ビルスマの『バッハ』
――かくて『古楽』は克服された――
(「音楽現代」[1999年12月号]所収)

 十月の十三日と十四日の二日間にわたって東京の浜離宮朝日ホールで行なわれた、アンナー・ビルスマのバロック・チェロによるバッハの《無伴奏チェロ組曲》の全曲連続演奏会は、私にとってこの上ない体験の場となった。私は、過去二十年余りにわたってビルスマによるバッハの組曲を、幾度となく聴いてきたし、そればかりか、たび重なる来日の折毎にチェンバロあるいはフォルテピアノで彼と共演し、その度に、バッハの無伴奏組曲のことが何らかの形で話題にのぼらぬことはなかった。アムステルダムの彼の家に泊まって、真夜中に、彼のバッハの練習に立ち会ったことも一度や二度ではない。私の知っている限りの音楽家のレパートリーの中で、ビルスマの弾くバッハの組曲ほど私にとって親しいものは他に例がない。そんなに長い付き合いをしているにもかかわらず、彼の弾くバッハの組曲が、今回ほど新鮮に響いたことはなかった。この素晴らしい組曲群が、今まさに創られていくのをまのあたりにしているような、そんな驚きに満ちた感動を与えてくれたのである。それは、過去を探求する――いわゆる――『古楽』とは全く次元を異にした、今を生きている人間が創り出す「音楽」の真実の姿であった。


■古楽器演奏の使命とバッハの演奏
 ビルスマの『バッハ』が、近年の古楽器演奏―あるいは、それも含めて『古楽』と呼ばれている領域における顕著な成果の一例であると考えるとしたら、それは大変な誤りあるいは認識不足と言わざるを得ない。その問題に踏み込む前に、ひとまず、近年の古楽器によるバッハ演奏を眺め渡しておこう。

 過去三十年ないし四十年間に及ぶ古楽器演奏が現代の音楽生活に於いて果たしてきた役割は、主に次の二点に要約される。その一つは、過去の歴史的な経緯に於いて、趣味嗜好や価値観の変化のために忘れ去られ、埋もれてしまった多数の秀れた音楽作品を発掘し、現代に蘇らせることであり、もう一つは、これまでも繰り返し演奏されてきた、言ってみれば既知の名曲の数々に、従来とは全く異なる別の角度から光を当てることであった。それは、何れにせよ、それまでの聴習慣に対する挑戦であった。

 バッハの作品の演奏に於いては、主に第二の役割が発揮されたわけだが、それは、多かれ少なかれ、第一の役割と連動していた。耳慣れない響きによる耳慣れない音楽に眉をひそめて警戒感を顕わにし、あるいは拒絶し、あるいはとまどいを隠せない人々は決して少数ではなかった。だが、その一方で、数世紀の時空の彼方から全く新しい姿で登場したモンテヴェルディやシュッツの作品に、あるいはリュリやラモーのオペラに驚きの目を瞠り、それらの作品の虜になる人々は、着実にその数を増やして行った。そうした人々の間では、古楽器演奏が、メンデルスゾーンによる《マタイ受難曲》の復活上演以来、バッハの作品に降り積もった埃や塵を一掃してくれるのではないかという期待感が強まったし、古楽器演奏によってバッハの作品の色彩豊かな世界に眼を開かれた人の中には、バッハ以外の音楽にもその関心を広げて行く人々も少なくなかったのである。演奏家の側に於いても、新天地の開拓と既知の世界の見直しはおおむね連動して行われた。

