アンナー・ビルスマは語る
バッハの《チェロ組曲》をどう読むか

〜2000年10月12日におけるインタヴューより〜

渡邊順生

(この記事は、これまで雑誌等に紹介されたことのないものです)


 

W(渡邊):これまでいろいろな機会に、インタヴューや対談、鼎談などをして来ましたが、最初のインタヴュー*以来、バッハの《無伴奏チェロ組曲》を話題にしたことはありませんでした**。そこで今日は、久しぶりにバッハについてのお話を伺いたいと思います***。

*『バッハの音楽は《語る》音楽――アンナー・ビルスマに訊く』−1980年、ビルスマのLPレコードの日本版の発売に際して行われたもの。現在は、ソニーのCD[SRCR2421/2]のブックレットに収録されている。

**ビルスマのバッハについての考えを紹介したものには、上記の他に、故佐々木節夫氏によるインタヴュー〔『アンナー・ビルスマ大いに語る』−「レコード芸術」1991年11〜12月号[佐々木節夫遺稿集「古楽の旗手たち」(音楽之友社、2000年)に収録]、『それはちょうど人生のようなもの――バッハの無伴奏チェロ組曲をめぐって――』−「ユリイカ」1996年1月号〕などがある。

***ビルスマは、1970年代にバッハの《無伴奏組曲》のバロック・チェロによる連続演奏会を始め、1979年に初録音(セオン)。1991年1月に第1〜3番を再録音したがこれを破棄して、翌92年にスミソニアン博物館所蔵のストラディヴァリウス(モダン・チェロ)により全曲の再録音を行った(ソニー・ヴィヴァルテ)。これに衝撃を受けたヨー・ヨーマはビルスマにレッスンを申し込んだという。1998年には、バッハの妻アンナ・マクダレーナによる写本のボウイング(弓使い)について詳しく論じた著書 "Bach, The Fencing Master - Reading aloud from the first three cello suites" を刊行して評判になる。アンナ・マクダレーナ・バッハによる写本は、特にそのボウイングについて、従来から学者・演奏家による批判の絶えないものであるが、ビルスマは初めてその積極的な意義を認め、そこに示された複雑なボウイングに取り組んでいる。この本(英語版)は現在ほとんど売り切れの状態だが、最近になって仏語版・独語版が刊行された。なお、この問題については渡邊順生著『ビルスマの《バッハ》――かくて《古楽》は克服された』(「音楽現代」1999年12月号)及び前掲の佐々木節夫著『それはちょうど人生にようなもの』を参照されたい。

 

■死が身近にあった時代の音楽

B(ビルスマ):あなたもよくご存じのように、《無伴奏チェロ組曲》のバッハの自筆譜は残っていません。18世紀の筆写譜は4つありますが、そのうちの2つはかなり後の時期のもので、興味深いものではありません。時期の早い2つは、1つがバッハの妻アンナ・マクダレーナによるもの、もう1つがケルナー*によるものです。

*ヨハン・ペーター・ケルナー(1705-72)=オルガニストで作曲家・教師。バッハやヘンデルの知遇を得、バッハの数多くの作品を筆写した。

 18世紀には、人々の寿命は今日ほど長いものではありませんでした。30代、40代で死ぬ人も多かったのです。このことは、音楽の精神性にも大きな影響を与えていたと思います。誰かが二階の寝室で死にかけている・・・もしかしたら、それは親友の奥さんだったかも知れないし、家族のうちの1人だったかも知れない。そんな状態で仕事をする、ということも、バッハやモーツァルト、ベートーヴェンの時代には珍しくありませんでした。死はいつも身近にあったのです。ですから、教会の司祭たちの責任は重大でした。彼の前に集まってくるのは、十字架を背負った何百人もの人々、そして、彼自身も大きな十字架を背負っていたのです。音楽を作曲する、あるいは演奏するという行為もまた、精神の深いところに根ざしていました。そうした深みは、今の人々にとっては、あまり一般的なものではなくなってしまいました。この時代には、工場とか、騒々しく街を駆け抜ける馬車とかを除くと、人々の周りは今よりもずっと静かでした。そうした静寂の中で、音楽は人々を夢中にさせました。人は、何かに没頭しているときは、日々の悲しみを忘れることが出来ました。それが音楽の役割の1つでもあったのです。バッハの音楽は周りのこと一切を忘れさせてしまうような音楽です。碁やチェスに興じている人を見たことがあるでしょう? そうしたゲームに夢中になっている人は、すぐそばに大砲の弾でも射ち込まない限り、周囲の出来事に気がつきません・・・。

