チェリビダッケに学んだもの
――ユルゲン・クスマウルに訊く

 昨年秋、〈ラルキブデッリ〉の一員として来日したヴィオラのユルゲン・クスマウルに話を聞いた。クスマウルは、ドイツでも屈指のヴィオラの名手として知られ、〈ラルキブデッリ〉の中核メンバーとして、同アンサンブルのCDには、ヴァイオリンのフェラ・ベッツ(CDでの表記はヴェラ・ベス)、チェロのアンナー・ビルスマと共に必ず名を連ねている。子供の時に事故で左手の指を失ったため、右手で楽器を構えて演奏する。今回の来日では、〈ラルキブデッリ〉の室内楽演奏会の他に、読売新聞社・東京文化会館・東京都教育委員会共催の『音楽のタイムマシン』シリーズの第5回「ウィーンの巨匠たち」で、モーツァルトの《フィガロの結婚》序曲、《ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲》、ハイドンの《チェロ協奏曲第2番》、ベートーヴェンの《ヴァイオリン、チェロ、ピアノのための三重協奏曲》を指揮して好評を博した。オーケストラはザ・バロックバンドで33人の編成、独奏は、ベッツ、ビルスマ、そして筆者がフォルテピアノを担当した。クスマウルはモーツァルトの《協奏交響曲》では自らソリストとしてヴィオラの妙技も披露した。クスマウルは、以前には、ヘルムート・ヴィンシャーマン率いる〈ドイツ・バッハ・ゾリステン〉の一員としてたびたび日本を訪れており、来日回数は今回で11回を数える。デュッセルドルフの音楽大学で教鞭も執っている。


リハーサル風景


渡邊(以下W):
これまで我々は――録音や前回の来日などで――専らヴィオラ奏者としてのクスマウルさんの演奏に接してきたわけですが、今回の「協奏曲の夕べ」では、指揮者として素晴らしい手腕を示されました。私は、演奏会の前半は、4階の客席というかなり上の方で聴いていたのですが、今まで、日本のでもヨーロッパのでも、古楽器オーケストラがあんな風に芯から鳴っているのを聴いたことがありません。音楽の流れと楽器の響きが、一つの大きなうねりとなって聞こえて来ました。会場の音響も素晴らしいものでした。ただ、あの規模の編成のオーケストラにとっては、東京文化会館大ホールという会場はいかにも広すぎましたけれどね。

クスマウル(以下K):
完璧な仕上がりではなかったかも知れませんが、みんな実に生き生きと弾いてくれました。あのリハーサルから本番にかけての時間は、短かかったけれども、私にとってもとてもよい時間でした。私の考えでは、10冊の本を読み通すよりも、1冊のよい本をじっくり読むほうがいいと思います。今回は新しいことへの第一歩だったと思います――ここから何かが始まる、という。この演奏会のことは、ドイツへ帰ってからも、友人や知人たち皆に話したい、と思っているのですよ。

W:
そう、まさに始まりでした――それもとてもいい始まりです。日本でも、古楽器のオーケストラには既に15年ぐらいの歴史がありますけど、たとえば音程とかアインザッツとか、細部を整えることに忙しくなってしまう場合が多いと思います。今回はそういうものを超えていました。それは、クスマウルさんが、演奏者たちの自発性を最大限に抽き出されたからだと思います。誰もが楽しそうに演奏していました。内輪話になりますけれど、弦楽器奏者たちの多くが、リハーサルの初日から、こんなに楽しいオーケストラは初めてだと言っていたのですよ。

K:
皆いい表情をしていました。私も楽しかったです。というのも、彼ら彼女らはとても真剣で、いい耳をもっているからです。いい雰囲気でしたし。こういうときは気分が軽いものです。愛を感じるっていうのでしょうか。楽団と指揮者の感性が突然ピタッと合うという感じです。演奏していると、当然うまく行く時とうまく行かない時があります。うまく行く時には、そこに「いいもの」が存在しています。うまく行かない時には、その「いいもの」が欠けているんです。それを持って来なくてはいけません。

   

開演直前に楽屋の廊下で撮影
 
W:
楽団員の心を解放させるために・・・?