 バッハの作品の演奏に於いて特に重要な役割を果たして来た古楽器奏者として、先ず挙げなければならないのは、グスタフ・レオンハルトとニコラウス・アーノンクールであろう。彼らの業績を端的に象徴するのが、テレフンケン社によるバッハのカンタータの全曲録音という、一世紀に及ぶレコードの歴史の中でも未曾有の企画であったことは言うまでもない。この企画は、その完成までに、実に二十年近くの歳月を費したのである。この二人は、それぞれ、ミサ曲や受難曲など、バッハの作品中でも最も重要な代表作の指揮も、頻繁に手がけている。レオンハルトと頻繁に室内楽を演奏してきたオランダ・ベルギーの古楽器奏者たちの存在も重要である。なかんずく、リコーダーとフラウト・トラヴェルソのフランス・ブリュッヘン、チェロのビルスマ、そして七〇年代にそれに加わったクイケン三兄弟など。ブリュッヘンがその後指揮者に転向し、十八世紀オーケストラの主宰者として、自らもミサや受難曲の指揮に携わっていることは、古楽ファンなら知らぬ人はあるまい。また、レオンハルトの弟子ながら師とは異なる演奏スタイルによってアイデンティティを主張し続けているトン・コープマンもまた、今や押しも押されもせぬ大家としての評価を確立している。これらの奏者たちは、教育者として後進の指導にも情熱を傾け、アムステルダムやハーグの音楽院の古楽器科には、世界中から留学生が殺到することとなった。

■古楽器を取り巻く状況の変化
 私自身が直接見聞きして来た限りで言えば、古楽器奏者たちが最も創造的で、溌剌たる活力に溢れていたのは、七十年代の後半であったろう。この時期になると奏者の層も飛躍的に厚くなって音楽的・技術的水準が向上し、それまで珍しかったリュートやコルネット、ナチュラル・トランペットやホルンなども随時調達可能となり、長年の懸案であった大曲が次々と演奏されるようになる。声楽陣の充実も忘れてはならないだろう。こうして、「夢」が次々に実現されて行く様は、傍目から見ていてもスリリングでさえあった。だが、八十年代の終り頃になると、一部の識者は、停滞の臭いを敏感に嗅ぎつけるようになる。その傾向は九十年代に入ると一層顕著なものとなった。一九八五年のバッハ生誕三百年、九一年のモーツァルト没後二百年など、レコード会社は機会を捉えては大量のレコードやCDを市場に供給して来たが、それは停滞の黒雲を退散させる助けになるどころか、安易なCD製作のルーティン化は、総体的な演奏の質の低下を助長しただけという感が強い。こうした現状を打開して往年の輝きを取り戻して欲しい、と願うのは、独り筆者のみではあるまい。

 こうした停滞の原因を考える上で見逃すことが出来ないのは、先に述べた『古楽』の役割が比較的短期間のうちに変質した、ということである。これらの二つの役割をまとめるならば、「新しい音響世界の実現」ということになろうか。しかし、最近までいわゆる「クラシック音楽」の分野における新参者であった『古楽』が――少なくともレコードに於いては――急速に普及し市民権を獲得したために、『古楽』の新しさは大幅に薄められることになった。特に二番目に挙げた、古楽器によるバッハ演奏が、既知の名曲に新しい光を当てたという新鮮な驚きを与えるためには、従来からの伝統的なバッハ演奏が経験されていることが前提となる。しかし、古楽器演奏の急速な普及のおかげで、今の若い音楽ファンが、バッハの代表作を初めから古楽器で聴く、という状況は珍しくなくなりつつある。そして、バッハと古楽器を取り巻くこのような状況の変化は、演奏する側に対しても大きな変化をもたらしたのである。

 一九七二年に発売されたテレフンケンのカンタータ全集第一巻の解説の中で、アーノンクールは「十八世紀の楽器は、現代の完全な楽器の不完全な前身ではない・・・私たちは、長い間の試行錯誤を経て、単に音楽のみならず全ての芸術の面で、進歩の概念への信奉を捨てて、全ての時代にはその時代に最適の楽器があったのであり、あらゆる時代の音楽を完全に演奏するような理想的なオーケストラなどは存在しないということがわかってきたのである。」と述べている。この言葉は、古楽器のオーケストラに耳を傾けるように聴き手を説得し、また、こうした演奏に携わる奏者を鼓舞するために発せられている。だが、現在の聴衆や弾き手に対してなら、このように真っ向から熱弁をふるう必要はない。もっと肩の力を抜いたところで、古楽器によるバッハ演奏をごく自然に受け容れている人が多いのである。