 

■アンナ・マクダレーナの写本

 さて、バッハ夫人の筆写譜の話に戻りましょう。この写本については、随分いろいろ、道理に適わないことが言われてきました。バッハ夫人は弦楽器を弾きませんでした。彼女は歌手で、チェンバロも弾いた――しかし、弦楽器については全くの無知であった――だから、彼女の筆写譜に書かれたスラー(ボウイングを表す)は無視してよい――彼女は自分が書き写しているものの意味がわかっていなかったのだ――とか何とか・・・。自分が何をやっているかわからなかった、なんてとんでもない! 彼女は出来る限り正確に写したのです。夫の世話をし、夫に尽くすことは彼女の責務だった。18世紀の女性にとって、敬虔な夫に尽くすとは、彼以上に信心深くなることを意味したのです。だから彼女には天国の門が開かれた・・・それはまあ、とにかくとして・・・バッハは彼女に言ったかも知れない。「このスラーを見てくれ。これは、出来るだけ正確に写しなさい。私はこれに出来る限りのヴァラエティをもたせるように苦心したのだ――なぜって、ヴァイオリンやチェンバロの曲に比べて、チェロ組曲の音符の数は極端に少ないからね。」・・・そんな風には言わなかったかも知れないけれど、今となってはもうわかりませんね。私はチェロ組曲と長年つきあって来て、何年か前から、これらのスラーを非常に重視するようになりました――学者やその他の専門家が、どんなにこのスラーに批判的であっても、ね。

 

■イタリアとフランスのヴァイオリン奏法

 私にとって、いちばん参考になったのは、フランチェスコ・ジェミニアーニの見解です。彼の『ヴァイオリン教本』・・・ジェミニアーニはバッハと同年輩で、ヴァイオリンの偉大なる名手でした。この教本の中で、彼は、ボウイングのダウンとアップに関しては、各小節の1拍目がいつもダウンになるような画一的なフランスの流儀には非常に批判的です。ゲオルク・ムファットもまた、1698年に出版された《音楽の花束第2巻》の中で、イタリアとフランスのボウイングのやり方の違いについて述べています。ムファットによれば、フランス人たちは同じことを10回繰り返してもそれを恥としない。イタリア人たちは、舞曲を繰り返すときに、1回目とは全く逆のボウイングを用いたりする――全てのボウイングが繰り返す前とは逆様になるわけです。同じことを言うにも、全く違うアクセントをつけて話す。1回目はダウンボウ(下げ弓)で始めたのに、2度目はアップボウ(上げ弓)で始める――そうすると、1度目はペンを右手にもって書いたのに、2度目は左手で書くようなことになるのです。イタリアの奏法については、余り詳しいことはわかっていませんが、イタリア人たちこそは、ヴァイオリンの名人たちでした。ヴィヴァルディ、コレッリ、ジェミニアーニ、タルティーニ、ロカテッリ等々・・・私たちは何人ものイタリアのヴァイオリンの名手たちの名を挙げることが出来ます。