K:
そうです。そのために、私は自分には何ができるか、何をもたらすことができるかを考えます。それで充分ではないか、とね。楽団員の人たちは、それぞれ立派な音楽家なのですから。そして、精神的な意味で音楽は自由であるべきなのです。私は、今日では、指揮者は演奏家集団の理解者であるべきだと思います。このグループで何ができるか。楽団員の誰もに、自分自身が音楽を作っているという確信を持って弾いて貰わなければなりません。

W:
あの演奏会では、モーツァルトの《協奏交響曲》でのヴィオラのソロも見事でした。ヴァイオリンと一緒に、まるで愛のデュエットを奏でているように見えました。でも、楽器を右手に持ち替えるというのは大変なことだったのでしょう?

K:
私は4歳でヴァイオリンを始めたのですが、7歳の時に事故に遭って、左手の小指と薬指を失いました。休日で、私は牛のエサを切り分ける機械のところで手伝いをしていたところ、指を巻き込まれてしまったのです。アメリカのコーリッシュというヴァイオリン奏者をご存知ですか? シェーンベルクの義理の息子なんですが、彼は第一次世界大戦で負傷したため、楽器を右左持ち替えて演奏していました。それに倣って、私も楽器を持ち替えて練習しようということになったのです。丁度その頃に弟(ライナー・クスマウル=4年間、ベルリン・フィルのコンサート・マスターを務めた)がヴァイオリンを始めましたので、私が右に立ち、弟が左に立ち、父がまん中、という具合で練習しました。私たちはいつも一緒に練習していました。おかげでお互いに聴き合って弾くのが上手になりました。

 私の父はマンハイムのヴァイオリン奏者であり、また音楽大学でも教えていました。彼はまた、バイロイト歌劇場のオーケストラで、ヨッフム、カール・ベームなどの指揮で首席ヴィオラ奏者も務めました。素晴らしい時代だったそうです。よく話を聞かされたものです。

 さて、13歳から私はヴィオラを始めました。14歳か15歳ぐらいになると、父のレッスンから学ぶばかりでなく、自分自身のテクニックを身に付ける必要が出て来ました。しかし初めはとても苦労しました。全て自分自身で模索しなければならず、孤独に思ったものですけれど、これも今になって思えばよい経験だったと思います。怪我がきっかけとなって、私は自分がどう演奏するべきかを考えるチャンスを与えられたと思います。例えばどうやって(3本の指で持った)弓を動かすか、とか。今こうして教師として教える時にも、自分自身で考えてきたことが役に立っています。

 私の演奏法は特殊だと思います。私は力をこめず、自分の体重を活かして弾きます。こうして全身のバランスをとることができるのです。腕をどうとか、手をどうとか、細かい動きよりも全身のバランスを大切にします。バランスをとるというのが、私のもっとも重要に考えることです。

W:
両腕を別々に考えるのではなくて一つのまとまりとして、ということですね。

K:
その通りです。

 16歳の時、私はヒンデミットの前で演奏したことがあります。ヒンデミットは少年の私に向かって尋ねました。「私の音楽は現代的だと思うか」と。その時、あの偉大なヒンデミットが私に質問をしていると思うと、もう何も言葉が出なくなってしまいました。ヒンデミットは言いました。「たしかにハーモニーは現代的かもしれないけれど、ロマンティックに弾きなさい」と。

 その後、オーケストラの職を探しつつ、ハイデルベルクでソロ奏者をして、ケルンでも7年間ソロ奏者をしました。ここでギュンター・ヴァントに出会いました。1970年のことです。みんなと逆向きに弾いていた私をオーケストラに迎えてくれたのは、ヴァントだったのです。私の大恩人です。

 オーケストラではシンフォニーと並んでオペラをたくさん演奏しました。モーツァルト、ヴェルディ、シュトラウス、ベルクなどです。そういうスタイルの音楽を弾きながらも、私は室内楽――小アンサンブルや四重奏もやっていました。このころ私は教師になりたいと思っていました。そうなるとオーケストラをやめなければなりません。そんな時「ハーグに来ないか?」という誘いがあったのです。

 その頃のオランダでは新しい運動が始まっていました。いわゆる「古楽の復興」というものです。レオンハルトや、ブリュッヘン、フェスター、ビルスマ、クイケンなどが活躍していましたが、まだ一握りの演奏家のグループと考えられていました。そして1973年にアーノンクールがハーグで3週間の講習を開きました。ここでいろいろなやり方があることを学びました。この動きは最初はまるで反乱をおこしたかのように思われたのです!

