レコード芸術2003年6月号

INTERVIEW
ベートーヴェン《月光》ソナタのレコード

 

 《月光ソナタ》は、昔から録音が多いので、ベートーヴェン演奏の変遷を辿るには恰好の作品です。ベートーヴェン自身は、この曲に《幻想曲風ソナタ》というタイトルをつけていました。《月光》はその後誰か別の人がつけたニックネームです。ベートーヴェンはこの作品をモーツァルトの《ドン・ジョヴァンニ》の最初の、騎士長の死ぬ場面に触発されて書いています。だから、第1楽章は非常にロマンティックだけれども、死を強く意識した世界で、非常に陰鬱なところも、そういう和声進行もありますね。日本では、月の光が降り注ぐ中で四阿(あずまや)に盲目の少女が云々というエピソードが有名ですが、それは根も葉もなくて、もしそういうエピソードから甘いロマンティシズムを感じている人がいるとすると、それはベートーヴェンとは何の関わりもない。

 この曲で重要なことは、そういう「死のイメージ」のほかに、「即興性」という問題があります。“即興”は、ドイツ語で“ファンタジーレン”と言うのですが、“ファンタジーレン”されたものが“ファンタジーア(幻想曲)”だという概念が18世紀後半にはありました。そういう即興的な音楽だということです。その即興演奏の精神が19世紀生まれのピアニストたちにはとてもありますね。テンポのとり方もわりと自由だし、みんなそれぞれに個性的です。1868年生まれのリストの弟子であるラモンドというピアニストが当時ベートーヴェン弾きとして知られていて、ぜひ聴いてみたかったのですが、聴けなかったのが残念です。

 チェルニーはベートーヴェンの弟子ですが、『ベートーヴェンの全ピアノ作品の演奏への指針』という本を出しています。第1楽章は、アラ・ブレーヴェ、2分の2の拍子記号で書いてあるので、それは、2分音符をひとつの単位で感じて、流れていくようにという意味だと指摘しています。その影響があってか、19世紀生まれの古い人たちの演奏は、あまり重苦しくなく、サアーッと流れていくような演奏をします。チェルニーはベートーヴェンの生き証人みたいな部分もあるので、ベートーヴェンからそう習ったかもしれない。

 しかし昔のピアニストでも、世紀の変わり目ぎりぎりの20世紀側で生まれたソロモンは、845秒もかかって弾いていてものすごく遅い。速い人は4分ちょっとで弾くのに。聴くのもなかなか大変なんです。ソロモンは、ベートーヴェンの描いた死の世界、というものに身動きの取れないようなイメージを持っていたんではないでしょうか。即興性にはほど遠い。当時としては、たいへん珍しいです。そして、イグナツ・フリードマンも遅い。最近では珍しくないですが、6分以上かかっている。この人は、ツェルニーの流儀に連なる19世紀の有名なピアノの教育者、レシェティツキの弟子です。そして、フリードマンは、低音に特別なものを感じていました。低い方では、オクターブの間に音を増やして、密集和音にしたりして重くしている。でも、むやみに、ベートーヴェンの書いた音符を変えてしまうという感覚とは違うでしょうね。そして、フリードマンは第2楽章がとてもいい。実はこの曲、第2楽章が難しいんです。2楽章は単なる繋ぎにすぎない、という演奏が多いけれど、同じレシェティツキの兄弟弟子だったシュナーベルパデレフスキーも、この楽章を印象的に弾いています。

 また、非常に興味深いのはパデレフスキーの演奏で、18世紀ふうのテンポ・ルバートがもう巧すぎる。一昔前のポピュラーソングにはたくさんありますが、歌を自由に歌っていて、伴奏はきちっと伴奏して、あちこちにずれが生じる、というのが18世紀ふうのテンポ・ルバートです。バッハの息子のCPE・バッハが書いた『正しいクラヴィーア奏法』には、「メロディーと伴奏がずれて、メロディーがうんと自由に聴こえるような、そういう演奏ができればあなたは一流だ」とある。モーツァルトも自分のお父さんに当てた手紙の中で、自分はそれができると自慢しています。昔はそのテンポの動かし方がしっかり先生から弟子へと教えられていたと思うんですが、今はそれが途絶えてしまった。

 ベートーヴェン自身が人前でピアノを弾くときには、常に即興的で自由な演奏をしていたことはあっちこちで、書かれています。シュナーベルも、ベートーヴェンと同じように、いろんなところでテンポは流動的であるべきだと、彼の楽譜[シュナーベルが校訂をした楽譜]にもはっきりある。ふたりの終楽章を比べると、フリードマンは火花が散るみたいな演奏で、それほど目立ってテンポを動かしてない。シュナーベルは、特に16分音符の動きが止んで、8分音符の動きになったときにテンポを上げるとか、クライマックスへ向けてのアッチェレランドなど、かなり意図的なテンポの変化をたくさん使っています。

 その後のピアニストは、楽譜に作曲家が書かなかったテンポの変化というのは控えるべきだという風になってきて、窮屈になっていく。

 バックハウスぐらいからかなりかっちりしてきます。シュナーベルはほとんど世代的には違わないんだけれども、世の中の体制がイン・テンポの方に行っても考えを譲らない。

 ホロヴィッツの演奏は、僕の感じだと新盤の方がより広がりがある。特に第1楽章がいいですね。終楽章はあちこちで花火がパッパッと上がるという感じが強調されすぎていて、やや滑稽になってしまっている部分があります。展開部のはじめの方で、左手に第2主題が出てくるところでは、低音が非常に強調されていて、それから重心がパッと上へ移るという、低音と高音の音色の対比のしかたには非常に見事なものがある。この曲にはこういう可能性もあったんだと教えられました。この部分の左手をメロディックに弾くというのは多かれ少かれ誰もがそうしているけれども、そのあとの高音部での刻みとの間で色彩感が対照されているというのはすばらしい。

 印象に残っているといえば、フランソワ。彼は1920年代の生まれだけれど、即興的な感じというものが第1楽章によく出ていて、たとえば3連音符の最初の音をどういうふうに強調するかとか、そういう強調する音に入る入り方とか、その音をちょっとテヌートして次の音符をちょっと遅らせる遅らせ方、というものに非常に共感できる部分があって、とてもいいんです。ところが、傑作は終楽章で、そこでも同じような手法を使って弾いているんです。テンポが遅く、リズムが曖昧で、とてもプレスト・アジタートという感じじゃない。左手の8分音符の刻みも強調しない。すごく気持ち悪いんだけれども、《幻想曲風ソナタ》の「幻想曲風」というところを文字どおりの意味で終楽章にも適用した演奏はこれだけじゃないかな。珍妙な感じです。本人も奇を衒ってやったのか本当にそう信じてやったのかその辺はよくわからないけど。

 バレンボイムピーター・ゼルキンなどの最近の演奏は、やや不自由な・・・「即興演奏の精神」からはずいぶん離れてしまった、という感じですね。もう《幻想曲風ソナタ》じゃなくなっている。昨今はフォルテピアノでの演奏も盛んになって来ており、第1楽章で自由な演奏スタイルをとっているものも珍しくなくなってきていますが、終楽章はあいかわらずカッチリしたものが多いですね。

 これからどんなベートーヴェンが演奏されていくのか。最近の演奏の現場では、特に若い人たちの中には、テンポを動かしたいという欲求の強い人が増えている一方で、「テンポを動かすのは間違いだ」というような、20世紀後半の風潮を相変わらず引きずっているような人も珍しくない。“歴史は繰り返す”と言いますが、もっともっと自由で即興的な演奏がでてくると面白いですね。