映画『アンナ・マクダレーナ・バッハの日記』の出演者と音楽について
(アテネ・フランセ主催映画鑑賞会[1998年]における講演)


Chronik der Anna Magdalena Bach (bw, 94 min; Germany/Italy 1967)
スタッフ:
監督・脚本:ジャン=マリー・ストローブ、ダニエル・ユイレ
撮影:ウーゴ・ピッコーネ、サヴェリオ・ディアマンテ、ジョヴァンニ・カンファレッリ
キャスト:
グスタフ・レオンハルト、クリスティアーネ・ラング、ヨアヒム・ヴォルフ、ライナー・キルヒナー、
ニコラウス・アーノンクール、アウグスト・ヴェンツィンガー、ボブ・ファン・アスペレン

 今日ご覧頂く『アンナ・マクダレーナ・バッハの日記』という映画が、ジャン=マリー・ストローブとダニエル・ユイレの代表作として、非常に高い評価を受けている映画作品であることは言うまでもありませんが、音楽本位の視点から、すなわちバッハの伝記という題材本位の視点、それからバッハ演奏史という視点から見ても、これは大変興味深い映画であります。

 私は、チェンバロ奏者で、バッハの作品の演奏に大変力を入れております。1970年代にアムステルダムへ留学して、この映画でバッハを演じているグスタフ・レオンハルトについて学びました。それが、おそらく、主催者から今日こうした話をしてくれとのご依頼を受けた理由であろうと思います。

 今日、バッハの作品を演奏する際には、古楽器すなわちバッハの時代の楽器あるいはそのレプリカを使う、というのがほとんど常識のようになっています。もちろん、ピアノで演奏されることも珍しくありませんし、最近では、サイトウキネン・オーケストラが小沢征爾さんの指揮で《マタイ受難曲》を演奏して話題になりました。しかし、新しく発売されるバッハのCDは、そのほとんどが古楽器演奏によるものですし、欧米の古楽器演奏家も、ほとんどひっきりなしに日本へやって来ます。しかし、古楽器の演奏がこんなに盛んになったのは、ごく最近の話です。例えば、1985年に、バッハの生誕300年を記念するいろいろなイヴェントがあちらこちらで開かれた時には、まだ古楽器の是非論があちらこちらで闘わされていました。


 この映画には、20世紀後半を代表する古楽器奏者が2人登場します。その一人が、チェンバロとオルガンの比類のない名手で、主役のバッハを演じているグスタフ・レオンハルトであり、もう一人が、最近は指揮者として縦横の活躍をしているニコラウス・アーノンクールで、この映画では、1717年から23年にかけてバッハの雇い主であったアンハルト=ケーテンのレオポルト侯爵を演じています。

 この映画が作られた1967年頃には、古楽器演奏はまだ緒に付いたばかりでした。そうした当時の状況を考えると、この映画の演奏に古楽器ばかりを使用する、というのは大英断でした。映画製作者たちの炯眼というか、見識の高さには驚くべきものがあります。この点では、1986年に『アマデウス』を作った映画製作者たちの情けなさと比べると、好対照ですね。しかも、この映画が実際に撮影される10年も前に、彼らは、当時まだ殆ど無名に等しかったレオンハルトに白羽の矢を立てていたというのですから、これには驚くほかはありません。

 この映画の演奏シーンのために、彼らは、当時のヨーロッパ中の古楽器演奏家をほとんど総動員したようです。レオンハルトとアーノンクールは1950年代の後半から、それぞれの本拠地であるアムステルダムとウィーンで、古楽器の演奏団体をスタートさせたのですが、はじめのうちは室内楽がほとんどで、ミサや受難曲のような大規模な作品は問題外でした。それは、弦楽器や管楽器の奏者で、古楽器を手がける人が非常に少なかったからです。それが、この映画の製作される少し前の1965年頃から、徐々にではあるが、「ヨハネ受難曲」のような大曲のレコーディングが始まりました。しかし、アーノンクールが「マタイ受難曲」を初めて古楽器で録音したのは、1970年になってからだったのです。そこで、この映画のために、製作者たちはレオンハルトの古巣であるバーゼルのスコラ・カントルムにも応援を頼みました。映画のタイトルには、「アウグスト・ヴェンツィンガー指揮によるバーゼル・スコラ・カントルムのコンサート・グループ」とクレジットされています。

 

