重要なことなんですが、「チェンバロ」とは何なのか。楽器学的に見れば、中世のプサルテリウムに鍵盤を付けたもの、ということになりますが、現場の人間たち――製作家や作曲家、演奏家たちにとっては「鍵盤付きリュート」なんです。楽器を作る上でも、その楽器で音楽を作る上でも、リュートがはっきりした基準になっていて、そうした美学にかなう響きが求められた。そんなことも、やや独断的ではありますが、あちこちで述べています。

 

III: クラヴィコード

M: ではクラヴィコードへ行きましょう。クラヴィコードは音がきわめて小さいために、演奏会ではほとんど聴く機会がなく、再生音では誤解されやすい、そしてちゃんと紹介した本も無い、ということで、日本ではまだまだ知られていないのですが、鍵盤楽器の歴史を理解する上では、きわめて大事です。そのクラヴィコードについて、ていねいな説明があること、チェンバロ、そしてフォルテピアノを理解する上でもクラヴィコードを知ることが不可欠だとの重要な指摘のあることはこの本のたいへんなメリットのひとつです。それだけに、本の題名にクラヴィコードが無いのは、かなり残念!です(笑)。

 クラヴィコードの歴史を理解する場合、一般的には、クラヴィコードをフレット式とフレットフリー式に二分して説明するわけですが、渡邊さんは、18世紀のものを「ダイアトニック・フレットフリー式」として区別しておられますね。

W: なかなか定着しないですよね、楽器の構造がよっぽどよく分かってないとね。

M: はい。

W: ただ要するに、専門家としてはそれを3つにしないとどうにも整理がつかない、初期のフレット式と18世紀のフレット式では全く意味が違ってくるという、その辺が。だからこう、無理やりでもああいうような形でもって三分類にしたわけです。

 初期のフレット式というのは、幾つかの音が一本の弦で共用されていて、その共用されている音同士で和音を弾くことが出来ない。しかもこのタイプは全く規格が統一されていないので、同じ時代の楽器であっても、例えばAの楽器ではある曲が弾けるけれども、Bの楽器では同じ曲が弾けないという非常な不都合がいろいろ出てくる。18世紀に出てくる1対1で弦とキーが対応している、いわゆるフレットフリーのタイプについては、一番簡単と言うか、他の鍵盤楽器とほとんど同じってことになってくるから、そういう点では何でも弾ける。ところがその、17世紀の後半から18世紀にかけて、それと並行してナチュラルキーの間では弦の共用関係がないけれども、シャープキーがナチュラルキーと同じ弦を共用するというタイプについては、比較的規格がはっきりしていて、どんな曲は演奏出来て、どの曲は演奏出来ないかというのは、ほぼ、どの楽器にも共通している。で、今までは 弦を共用するものは、無規格のルネサンス・タイプであろうと、もっと後の時代の規格のほぼ統一されたタイプであろうと、一緒くたに「フレット式」と呼ばれていて、楽器とそのレパートリーを理解する上では非常に具合が悪いわけです。ですから、後期のフレット式を初期のフレット式と区別して、これは全く別のシステムなんだ、ということで、今まで2つだったものを3つにした訳ですよ。

M: これはだから是非読んで下さいというそういうところですね(笑)

 渡邊さんは、この本で、「クラヴィコードの時代」、「クラヴィコードの地域」ということを言われていますね。これはたいへん大事な指摘だと思います。18世紀の中葉から末期にかけて、チェンバロとピアノの「はざま」の時代、ドイツ、特に中部、ザクセン・テューリンゲン地方なわけで、J・S・.バッハとその長男W・F・.バッハ、次男C・P・E・バッハ、ヘスラー、ルスト、テュルク、ライヒャルトなど、この地方と関係を持ちつつ、クラヴィコードのための音楽作品、そして教則本などを書いています。3月に日本クラヴィコード協会の例会でそのような音楽家のひとり、ヴァイマルで宮廷楽長だったE・W・ヴォルフ(1735-1792)をとりあげます。

W: この辺の作曲家は十把一からげに「前古典派」の群小作曲家ということになっているけれど、そういう理解のしかたは間違いです。「原ロマン派」と言った方がよい作曲家や作品はたくさんあるし、今まで誰もクラヴィコードでそういう作品を聴いたことがないから、そういう不当な扱いがされて来たけれど、それでは古典派の理解にも、ロマン派の理解にも差し支えがありますよ、と私は声を大にして言いたいですね。

 