 フランスのオーケストラは、実際のところ、伴奏を主な仕事としていました。オペラや、コメディ・バレエなどの伴奏です。それに反して、イタリア人たちはソリスティックでした。彼らは、画家が刷毛を使うように弓を使ったのです。彼らは、想像力の赴くところなら、どんなに変わった弓の使い方も厭いませんでした。イタリア人たちは、私の見るところでは、フランス人のような「良い趣味」の信奉者ではありませんでした。フランス人たちは「良い趣味」を発明しましたが、イタリア人たちにはもっと重要な財産がありました。それは「豊かな想像力」です。

 バッハはどちらのスタイルにも通じていました。ドイツにあったフランス人の楽士たちによるオーケストラ、あるいはフランス風のオーケストラも知っていました。ピゼンデルは、ドイツにおけるヴァイオリンの最高の名手の一人でした。ヴィヴァルディは、至難な技巧を要する協奏曲をピゼンデルのために書きました。バッハはピゼンデルをよく知っていました。

 

■《チェロ組曲》で追求した右手の可能性

 バッハは、音楽についてのあらゆることに興味をもっていました。彼が、昔の大作曲家たちの作品を写譜して勉強したことは有名ですね。フレスコバルディ、フローベルガー・・・そして、クープラン等々・・・。私の家には "Bach, the Borrower" (「借用者バッハ」の意)という本があります。バッハは誰かの作った旋律を借りてきて、それをもっと秀れたものに作り替える名人でした。この本のタイトルは "Bach, the Thief" (盗っ人バッハ)と言う代わりにそれをもうちょっと丁寧な言い方にしたものですが、バッハは他人の作を盗用しようと思ってしたわけではなく、単に、原作者に敬意を表したに過ぎないのでしょう。

 バッハは、自身、優秀なヴァイオリニストでした。そして、ヴィオラの愛好家でもありました。彼は、ボウイングについて、最も深いところまで知っていたに違いありません。さて、《無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ》を見てみると・・・筆写譜の扉のページに、ヴァイオリンの曲集の方には《第1巻》、チェロの組曲の方には《第2巻》と書かれています。この無伴奏ヴァイオリンの曲集で、バッハは左手の可能性をとことんまで追求しました。この曲集には、むずかしい重音や走句がたくさん出て来ます。その一方、無伴奏チェロの曲集では右手の可能性――つまり、ボウイングによる表現の可能性を追求したのです。これが《無伴奏チェロ組曲》という曲集の1つの特徴です。

 

■極限まで音符を減らすこと

 バッハは研究熱心でした。特に彼は、音楽のありよう、音楽の本質といったことを深く探求し、それを自分の使命と感じていたに違いありません。そして、念入りに作曲することで神様を喜ばせようとした。バッハの音楽は、ある意味で、音楽による説教・説法と言えるかも知れません・・・教会で、牧師さんたちが日曜日にやる、あれです。だからと言って、それが人を幸せにするものであっていけないわけはないでしょう・・・。

 《チェロ組曲》は、バッハにとって、出来るだけ少ない音で作曲するための練習でもあり、また、音楽による会話の練習でもありました。「会話」というのは、私がもしこの音を弾いたら、また2つの音をこういう風に関連づけて弾いたら、聴き手の想像力の中ではどんなことが起こるだろう――というようなことです。

 《無伴奏ヴァイオリン・ソナタ》の中で、バッハは、たった一挺のヴァイオリンのためにフーガを書きました。4声のフーガです。一挺のヴァイオリンで4声のフーガを弾くなどというのは、ほとんど不可能なことです。もしかしたら、バッハにそう言った人もいたかも知れない。でも、名人というのは、普通なら不可能だと思われるようなことをやって見せたがる・・・やり方さえわかっていれば、ちゃんと出来るんだ、ってね。無伴奏ヴァイオリンのためのハ長調のフーガ(ソナタ第3番BWV1005の第2楽章)は、バッハの書いたフーガの中でも最大規模のものです。そこでバッハは、いろいろな音を省略する必要に迫られました――不協和音の解決音とか、連続するバスの音符とか、そういう音をほかの声部にもって行ったり、省略してしまったりしている。でも、聴き手にはちゃんと聞こえるんです。聴き手の方は、そんなこととは知らないで、場合によると、そこにはない音まで、ちゃんと想像力で補って聞いてしまう。そこで私は思うんです。証明することは出来ません。そうしたトリックを使いながら、バッハ自身、そうした手法にとり憑かれて来たんじゃないか、ってね。どこまで音を減らすことが出来るか、それでいて、聴き手の方はちゃんと見たい絵を見、聞きたい音を聞くことが出来る・・・。そこで、最大限、音符の数を減らしながら、聴き手の想像力の中ではちゃんと完全な対位法と和声法が成立しているような音楽を書く、というのが、《無伴奏チェロ組曲》において、バッハが自分自身に課したテーマの1つであった、と私は思うのです。