W:
丁度、私たちが初めてオランダへ行った頃ですね。本当にあの頃は、全てが新しかった。

K:
そうです。そこで音楽についてのそれまでの考え方を洗い直してみる必要があると感じたのです。多くを読み、学び直す必要があると思いました。バッハについて読むことで、モーツァルトについてのヴィジョンが広がるっていうこともあります。実にいい時代で、いろいろ試行錯誤することができました。レコード会社はいろいろ注文をつけて来ましたが、「僕たちはいろいろ試しているんだよ」と言って済ませちゃいました。

 こんな質問をされたことがあります。「あなたは古楽演奏家ですね。あるロシアの指揮者は、バッハのアリアを演奏するのに8台ものコントラバスを使うのですよ。どう思いますか?」と。私は答えました。「いいじゃないですか、どんどんやったらいいんですよ」とね(笑)。ひょっとしたらいい響きがするかも知れません。何でもやってみればよろしい。

 
W:
質問した人は、期待が外れてさぞがっかりしたでしょうね?

K:
心を閉ざすことによって、得るものはありません。ただ排除するのではなく、なんでも試してみるのが大切なんです。たとえばカラヤンの死後にベルリン・フィルがアーノンクールを招いたことがあります。両者のスタイルは全くちがいますけど、これによってより豊かな音楽が生まれるのです。単なる妥協というのではなく、より多くの可能性に目を向けるという意味で。

 オランダではこうして楽しい時期をすごしました。そうしているうちにデュッセルドルフのシューマン音楽院の教授として招かれました。オランダで多くを学び、今これをデュッセルドルフにもたらすことができるのです。ロベルト・シューマン・オーケストラも指揮しました。指揮といえば、私がチェリビダッケに指揮を習ったことをお話しなければなりませんね。彼は偉大な人物で、音楽についてしっかりとした考え、哲学をもっていました。そして頭からばかりでなく、その感性によって人々に考えを伝えようとしました。私は彼について、5年間指揮を学び、客演指揮者としてあちこちのオーケストラへも行きました。しかし、もう充分だと思った時にやめてしまいましたけれど・・・。〈ラルキブデッリ〉の活動に専念する、というのも理由の一つでした。

 私たちは1989年にソニーと契約を結びました。三重奏、四重奏、五重奏、六重奏……いろいろな組み合わせでたくさんのCDを出しました。

W:
それもほとんど名前の知られていない作曲家たちのものや、有名な曲でもあまり知られていないヴァージョン(モーツァルトの《協奏交響曲》や、ベートーヴェンの《クロイツェル・ソナタ》の室内楽版等)など、興味深いものがたくさんありますね。

K:
そうです。最近はCD産業が世界的に不振ということもあり、コンサートが相対的に増えています。ところで、先日の「協奏曲の夕べ」の演奏会以来、私が考えていることがあります。それは、また指揮台に復帰しよう、ということです。この一事でも、あの演奏会が、私自身にとっても、いかに重要な体験であったかがおわかりでしょう。

W:
私は、残念なことに、チェリビダッケの演奏を録音でしか聴いたことがないのですが、彼の演奏の中の、あの独特な響き――身体の中にスッと入って来て、そこで大きく広がって行くような響きには、いつも驚かされるのです。この間の「協奏曲」の時にも、同じような感触の響きがありましたね。

K:
私は多くの指揮者に出会いました。ギュンターヴァントはそのうちもっとも優れた人物の1人です。ヨッフム、カラヤン・・・。でもチェリビダッケは別格です。音楽はただ演奏すればいいというものではないと教えられました、音楽はどこかに既に存在しているものではなく、その場で生れ育ってゆくものだ、精神性もテクニックも全て1つにして、音楽と向き合わなければならない、と。私は古い考え方で、音楽は感じるものだと信じていましたが、チェリビダッケに出会って初めて、音楽は感じるだけではないと学びました。