IV: フォルテピアノ

M: 最後にフォルテピアノということになるわけですが、フォルテピアノについて書かれている部分もたいへんな力作で、渡邊さんならでは、の指摘が多く刺激的です。フォルテピアノの場合、これまではどうしても現在のピアノのルーツを探るというような視点で、つまりピアノの前史として書かれていて、それでは一面的な理解になってしまうわけです。渡邊さんのこの本の場合、18世紀というまだまだチェンバロが広く用いられている時代に、生まれたばかりの新しい鍵盤楽器フォルテピアノも、次から次へと改良され急速に広まっていく、そしてクラヴィコードが再評価されていく、という3種の鍵盤楽器が交錯するダイナミックなありようが正面から問題にされていて、たいへん面白く読みました。

W: ピアノが登場すると、鍵盤楽器をめぐる状況がとたんに動的になってきます。楽器としてのピアノの歴史を見て行くと、アクションのシステムに様々な工夫が行われて行く初期から確立期にかけてが一番面白いと思います。初期というのは18世紀の前半のこと、確立期というのはバッハの息子たちからモーツァルト、ハイドンにかけての時代のことです。ピアノのアクションは極めて動的で――つまり、ハンマーとキーの運動の推移の中で見て行かないとよくわからない。その辺が、チェンバロもクラヴィコードもピアノに比べるとごく静的ですね。そうした楽器のために書かれた音楽についても同じようなことが言えると思います。その辺がとても面白い。

M: フォルテピアノも、実際いろいろで、たとえば、クリストフォリのピアノ、たしかにあれは文字どおり「強弱の付くチェンバロ」で、その後のフォルテピアノと比較してみても、全然違いますよね。また、現在のピアノの祖先をたどるとどうしてもグランド型のものばかりが注目されてしまいますが、ヴィーンでもフォルテピアノの発展を考える場合、「大きな音の出るクラヴィコード」としての「ターフェルクラヴィーア」が大事だとのご指摘、そしてモーツァルトとペダル・ピアノの関係、それぞれたいへん興味深いです。

W: クリストフォリのピアノは実際に触ってみて、「これは一体なんだろう」と首を傾げるくらい、いわゆるピアノの概念からはかけ離れた楽器です。私は、まずクリストフォリの弟子のフェリーニが作ったオリジナルのピアノを触ってから、堺の山本さんが作られたレプリカを弾かせていただいたんですけれど――。ニューヨークにあるオリジナルのクリストフォリは、「ピアノ風」に直されちゃってますから、全然だめですね。「強弱のつくチェンバロ」と仰有いましたが、簡単にそうも言えないと思うんですよ。クラヴィコード的な要素もあるし、リュートとの共通性もある。でも、バロックの鍵盤楽器であることは確かですね。モーツァルトやハイドンの頃のピアノは、シュタインにしてもウィーンのピアノにしても、またブロードウッドなどのイギリスのピアノにしても、もうごくピアノらしくなったピアノです。ですから、そういう古典派のピアノはクリストフォリとは、時間的にはせいぜい半世紀ぐらいの違いですが、見方によっては、古典派期のピアノと現代のピアノの違いよりもずっと距離がある、とも言えると思います。普通のピアノの歴史の本には、そういうことは書いてありませんよね。

 スクウェア・ピアノというか、四角くない物も含めてドイツ語で言う「ターフェルクラヴィーア」――これは重要だと思うんです。私自身も大して経験があるわけじゃなくて、イギリスのズンペのスクウェアは珍しくないけれど、ドイツのものは非常に不完全な修復状態のものを2、3度弾いたぐらいで――あとは専ら、問題意識だけから書いているんですが。最近ようやく、ヨーロッパではターフェルクラヴィーアに注目する研究者が増えてきて、論文などもだいぶ目に付くようになってきたけれど、演奏現場ではまだまだです。

 しかし、ピアノ音楽の確立に本当に貢献したのはターフェルクラヴィーアの方であって、グランドではない。バッハの息子たちは、エマヌエルにしてもヨハン・クリスティアンにしても、ターフェルクラヴィーアの方をずっと好んでいて、それで公開演奏をしたり曲を作ったりしていたのです。その後に出てくるモーツァルトがグランドを盛んに使った最初の有名作曲家、というわけですから。ターフェルクラヴィーアとクラヴィコードというのは、形の上だけから見ても、切っても切り離せないほど深い関係にあることは一目瞭然ですね。

 モーツァルトのピアノということで面白いのは、いま現代人が、これがモーツァルトの経験したようなピアノだ、と思って弾いたり聴いたりしているフォルテピアノのほとんどが、ベートーヴェンのピアノであってもモーツァルトのピアノではない、ということです。モーツァルトが経験したシュタインのピアノにしても、モーツァルトが所有していたヴァルターのピアノにしても、現代人がよく知っているその後のシュタインやヴァルターのピアノやそのレプリカとは、アクションの部分だけでもかなり違うんです。だから、モーツァルトがどんなピアノを弾いていたか、それをどう考えていたか、というのは、まだ答えを出すことの出来る段階に達していない大問題です。これからの研究に期待せざるを得ない――、でもだからこそ、周辺のいろいろな記録を基にして、我々が想像力を働かせることの出来る要素もあります。