 このような観点で《チェロ組曲》を眺めてみると、あちこちに、もうちょっとテキストを厚く出来る――開放弦の音やら何やらを付け足すことによって――というような箇所があります。そうした箇所では、そのような音がないという方が驚きなのです。でも、そこにはちゃんと目的があったのです――何しろ、これは、聴き手の想像力とコミュニケーションする、という課題なのですから。今、私とあなたが話をしているとします。私の発する言葉は半分でしかありません。あなたが、想像力の中で、あなた自身の思考の中からそれに付け加えることも、同じように重要なのです。そうでなければ、その会話には何の喜びも面白みもないじゃありませんか。

 ・・・そんな風にして、バッハは、曲のある部分へ来て、そこでは余りに僅かなことしか起こらないのでじっと考え込みました。余分な音は全てもう取り除いてしまった――そこはゼクエンツ(訳註:ドイツ語の音楽用語。英語では「シークエンス」。音楽作品における、対句的なフレーズの積み重ねによる経過句のこと)で、小さな走句が4回繰り返すようになっている――オーケストラやチェンバロの曲ならば、ここで和音を豊かに響かせるところだ――でも、《チェロ組曲》では、たった4つの音を1音高く繰り返し、また1音高く繰り返し、もう一回1音高く繰り返すだけだ・・・。さて、こういう部分こそ、バッハが、いつもちょっとした変化とヴァラエティを求めずにはいなかったイタリア式のボウイングについて、一所懸命に思いめぐらしたところであったに違いないのです。そんな風にして、バッハは、同じ旋律のパターンやフレーズが繰り返すところでは、毎回、小さな変化を工夫したのです。当時の人々は、演奏するときには楽譜を見ていたので、こうした変化を付けることには余り苦労はなかったでしょう。でも、現代の我々は、全てを暗譜で弾くので、こうしたボウイングの僅かな違いをいちいち覚え込むのは大変なことです。

 

■数学的マインド

 さて、ここでもう一つ問題になるのは、バッハはどうしてこんなことに精力を注いだのか、ということです。それは、彼の・・・ここでは「数学的な頭」とでも言っておきましょうか。あちこちの本で、学者さんたちが問題にしている数の象徴法――つまりB(2)+A(1)+C(3)+H(8)=14――14個の音符や14の小節でいろいろなものが表されている、というようなことについては、私は余り信じていないし、よしんばそれが本当だったとしても、演奏には余り関係がない。それがどのような演奏上の方法に翻訳できるか、ということには懐疑的にならざるを得ない。しかし、彼は弓の動き、使い方については非常に強い関心をもっていたに違いないと思うのです。アップとダウンは、すなわちデジタルの0と1という考え方と共通していますね。ここで、3つの音符のグループの弾き方を考えてみましょう。可能性は4通りあります。音符ごとに弓を返す方法、3つの音符にスラーを付けてひと弓で弾く方法、最初の2つの音符をスラーで弾く方法、そして、後の2つの音符にスラーを付ける方法の4つです。そして、その1つ1つについて、ダウンボウで始めるやり方とアップボウで始める方法があります。そんなわけで、3連音符のボウイングには8つのやり方があるわけです。さあ、ここで第6番のプレリュードを見て下さい――確かに読みにくいところはたくさんありますがね――これらの組み合わせがどんなに厖大なヴァラエティを生み出しているか。