 古楽器奏者の関心の中で中心を占めるのが音響の問題――バッハの音楽そのものよりも、それを演奏するための素材である「音」であり、それを個々の古楽器でどのように出すか、というような現場の現実的な問題であるような場合は少なくなかった。「演奏」が、いま、ここで行なう本質的には一回限りの行為である以上、いま、ここにいる演奏者は、二百年以上も前に作曲されたバッハの作品の中にある「真実」との如何なる関わりに於いてその一回限りの行為を行なおうとするのか、というのが「演奏」における基本的な命題であるはずである。そうした演奏における本質的な問題と、古楽器奏者たちが取り組んで来た「十八世紀の演奏習慣」という問題との間にはかなり大きな距離がある。一つの楽器の奏法でも国や流派によっては大きな違いがあり、個人差も大きい。「演奏習慣」という極めて曖昧で根拠も怪しげなものと取り組むことは、作品の内奥の真実という「本丸」を攻略するためには、「外堀」を埋めるという、極めて迂遠な方法に見える。しかし、前述のアーノンクールの言葉が発せられた時代には、いわゆる伝統的なドイツ的バッハ演奏というものが厳然と存在した。バッハの声楽作品がシンフォニック・オーケストラによって演奏されることも珍しくなかったし、カール・ミュンヒンガーの率いるシュトゥットガルト室内管弦楽団、カール・リヒターのミュンヘン・バッハ管弦楽団などの演奏団体も広い支持を得ていた。古楽器奏者たちは、そうした団体に代表されるような伝統的なバッハ解釈と、作品把握の点でも一線を画する必要を強く意識していた。「演奏習慣」の研究は、取り組んでまだ日の浅い古楽器から説得力のある響きを引き出すためにも、自らの作品理解や発想の根源を吟味する上でも、格好の材料を提供した。古楽器やその演奏習慣との取り組みは、個々の古楽器奏者の自己変革をもたらした。だから、「演奏習慣」についての知識は、伝統的あるいは因習的な音のイメージに対するアンチテーゼとなれば、それでも十分だったのである。喧しい議論も盛んに行なわれた。「ほんもの」を意味する「オーセンティシティ」「オーセンティック」という言葉が頻繁に登場する。古楽器演奏に反対する人々は、古楽器によるバッハ演奏がオーセンティックであることなど、認めるわかはなく、古楽器奏者の側にも、それを断言する根拠などありよう筈はなかったが、少なくとも「自分自身を発見している」という点において、古楽器奏者にはオーセンティックな音楽家が多かったように思う。

 だが、時は移り、古楽器奏者を取り巻く状況も急速に変化する。個々の楽器の奏法が確立され、実際演奏の様々な局面に対処するためのノウハウがある程度定式化されてくると、古楽器奏者たちは、自ら思考することよりも、それらのノウハウを学ぶことに忙しくなってくる。ノン・ヴィブラート奏法、強拍の出し方や弱拍の抜き方、純正音程の取り方、弓の上下に伴う不均等な奏法、長い音符の中ほどを膨らませるやり方、顎当てやエンド・ピンを使わないで楽器をもつ方法、肘を使わない弓のさばき方・・・等々。こうして、演奏習慣に関する知識や方法は、最早アンチテーゼなどではなく、従わなくてはならない規則=ドグマとなる。支持者が飛躍的に増えたたため、反対派は相対的に減少し、本質的な議論も影を潜めてしまった。こうして古楽器演奏の伝統が形成されたのである。それは、ついこの間まで伝統に対する反逆者だった古楽器奏者が、伝統の中に埋没し始めたことを意味する。