 さて、ここで古楽器演奏の歴史を少し振り返ってみましょう。

 ちょっと話が難しくなりますが、「古楽器演奏」というものの背景には「原典主義」というものがあります。バッハ演奏における原典主義は、3つの段階を経て今日に至っています。それは先ず、「楽譜」すなわち作曲者のオリジナル・スコアの復元に始まり、それから、作曲者が直接意図していた楽器の復興、それから作曲当時の演奏習慣の復興という風に進んで行きます。

 バッハの音楽というのは、バッハの没後、ほとんど演奏されなくなってしまいますが、1800年頃になると鍵盤の独奏曲を中心に、バッハの作品に対する興味が少しずつ盛り上がってきます。そして、1829年、メンデルスゾーンによって、「マタイ受難曲」が初演後100年という記念すべき年に復活上演されたことで、世の大衆がバッハの偉大さを知り、「バッハ熱」に火がつきます。そして、1850年にバッハ没後100年を記念して、バッハ全集という、バッハの全作品の楽譜を、後世の解釈を全く排除してバッハの書いた通り1音の省略も1音の付け加えもなく、復元した楽譜の刊行という、その後じつに半世紀を要した大事業が始まります。これに触発されて、チェンバロとかヴィオラ・ダ・ガンバといった古楽器に対する興味が次第に高まって、こうした楽器が復興されて行きました。しかし、それは平坦な道ではなかったことは言うまでもありません。

 今世紀のはじめの古楽復興運動は、先ず「音楽学者の実践」という学問的な側面、それからこの映画にも出てきますが、18世紀のドイツの大学における「コレギウム・ムジクム」を復興しようというアマチュア的な側面など、いろいろな要素が混沌としていました。その中から抜け出したのが、この映画の舞台裏でも大きな役割を果たした、チェロとヴィオラ・ダ・ガンバの演奏家アウグスト・ヴェンツィンガーでした。彼は、1933年、指揮者のパウル・ザッヒャーと共に、古楽の研究と専門的な演奏家の養成を目的とするスコラ・カントルムをスイスのバーゼルに設立しました。そして、バーゼルから汽車で1時間ほど離れた南ドイツのフライブルクのフルート・リコーダー奏者であったグスタフ・シェック、同じくチェンバロやフォルテピアノの演奏家フリッツ・ノイマイヤーらと共に精力的な演奏活動を行って、様式的にも技術的にも完成度の高い演奏によって古楽の復活を広く世の中に印象づけました。やがてケルンにも、こうした古楽演奏家のグループが出来てきます。しかし、こうした動きは、第2次世界大戦の勃発で中断されざるを得ませんでした。

 戦後まもなく、1948年に、20歳のレオンハルトが、スコラ・カントルムで学ぶためにバーゼルへやって来ます。バーゼルでチェンバロとオルガンを学んだ彼は、次に、ウィーンに移り、そこでチェンバロを教えながら指揮の勉強をするのですが、そこでアーノンクールと運命的な出会いをするわけです。レオンハルトとアーノンクールは、1歳違いで同じジェネレーションに属し、アーノンクールはチェロ奏者でした。彼らの演奏活動の中で、最も斬新だったのは、彼らが伝統的な音楽観を古楽器に応用しようとしたのではなく、昔の資料などを駆使しながら当時の演奏習慣についての知識を深め、それによって楽器の鳴らし方から演奏解釈に至る音楽演奏の広い領域で、全く新しい感覚を打ち出していったことでした。それは当然、旧い世代に属するヴェンツィンガーたちの演奏に対するスタンスとは違ったものでした。この映画における演奏の非常に興味深い点は、そうした異なる音楽観をもった新旧のジェネレーションが、新しいジェネレーションの旗頭であるレオンハルトの指揮の下で協力し合っているという点にあります。ですから、今日、この映画の中で皆さんがお聴きになる演奏は、当時の最新鋭のものであるわけです。最近の演奏に比べると、技術的にはまだまだの部分もあって、ときどき管楽器などが調子外れな音を出したりもしますが、こうした時代ならではの非常に気合いの入った活力のある演奏です。