 チェリビダッケは言いました。「モーツァルトには調和している部分とそうでない部分がある。それがハーモニーなのだよ」と。そして、これが人生なのだ、とも言いました。いい時もあれば悪い時もある。しかし、人生には、真に悪いことは何もない、全てはいいことである、と。音楽家はモーツァルトやベートーヴェン、ブラームスなどを学び、何が真のハーモニーであるかを見つけるべきです。きれいに響いているだけがハーモニーではないのです。そして、音符の1つ1つについて考えるだけではなく、その向こうにある精神を見きわめなくてはなりません。

 彼は音楽に対して深い哲学をもっていました。その背景には「禅」の影響があります。日本に来ると多くの禅師を訪れたそうです。彼が座って指揮をしている姿は、禅僧のように見えたものです。インタヴューで、何故それほどリハーサルを繰り返さねばならないのかと尋ねられた時、彼はこう答えました。「もしクラリネット奏者が2種類の音しか出せないのなら2時間で充分だ。しかし実際には150種類の音を出せるのだ。だから時間がかかるんだ」と。彼の指示を受けていると、まるでスコアのお風呂にどっぷりつかっているとでもいうような感覚でした。彼は繊細で愛に満ちた人でしたが、その一方で激しい感情の持ち主で、不満なことがあるとフランスまで飛び去ってしまい、市長さんがあわててフランスまでなだめに行ったという逸話もあります(笑)。

 私が思うに、チェリビダッケはいつも戦っていました。全てをよくするために戦っていたのです。彼はあるとき素晴らしいことをしました。ミュンヘン市当局が予算を減らそうとしたとき、彼は談判に行ってベートーヴェンの例を出して演説しました。ベートーヴェンがいかに多くの人たちに仕事を与えているか、と。ベートーヴェンに関する仕事をしている人たちを並べ挙げました。お客さんが利用するホテル、レストランから始まって楽譜を作る編集者に至るまで、実にたくさんの職種を挙げました。これは大会社に匹敵する規模で、つまりベートーヴェンは大会社以上に雇用を生み出している、と。こうして当局を説得して、何とか予算をかち取ったそうです(笑)。これがチェリビダッケという人物でした。溢れんばかりの知性とユーモアの持ち主だったのです。

W:
私には、チェリビダッケの演奏とフルトヴェングラーの演奏には、ある種の共通性が感じられるのですが、どうでしょうか? 特にあの柔らかくてしかも底力のある響きとか、音楽の流れ方などにはとてもよく似ているところがあるように思います。その一方で、この二人は大いに違ってもいる。フルトヴェングラーの方には、強靱な意志と集中力から来る説得力の大きさを感じます。特にベートーヴェンでは、これこそが正にベートーヴェンだと思わせるような、力の漲った演奏です。チェリビダッケの方は、もっと聴き手の心を和ませるような――先程も言いましたけれど、スッと入り込んできて、いつの間にか彼の世界へ連れて行かれてしまう、というような・・・

K:
フルトヴェングラーもチェリビダッケもインスピレーションにあふれた音楽家たちでした。ただ彼らは、人々がもっと切ない感情をもっていた時代の人たちでした。この二人は、属している世代も、時代も違います。(BBC製作のビデオ《アート・オヴ・コンダクティング》の中で)ベルリン・フィルの元ティンパニ奏者が語っているように、フルトヴェングラーがホールに入って来るだけで、オーケストラは特別な音を出しました。彼こそが音楽であり、彼は王様でした。そういう王様が求められた時代でもありました。チェリビダッケは次のステップでした。「君たちは自分の理解できるものしか弾いてはいけない」と、彼は言いました。指揮者は「こう弾きなさい」とは言っても、「こう感じなさい」とは言えません。大事なのは、指揮者とオーケストラがお互いに理解しあうことなのです。そしてより自由な気分になる。チェリビダッケは、オーケストラの前に音楽を持って来るだけではなく、楽団員たちを音楽のところへ連れて行きました。さて私たちの時代はどうでしょうか。この半世紀の間に、音楽は大きく変わりました。ベルリン・フィルは次期の常任指揮者としてサイモン・ラトルを選びました。古いやり方は終わったという判断です・・・

 そういえばチェリビダッケはマインツの大学で教壇に立ったことがありました。

W:
そうでしたか。そういう時の講義録などが残っていれば面白いでしょうね?