■弦楽器演奏の新しい動向
 九〇年代に入って目立ち始めた興味深い現象の一つは、いわゆるモダン楽器のシンフォニー・オーケストラの団員の中に、古楽器についての知識や経験が普及しつつあることである。カラヤン没後のベルリン・フィルでは、コンサートマスターのライナー・クスマウルの指導の下に、バロック・ボウ(弓)を揃え、オーケストラぐるみでバロック・ボウによってもたらされる演奏効果を学んだ。このため、このオーケストラの古典の演奏能力は飛躍的に向上したという。古楽器演奏が早くから盛んになったオランダのコンセルトヘボウ・オーケストラや、バッハの声楽作品を演奏する機会の多い、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス・オーケストラの弦楽器奏者の中には、モダンの弦楽器とバロック楽器の両刀使いが増えている。それらの弦楽器奏者の有志が集まって室内オーケストラを編成し、モダンの弦楽器でバッハやヴィヴァルディを演奏する。その際には、バロック・ボウやガット弦が多く使われる。そして、何よりも重要なことは、古楽器の演奏スタイルを大幅に採り入れていることである。これはモダン楽器の表現力を生かしながら、バロックや古典派の作品をそれらに相応しい演奏スタイルで演奏するための、大変有効な方法である。純粋主義者はこれを「折衷的」であるといって批判するかも知れないが、失われるものよりも得られるものの方が多ければ「賢明な選択」と呼ぶべきであろう。こうした最近の動向は、こと弦楽器の演奏に関する限り、「古楽器」と「モダン楽器」の間の垣根がどんどん低くなり、あるいは取り払われつつあるということであり、長年にわたるバッハあるいはバロック音楽の演奏における多様な試みの成果として、肯定的に評価すべきものである。

 このようなことが可能になるのは、ヴァイオリン属の弦楽器に於いては、バロック楽器とモダン楽器の間の差異が、他の楽器の場合に比べて遙かに小さいからである。バロック・ヴァイオリンとモダン・ヴァイオリンの発音と振動については、原理的な違いは全くない。両者の違いは、主に、ネック(棹)と楽器本体の為す角度の違いによる張力の違い、表板の低音側の内部を補強する響棒(リブ)(バス・バーあるいは力木とも呼ぶ)の長さ・太さ及び高さの違い、表板の振動を裏板に媒介する魂柱の太さの違い、弦振動を表板に伝えるブリッジ(駒)の高さや厚み・形状の違いなどによる。はっきりした規格などはないので、これらの違いは全て相対的なものである上、個体差も大きい。一般的に言って、バロック・ヴァイオリンの方が音量が小さく、音色が細いのはもちろんだが、一七四〇年頃を境に、イタリアの有名な製作者などはほとんどモダンと変わりがないような楽器を作っている。弦の材質の違いも、音色にとって決定的とは言い難い。ガット弦でも、巻線の場合は、巻いてある金属の違いによって音色はかなり変わって来る。もし、ここで、ガット弦を張ったモダン・ヴァイオリン、スティール弦を張ったバロック・ヴァイオリン、ガット弦を張ったバロック・ヴァイオリンを、三人の個性の異なる演奏者が違う弓を使って弾いたなら、弦楽器の専門家でもそれらを判別することは難しいだろう。かつてはモダン・ヴァイオリンとの違いを鮮明にするために、バロック・ヴァイオリンには細い弦を張ってヴィオラ・ダ・ガンバのような音の出し方をするヴァイオリン奏者が珍しくなかったが、今では、同じ奏者が太めの弦を使い、場合によっては、ネックにも少し角度を付けるような手を加えている。その方が、張力が高くなって、モーツァルトやハイドンなど古典派の音楽を弾くときに都合がよいからである。最近では、ヴィブラートも増える傾向にある。そんなわけで、楽器の方の差異も縮まる傾向にあるのが現状なのである。


■ビルスマの弾くバッハの組曲
 ビルスマの無伴奏組曲に話を戻そう。彼の、この作品についての考え方は、旧録音の日本版が発売されるときにインタヴューしたものが、今でも旧盤の解説書に載っている。一九八〇年夏のものだが、基本的なコンセプトはいまだに変っていない。私が彼と音楽について細部にわたって話し合ったのはこの時が初めてであった。だから私と彼の付き合いは、バッハの無伴奏組曲をもって始まったわけである。彼の演奏は、常に溌剌たる精気に溢れたもので、しかも即興性に富んでいた。だが、それは、様々な演奏の可能性をカタログにして見せるような、安易な即興性とは無縁なのである。いま、ここにいるビルスマという演奏家が、二百年以上も前に書かれたバッハの作品とぎりぎりのところまで対峙して、煮詰めきったところから生まれて来る「自由」が、そこには感じられるのである。