 この映画の後3年ほど経った1970年に、レオンハルトとアーノンクールは手分けして、バッハの二百曲に及ぶ教会カンタータの全曲録音に挑みます。これは、レコード100年の歴史に燦然と輝く偉業でした。こんな途方もない企画を立てたのは、古楽の分野で名プロデューサーとして知られるヴォルフ・エリクソンでした。エリクソンは、その後セオンという独立プロダクションを興し、その後はドイツ・ハルモニア・ムンディ、さらにはソニーのヴィヴァルテ・シリーズのプロデューサーとして腕を振るって来ました。その企画に乗ったテレフンケンというレコード会社も大したものだと思います。この大全集は1989年まで、実に19年の歳月をかけて完成されました。現在では、60枚のCDになっています。全部1揃いでも買えますが、バラでも買えます。現在、小学館から刊行中のCDと本による「バッハ全集」でも、教会カンタータでは、この全集がそっくり入っています。

 この大全集を録音している間に、いろいろな演奏家が、オーケストラのメンバーとして加わりました。例えば、18世紀オーケストラの指揮者として活躍しているフランス・ブリュッヘンはリコーダーとフラウト・トラヴェルソの奏者として、初期の頃からレオンハルト合奏団のメンバーに名を連ねていますし、2年に1度来日して私もその度に共演させていただいているチェロのアンナー・ビルスマ、やはり頻繁に来日しこの秋にも来ることが決まっているベルギーのクイケン兄弟、15年余りにわたって18世紀オーケストラのコンサートマスターを務めたヴァイオリンのルーシー・ファン・ダールなど、いちいち数え上げたらキリがありません。

 1980年に、レオンハルトとアーノンクールは、文化のノーベル賞ともいわれるエラスムス賞を同時に受賞しました。バッハのカンタータの全曲録音を通して、古楽の復興に対して絶大な貢献をしたことが、受賞理由でした。その式典のスピーチの中で、レオンハルトは、己を空しくして作品と作曲家に献身する、またそうした好意を通じて聴衆にも献身する、という彼の演奏哲学を披露しました。しかし、レオンハルトの演奏は、さめた客観主義的なものでは全くありません。彼の立ち居振る舞いは、いかにもカルヴァン教徒的謹厳さを思わせますし、それが映画の中でバッハのイメージとうまく合っていたりかなり違ったりして、その辺も面白いのですが、演奏家としてのレオンハルトは、自らの主観を作曲者の主観と一致させようとする、そのためにあらゆる感覚と知識を最大限に動員する、そうした精神のありようが感動的な演奏に結びつき、若い演奏家たちに絶大な影響を与え続けてきました。彼が「現代のバッハ」と、かつて同僚だったブリュッヘンなどからさえ呼ばれているのは、こうした彼の演奏家としてのスタンスと演奏のクォリティの高さが尊敬を呼んでいるからですが、もう一つの理由は、彼がこの映画でバッハを演じているからに他なりません。しかし、バッハの肖像画を見ると、レオンハルトはバッハに全然似ていないのです。いっぽう、バッハと同じ1785年に生まれたドメニコ・スカルラッティの肖像画を見ると、そっくりと言えるぐらいよく似ているのです。

 レオンハルトは、現在、オランダのフィリップスで、この教会カンタータの大全集の続編とも言える企画を続けています。それは、バッハの世俗カンタータで、もう既に何枚かのCDが発売されています。オーケストラはイギリスの古楽器オーケストラである、Orchestra of the Age of Enlightenmentです。

 

 その他の出演者の中で一言触れておかなければならないのは、チェンバロ奏者のボブ・ファン・アスペレンです。ボブ・ファン・アスペレンは、レオンハルトの弟子の中では、トン・コープマンと並んで最も活躍しているチェンバロ奏者の一人です。EMIから多数のCDが出ており、バッハのチェンバロ協奏曲の全曲版なども出していて、2台のチェンバロのための協奏曲ではレオンハルトと共演しています。通奏低音奏者としては、フランス・ブリュッヘンやアンナー・ビルスマとの共演も多く、先に述べたテレフンケンのカンタータ・シリーズでもオルガン奏者として名を連ねています。

 この映画の当時はまだ学生で丁度20歳でした。バッハの従兄の息子で、神学を勉強するためにライプツィヒにやって来たヨハン・エリアス・バッハという役どころで、イタリア協奏曲の第2楽章を演奏します。セリフも喋ります。イタリア協奏曲の演奏の少し後で、レオンハルトの扮するバッハが、ゴルトベルク変奏曲のト短調の変奏を演奏した後、アンナ・マクダレーナに、「教頭が首をつって自殺した、むごい死にざまだ」と告げに来るのがボブ・ファン・アスペレンです。