 モーツァルトの曲をペダル・ピアノで弾いてみたい、というのは常々思っていたことなんですが、私のように今までエレクトーンぐらいにしか足を使ったことのない人間に扱える代物なのかどうか・・・。出来るだけ早く試してみたいと思っています。

 

V: 切れば血の出るような演奏!!をするには

M: この本では、最後に演奏様式のことについて、かなりまとめて書いておられますね。

W: ええ。楽器という、音楽をする道具について長々と700頁以上にわたって書いて来て、それを今日、どう使うか、という問題に触れなかったら片手落ちだと思って――。それに私は演奏が本業ですからね。実は、その前のベートーヴェンの章で、ベートーヴェン自身の演奏についてかなり詳しく触れたのも、その伏線なんですよ。

 楽器についてこれだけ書いて来られたのも、音楽というのが素晴らしいもので、楽器がそれに奉仕する道具だからなのであって、博物館的興味からではない。古い楽器に触れると、当然それが生まれた時代に想いを馳せる。楽器は、作曲家や音楽作品に近づいて行くための一つの有力な手がかりです。そこで、バロック時代の演奏習慣というのが重要な問題になって来るのですが、今日の古楽演奏は残念ながら、バロック時代の演奏とは似ても似つかぬことをやっている。実際に聴いて来たわけではないのではっきりどこがどう違うとは言えないけれど、いろいろな資料から想像できるものとは、最も基本的なところで水と油です。「それじゃ、お前はどうなんだ?」と言われたら、「ごめんなさい」するしかない部分がたくさんあるけれど、でもあるべき姿を模索しながら頑張って行きたい。

 そこで何があるべき姿か、を論じるのに1章を費やしたわけです。例えば、18世紀の半ばから後半を例にとってみると、当時はテンポの柔軟な、あるいはテンポ・ルバートを多用した演奏が盛んに行われていた。現代では、イン・テンポで「楽譜に忠実な」演奏をしないといけない、ということになっている。今日の常識になっているメトロノーム的なイン・テンポ演奏というのは本質的にポリフォニックな音楽には向きません。多声音楽というのは、1つ1つの声部の独立性が高く、その持ち味を出すためには音楽が横に流れてゆく必要があるのですが、時間の方から決めてしまう今日の演奏手法ではポリフォニーを殺してしまいます。テンポ・ルバート以上に、今日では弦楽器や声楽のポルタメントは全面禁止に近い。エマヌエル・バッハは、表現しようとする感情に浸りきるのでなくては、とてもその感情を聴き手に伝えることは出来ない、と言っているのに、今日の演奏家の客観的な演奏姿勢はそれとは正反対です。そして、18世紀と現代の演奏家の演奏姿勢の根幹にある最も大きな違いの一つは、今日の演奏家には18世紀の即興演奏の精神が全くと言っていいほど欠落していることです。今日の演奏家の中には、CDのような、居心地の悪い「完全性」を目指している人も珍しくないほどです。ですから、18世紀の演奏習慣の復興などとは口にするのも憚られるような状況なのです。

 今日の古楽器奏者が実践しつつある18世紀の演奏習慣とは、ピッチの問題であったり、顎当てやエンドピンを使わないで弦楽器を弾いたり、付点リズムを強調したり、イネガルのリズムで演奏したり、装飾音を増やしたり、通奏低音をバスと数字だけの楽譜で演奏したり・・・等々、いろいろあります。勿論、これらの問題を軽視することは出来ません。しかし、それらが、最も重要な問題でないことは明らかです。最も重要な問題は、感情表現が豊かで、しかも、その時その場で生まれ出たような――言い換えれば、切れば血の出るような演奏をすることです。そのためにはどうすればよいか、ということに最後の1章を割いたわけです。それで丁度、全部で12章になりました。

M: 最初に言いましたように、この本は、三種の初期鍵盤楽器について書かれた高度なハンドブックで、演奏家にとって、製作家にとって、研究者にとって、そして初期鍵盤楽器に興味を持つすべての音楽ファンにとって最良の贈り物です。今後、この本を基礎に、初期鍵盤楽器の豊かな歴史についての研究が進むのでは、と期待していますし、実際に、さまざまな楽器でさまざまな曲を楽しむ機会が増えたら、と思っています。



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