 九二年の一月に収録された新録音で、私は度肝を抜かれた。そこで彼が弾いていたのが、ワシントンのスミソニアン博物館が所有する大型のストラディヴァリウスという、最高の「モダン」チェロだったからである。弓もまた、最高のモダン・ボウといわれるペカットであった。これが、ビルスマ自身にとって悩み抜いたあげくの苦渋の選択であったことは想像に難くない。何故なら、彼はその約一年前に、バロック・チェロを用いた録音を開始したが、その結果に満足せず、結局その録音を破棄しているからである。このストラディヴァリウスの名器は、十九世紀はじめのベルギーの名手セルヴェが愛用していたところから今日でも「セルヴェ」の渾名で呼ばれる、現代の通常のチェロよりはるかに大きな楽器で、ビルスマは、この数年前からこの楽器が気に入って、それまで何度かロマン派作品の録音でも使用していた。彼が今までに出遭ったどんなチェロにもこんなにインスピレーションを与えてくれる楽器はなかったと、彼が熱弁をふるうのを私は何度も聞かされていた。だが、それと、その楽器を『バッハ』の演奏に用いることとの間には大きな飛躍がある。この新盤の演奏は、彼の生演奏を彷彿とさせる喜びに溢れ、最高の「バッハ弾き」の面目躍如たるものであった。楽器からどんなインスピレーションを得ようと、彼自身の演奏はますます彼自身の個性に溢れたものとなり、作品との結び付きも一層強固なものとなる。これが、音楽の「真実」でなくて何であろう。こうして、彼は楽器の制約、演奏習慣などという次元を超えて、バッハ演奏の新しい地平に立った。

 丁度この頃から、ビルスマは、バッハの妻アンナ・マクダレーナの筆写譜が示すアーティキュレーションと取り組んでいた。《無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ》には美しい自筆の浄書譜が残っているのに対し、チェロ組曲では、現存する原典資料の中でバッハに最も近いものが、このアンナ・マクダレーナによる写本なのである。ところが、この写本に於いて、音符がバッハの原譜に出来るだけ忠実に写されていることは疑いないものの、アーティキュレーション即ちボウイング(弓使い)を指示するスラーは、モダンとバロックを問わず、あらゆる弦楽器奏法の常識に反しているのである。その結果、今日の原典版楽譜を編集する学者たちは、この写本のスラーを、弦楽器についての知識の不足とずさんな筆写による間違いだらけのものと見なし、他の写本や弦楽器奏者の意見に基づく「大幅な改善」を試みているのである。ところが、ビルスマは、音楽家としての夫を限りなく尊敬していた忠実な妻が、そのようなずさんな仕事をするだろうか、と首を傾げる。彼によれば、無伴奏ヴァイオリン作品で、重音の多用などによって左手の可能性の限界に挑んだバッハは、チェロ組曲では、右手による表現のあらゆる可能性を追求した、というのである。自身、秀れた弦楽器奏者でもあったバッハは、自分の得意なヴィオラで再三これらの組曲を弾いてみるうち、あらゆる禁則を破った前代未聞のボウイングを編み出したのに違いない。自分はこのボウイングと取り組むうち、最近ようやくバッハの意図が分かるようになってきたように思う、と。

 そして今回、見ていると目が点になってしまうような破天荒な弓さばきで弾かれたバッハの組曲では、全ての音が自由に息づき、それぞれにふさわしい表情と色合いをもち、躍動する生命力に溢れていた。この組曲集を弾いて、これ以上の演奏も、これ以外の表現もあり得ないと思わせた。初日はモダン・ボウ、二日目はバロック・ボウが使われたが、初日の弓の選択は、会場の湿度に対応するためだったという。あれから何週間かが過ぎ去ったが、バッハのチェロ組曲は、今も私の耳元で鳴り続けている。(完)


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