 大変興味深いのは、ボブ・ファン・アスペレンがイタリア協奏曲の第2楽章を弾いている楽器と、レオンハルトがゴルトベルクの第25変奏を弾いている楽器は全く同じものですが、音が全く違います。録音の方式にはほとんど違いがないと思うので、弾き手によってチェンバロでもこんなに音が違う、ということがよくわかります。使われているのは、カール・アウグスト・グレープナーというドレスデンの製作者が1782年に製作した2段鍵盤のオリジナルのチェンバロで、ニュルンベルクの国立ゲルマン博物館に所蔵されているものです。オリジナルのチェンバロとしては、余り魅力的なものとは言えませんが、この映画の製作当時には、ドイツのチェンバロについては余りよくわかっておらず、やむを得ない選択だったのでしょう。


 チェンバロといえば、ケーテン侯の宮廷の場面で使われているチェンバロ、すなわちレオンハルトがブランデンブルク協奏曲の第5番と、アーノンクールとガンバ・ソナタの第2番を弾いているチェンバロは、レオンハルトが愛用していた楽器で、マルティン・スコヴロネックというブレーメンに住んでいる現代の名工が1962年に製作したものです。モデルになったのは、ヨハン・ダニエル・ドゥルケンというフランダースの製作者が、1750年頃にアントワープで作った楽器です。レオンハルトは、この楽器が出来てからほぼ10年間というものは、必ずと言ってよいほどこの楽器をレコーディングに使っていましたから、オールド・ファンにはとても懐かしい楽器です。私がチェンバロをレコードで盛んに聴くようになったのは、この映画が作られたのより少し後からですが、当時は、モダン・チェンバロという、現代のピアノとチェンバロの合の子のような楽器が殆どだったので、レオンハルトの弾いているこのドゥルケン・モデルは、唯一レコードで聴くことの出来る、圧倒的に美しい表情豊かなチェンバロでした。レオンハルトのキャリアは、この楽器と共に広がった、といっても差し支えのないほどです。スコヴロネックは古楽器演奏が盛んになるに連れて注文がどんどん増え、1980年頃には、ウェイティング・リストが何と27年にもなった、と聞きました。この映画では、ほかの場面でも、スコヴロネックの別の楽器が使われています。

 この映画の音楽としては2曲目、バッハの長男のヴィルヘルム・フリーデマンが自分のために書かれたクラヴィーア小曲集のプレリュード――これは《平均率クラヴィーア曲集第1巻》の第9番のプレリュードと同じ曲ですが――、これを弾いている楽器がクラヴィコードです。クラヴィコードは――最近は新聞紙上でもあちらこちらで取り上げられて関心が高まっていますが――あらゆる楽器の中で、最も小さな音の楽器です。どのくらい音が小さいかというと、雨がちょっと強く降ってくると、もう掻き消されてしまうほどです。しかし、その小さな音がとても表情豊かで、その表情の豊かさは現代のピアノよりも勝っているほどです。この映画では、とてもそうしたクラヴィコードの魅力が伝わってくるとは言い難いのですが、あらゆる楽器の中でも最も表現力の大きな楽器なので、皆さんにも、是非1度生で聴いて下さるよう、お薦めします。


 次に、この作品の中で使われている音楽の選曲について、一言申し上げたいと思います。この映画の選曲は実に良く出来ておりまして――この点で、映画製作者たちとレオンハルトの緊密な打ち合わせがあったことを窺わせるものですが――特に注意していただきたいのは、カンタータの第198番――《追悼のための頌歌(オード)》とか《哀しみのオード》という題名で呼ばれている作品ですが――の終結合唱が出てくるところです。この作品は、バッハの宗教曲の中でも一,二をあらそう傑作で、1727年、ザクセン選帝侯妃クリスティアーネ・エバーハルディーネの死去を悼んで、ライプツィヒ大学で演奏されたものです。カンタータ大全集のCDでもレオンハルトが大変な名演を行っています。その場面に続いて、今度は《アンハルト=ケーテン侯レオポルトのための葬送音楽》の中からソプラノのアリアが演奏されます。この作品は、音楽の方は失われてしまって、歌詞だけが残っているのですが、この作品は《追悼のオード》から2つの楽章が、《マタイ受難曲》から10の楽章が転用されたことがわかっているので、復元して演奏することが出来ます。映画の中ではアンナ・マクダレーナが、《マタイ》の第47曲目のアリア「愛よりして我が救い主は死に給わんとす」という、フルートとオーボエ・ダ・カッチャ2本のオブリガートの付いたアリアと同じものを歌います。この《ケーテン侯の葬送音楽》は、《マタイ》の初演の3週間前に演奏されました。そして、いよいよ《マタイ》の冒頭合唱が出てきます。この辺の、音楽の繋がり具合が実に見事に出来ています。