 

■再び、バッハ夫人の写本

 そして、私が思うのは、これは単に偶然、バッハ夫人が弦楽器を弾かなかったということで、こうしたヴァラエティが生み出されたわけではない、ということです。だから、バッハ夫人のボウイングは出鱈目だと言うことは出来ません。それどころか、もしかしたら、バッハの自筆スコアはもう見つからないのではないか――つまり、それは、失われたり盗まれたりしたのではなく、バッハ自身によって破棄されたのではないか、とさえ思うのです。つまり、彼は、これらの組曲を繰り返し弾いているうちに、いろいろなところでボウイングを変え、変えても変えても新しい方法を思いつくうちに、もうその楽譜はほとんど読めないほど訂正で真っ黒けになってしまった。そこで彼は奥さんに、きれいな楽譜を一部拵えてほしい、スラーはいちばん外側の分を書いてくれ、と言ったのでしょう。もう使い物にならなくなった自筆譜は、彼自身でかまどにくべてしまったのかも知れません。このスコアには、確かにあちこちに書き落としや間違いもありますし、それをきちんと読む、というのは大変むずかしいことですが、同時に、我らの音楽の英雄の考えに近づくための、素晴らしい作業でもあると思うのです。

 

■ヴィオラで《チェロ組曲》を弾く

 バッハが、この組曲をそんなにたびたび弾いて、ボウイングの可能性の追求に取り組んだというのは、次のようなわけです。弦楽器というのは毎日練習しないと、1週間で指の筋肉が弱くなってしまって音程も取れなくなってしまいます。ヴィオラ・ダ・ガンバやチェンバロが、アマチュアによっても頻繁に、しかも立派に演奏されたのに対して、ヴァイオリンやチェロはプロの奏者のための楽器でした。バッハは、ヴァイマルの宮廷で、そしておそらくケーテンの宮廷でも、そしてライプツィヒのトーマス教会でも、弦楽器奏者として活躍しました。カール・フィリップ・エマヌエル・バッハがフォルケル(訳註:バッハの最初の伝記作者)に宛てた有名な手紙の中で、バッハの弦楽器の演奏について述べています。バッハは、ヴァイオリン属のすべての弦楽器の可能性について、とことん熟知しており、また、若い頃からかなりの高齢に達するまで、優れたヴァイオリニストでした。オーケストラを指揮するときは、ヴァイオリンを弾きながらやる方が、チェンバロを弾きながら指揮するよりも良い結果が得られたとも言っています。また、アンサンブルの中で、ヴィオラを弾くのが好きでした。当代随一のヴァイオリニストの一人が、バッハの無伴奏ヴァイオリンのための作品ほど、すぐれた奏者となるために最適の教材はないと語った、とも言っています。

 バッハは、よく知られているように、作曲だけでも大変に多忙でした。彼が長時間の机上の仕事に疲れた時、彼は痛む背中を伸ばし、気分転換のために好んでヴァイオリンやヴィオラを弾いたのではないでしょうか。彼が、お気に入りのヴィオラを取り上げて弾いたのは、《チェロ組曲》だったかも知れません――これには、何の証拠もありませんが。バッハがチェロを弾いたという話は聞いたことがありませんが、《チェロ組曲》はヴィオラで弾く方がずっと易しいのです。この議論の論拠となるのは、《チェロ組曲》全体の中でほんの10箇所ほど、普通のチェロでは左手で押さえるのが非常にむずかしい和音が出て来るのです。でも、ヴィオラで弾けば何の問題もありません。

 私が、ここでお話ししたことの多くは、ほとんど証明することの出来ないものばかりです。どちらかと言えば、「問題提起」に属することばかりですが、こうした事柄が私の想像力を掻き立ててくれるのです。(完)


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