《チェンバロ・フォルテピアノ》


書評


奏者が著した古楽器の厚みある世界
(毎日新聞2000/10/23夕刊)


 バイオリンの名器についてはさまざまな本が出ている。特にストラディバリウスについては、ほとんどの楽器の傷ひとつまでが本で明らかにされている。それに比べると、チェンバロなど他の古楽器については資料が少なく、とりわけ日本においては、体系だったものは皆無といっていい状況だ。
 このほどチェンバリストの渡辺順生が自ら著した「チェンバロ・フォルテピアノ」(東京書籍/6800円)は、その空白を埋めるべく待ち望まれた書と言っていい。
 およそ900ページ及ぶ大部はチェンバロ、クラヴィコード、フォルテピアノの定義と原理、起源と影響、楽器の発展と製作の伝統、構造と各楽器の特質、バッハ、モーツァルト、ベートーベンなどとのかかわり、現代ピアノによる演奏様式まで、ありとあらゆる要素に及ぶ。膨大な図版や索引も備えており、辞典的要求に十二分に応えているが、それだけではなく、渡辺自身が楽器を求める旅をし、楽器との対話を重ねてきたことが、肉声として語られており、それが、本書に温かく、厚みのある響きを加えている。
 また楽器の背景としての社会に対する視点も明確で、古楽器演奏がその方法論の内部だけにとどまらず、文化論として大きな視野の下にとらえられているのも魅力だ。造本もしっかりしており、本書の登場を喜びたい。(U)

 

書評■『チェンバロ・フォルテピアノ』
(「レコード芸術」2000年11月号)

船山信子(音楽学)


 楽器学かヨーロッパでも遅れた分野だと実感したのは、20年前、勤務大学の古楽器カタログ作成のために古い鍵盤楽器関係の文献を漁った時のことだった。鍵盤用の作品市には事欠かないが、肝心の楽器の概説書の数は貧困を極めている。
 日本を代表するチェンバロ奏者の一人で、碩学の渡邊順生が2年をかけて書き下ろした865ページに及ぶ大著は、その観点から観れば、豊富な写真、画期的な遠近法による図例、包括的な内外の文献を擁する、立派な概説書の誕生と位置づけることも出来よう。 だがそう定義すると、本書のユニークな特質を見落とすことになる。
 そのユニークさとは、初期鍵盤楽器(横文字のタイトルはEarly Keyboard Instruments、内実はチェンバロ・クラヴイコード・フォルテピアノ)の個性が、1400年から1800年頃までに、進化論的にではなくどう推移したかの詳述が骨子だが、それに拘泥せず、その間隙を縫って、2つの視点が導入されていることだ。つまり各楽器と同時代の作曲家の様式や美意識との関連の明証、さらに著者の演奏経験に裏打ちされた、楽器奏法に関わる(しかも時にはそこから逸脱しさえする)古楽演奏の美学の披露。そして最も印象に残ったのは(もちろん私には馴染みの薄いクラヴィコードの歴史的叙述には瞠目すべきだが)、後者の古楽演奏の美学の部分である。例えば、ベートーヴェンが本質的に「弱音の作曲家」であったことや、《悲愴ソナタ》のfp(冒頭の記号)の要求するものが、当時のフォルテピアノの特性を知ってこそ会得できる等の指摘は説得力に富む。
 さらに圧巻は、この演奏美学に関わる第12章「フォルテピアノの演奏様式」の後半部分。1960年代後半からの古楽復興運動の未曾有の広がりが、「身体中の血を新しいものと入れ替えるがごとき苦痛と冒険を伴う」古い演奏実践の探求によって、19世紀演奏様式の残滓とその反動という20世紀演奏様式の劇的変遷の中でいかに市民権を得たかが、(やや荒削りだが)知的で熱い筆致によって抉り出される。著者のこうした切っ先鋭い“独断”は、「音楽を演奏するための道具」としての鍵盤楽器が正しい使われ方によってこそその真髄を開く、ということを示す。“楽器の本”を越えて、この未曾有の労作を開かれた文明の書へと向かわせている。

 

新刊書評■「チェンバロ・フォルテピアノ」
(「音楽の友」2000年12月号)

吉村 渓


 掛け値なしに素晴らしい力作だ。865ページにも及ぶヴォリューム、決してお手頃とはいえない値段は、書店で手に取る人の気持ちを一瞬怯ませるだろうが、この書の内容に接することで満たされる知的好奇心と読後の充実感を考えれば、迷わず購入して手許に置くべき著作と声を大にしたい。

 一橋大学を卒業後、オランダに留学しアムステルダム音楽院でレオンハルトにも師事した渡邊順生氏は日本を代表するチェンバロ、フォルテピアノ奏者。指揮や音楽学の分野でも活躍中で、その幅広い知見とすぐれたバランス感覚には定評がある。そんな著者が15〜19世紀の各種鍵盤楽器の歩みを縦糸とし、製作者や作曲家、演奏家の営みを横糸として400年間に渡る音楽史(ひいては技術史、社会史としても)を読み解いていくのだから面白くないわけがない。巧まずして論旨明快な文体の魅力に加え、楽器の説明の一助となる豊富な写真と、チェンバロ製作家・柴田雄康氏の手になる美しく精緻な図版が読者の想像力を十二分に補うよう配置されており、書物としての完成度もすこぶる高い。ここまで掘り下げた内容を専門書や研究書でなく、一般の音楽愛好家や学生にも充分味わえる水先案内としてまとめ上げたスタンスにも敬意を表すべきだろう。

 蛇足めくが本書の読み方として、まず第1章「チェンバロとは何か」をじっくり読み込んで、基本的な知識や用語の定義を理解しておくことをお勧めする。最初だけ骨が折れるかも知れないけれど、そのあとは通読しても、興味のある章から読み始めても大丈夫。現代のピアノしか知らない、弾いたことがないという人にも(いや、そういう人にこそ)ぜひ触れてみてほしい1冊である。

 

書評■「チェンバロ・フォルテピアノ」
musee vol.28 - Tower Records刊)

吉村 恒(音楽ライター/音楽学)


 重さ1キロ強、厚さ約5センチ。今年50歳の著者が、チェンバロ、クラヴィコード、フォルテピアノについて蘊蓄<うんちく>のかぎりを傾けた「浩瀚<こうかん>」と呼ぶにふさわしい書だ。
 本筋は中世末期から近代までの鍵盤楽器の歴史だが、無味乾燥とはほど遠い。鍵盤奏者としての20年を越す経験、多くの文献とヨーロッパでの数次の調査による豊富なデータをもとにした論述は説得力にとみ、リュッカース(ルッカース)一族をはじめとする製作家や、バッハ父子、モーツァルト、ベートーヴェンらの織りなす、鍵盤楽器をめぐる人間ドラマも生き生きと描かれている。本文だけで800ページ近く、語りくちはときに饒舌だが、あくまで厳密で論理的だし、多彩なエピソードはシェヘラザードさながら。ゆったりしたレイアウトのおかげもあって、大河小説のごとく一気に読ませる。演奏様式にかんする最終章では、スケールの小さな昨今の古楽演奏への批判、20世紀に主流となった印・テンポ主義への疑念、フルトヴェングラーへの傾倒など、著者の本音も見えてくる。画期的な立体図をふくむ約400点の図版と写真、用語解説や参考文献と註(約100ページ)など、データも充実。著者にのみ可能な力作、鍵盤音楽の基本文献である。