K:
彼は、何か原稿をつくって読み上げるとか、あらかじめ内容を決めて話をするというタイプではありませんでした。彼の第一声は「何を質問したいのかね?」というもので(笑)、それから、「うん、これはいい質問だね、ははは」というような具合で進んで行きました。このやり方はとてもうまくいきました。準備したものを読み上げるよりはずっとよかったでしょう。それでは発見がありませんからね。人との交わりの中で多くのことを考え、いろいろなことを発見するのです。チェリビダッケは答を与えませんでした。「あとは自分で考えなさい」と言いました。

 私のところへも、学生たちが時々質問に来ます。私はよくこう言います、「その答は、君自身で見つけなくてはいけない。そのためには、もっと深く理解することが必要だ」ってね。

W:
簡単に答の出る命題というのは、大して重要なものではありませんからね。

K:
近ごろでは哲学的なことを考えるようになりました。東洋の哲学や占星術などにも興味があります。何がおもしろいのか、何が新しいのか、と私は考えます。最近では「自分自身を知ることが、内的な活力の源である」と考えるようになりましたが、これも東洋的な発想だと思います。私は新しいもの、未知のものに進んで目を向け、理解しようと努めていますし、学生たちにもそうするように教えています。音楽の奥に潜むもの、人生の奥に潜むものを見通さなくてはなりません。弦楽器の技術を磨くことは重要ですが、それを使って何をするのか、というのはもっと重要な問いかけです。私がよく言うのは、学生の間にしっかり音楽を学んで欲しい、だが、君たちがそのうちに答えを出さなければならないのは、人生において何を為すべきか、君たちにとっての音楽とは何なのか、ということなのだ、と。ただもっと上手になりたいと思うだけでは不十分なのです。それだけでは人生は豊かにはなりません。もっとハーモニーが必要です。人々と意見を交わすこともとても必要です。


 この後も話は続いたが、その全てをご紹介することは出来ない。今回、2週間にわたって、彼といろいろな話をしたり一緒に演奏したりした中で、非常に印象に残る出来事があった。それは、私の家でビルスマ夫妻たちも一緒にいろいろな指揮者のビデオを見ていたときのことである。戦後間もない頃、連合軍の爆撃で瓦礫の山と化したベルリンの旧フィルハーモニー跡の廃墟で、チェリビダッケがベルリン・フィルを振ってベートーヴェンの《エグモント》序曲を演奏している映像を見ながら、クスマウルはさめざめと涙を流していた。彼の胸中には、戦後の荒廃から立ち上がり、復興と発展を実現して行ったドイツの音楽界の様々な情景が去来していたに違いなかった。その時私は、この人が、ドイツの弦楽器演奏の伝統の中心に近いところで育って来たことを、今更ながら実感せずにはいられなかった。そうしてヴァントやチェリビダッケなどの巨匠と親しく交わる一方、ドイツの古楽器演奏の中心の一つであったケルン、そしてオランダで古楽復興の新しい空気をいっぱいに吸い込んだ。そのようにロマン派以来のドイツの古い伝統と新しい要素が結びついているという点で、この人物は、オランダ・ベルギーやイギリスの古楽器奏者たちとはかなり趣を異にしている。そして、今、彼の中では、新しい音楽のイメージがはっきりとした像を結びつつあるようなのである。私は、次回の来日で彼がどのような演奏を聴かせてくれるか、改めて期待に胸をふくらませると同時に、この次も是非、日本の古楽器オーケストラが彼の指揮の下で演奏できるような機会を作りたいという思いを新たにした。

 末筆になってしまったが、今回、このオーケストラ演奏会の企画を実現させて下さった主催者、読売新聞社、東京文化会館、東京都教育委員会、このシリーズ全体の企画を担当された音楽評論家の那須田務氏に、謹んで謝意を表したい。

レコード雑感 チェリビダッケのドヴォルザーク

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