 もう1つ、お話ししておきたいのは、《ロ短調ミサ曲》が出てくる場面です。《ロ短調ミサ曲》が現在演奏するような形にまとめられたのは、バッハの最晩年で、そうした意味ではこの巨大な作品は、バッハの「白鳥の歌」――彼の最後の作品ということになります。その基になったのは、映画でも説明されているように、1733年に、ザクセンの新しい選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世に捧げられた「キリエ」と「グローリア」でした。この映画で、その「キリエ」に続いて演奏される世俗カンタータ第215番《汝の幸を讃えよ、恵まれしザクセン》という作品は、ザクセン選帝侯がポーランド王に就任した1周年を祝して演奏されたものですが、後に改作されて「オザンナ」という歌詞が付けられ、《ロ短調ミサ曲》の中に組み入れられました。このように、世俗の領主の地上の栄光を祝う音楽が、バッハの中で、神の栄光を讃える音楽に変わって行くことを、この場面は暗示しているようです。

 マルティン・ルターの教えの中では、音楽は神が人間に与えた神の言葉なので、バッハはこうしたことに全く矛盾を感じなかったのでしょう。いや、それどころか、彼の内部では、世俗音楽・教会音楽といった分類は全く意味がなかったに違いありません。そうした意味で、バッハが生涯の終わりに当たって、彼の最も優れた音楽を《ロ短調ミサ》という作品の形でまとめたことには、バッハのバッハらしさが最もよく現れているのではないでしょうか。

 

 この映画の宗教音楽の演奏シーンでは、オーケストラや合唱団がいかにも狭いところにぎゅうぎゅう詰めになって演奏しています。こうしたシーンでは、ライプツィヒのトーマス教会のオルガン・バルコニーがイメージされているのです。バッハの当時は、トーマス教会での演奏は、全てこのバルコニーで行われたのでした。この映画では、バッハが実際にこれらの教会で演奏したときの雰囲気がとても良く再現されています。

 現在では、ライプツィヒのトーマス教会のオルガンは、19世紀の大型のオルガンに変えられてしまっており、オルガン・バルコニーはバッハの時代よりずっと狭くなってしまいました。また、バッハが頻繁に演奏したもう一つの教会であるニコライ教会は、18世紀の後半に、完全にフランスのロココ式内装に変えられてしまい、当時の面影を保っていません。

 この映画が撮影された1960年代の後半は、東西冷戦の緊張が非常に高まっていた時代で、東ドイツで映画を撮影することは非常に難しかしかったに違いありません。丁度この映画と同じ頃に、アルフレッド・ヒッチコックが東独を舞台にしたスパイ映画『引き裂かれたカーテン』を作っていますが、やはり東ドイツにおけるロケは許可されなかった、とヒッチコック自身が何かに書いていました。

 たとえロケの許可が下りたとしても、トーマス教会やニコライ教会で演奏しているシーンは撮れないし、撮っても意味がないわけですが、その他の場面で、バッハの生涯についてのヴィジュアル・ドキュメントがもう少し出て来ると、私のようなミーハーには、もっともっと楽しめる映画になったんではないか、というような「無い物ねだり」の気分が少しあることは否定できません。

 私は、昨年初めて旧東ドイツ地域へ行きました。ライプツィヒの町の中心部を歩いていると、「ツィンマーマンの珈琲ハウスがここにあった」という記念碑を見つけましてね――。ツィンマーマンの珈琲ハウスというのは、バッハの演奏活動の一つの拠点となった場所です。バッハはライプツィヒ大学のコレギウム・ムジクムを率いて、管弦楽組曲やチェンバロや弦楽器のための協奏曲を、この珈琲ハウスで定期的に演奏したのでした。この建物はもちろん現在は残っていませんが、たとえ石碑一つであっても、その現場に立ってみると、なかなかに感慨深いものがあります。

 ケーテンで私はたいへん興味深い経験を致しました。バッハが宮廷楽長を務めたアンハルト=ケーテン侯の城館は、観光地としては全く整備されていません。塀などはまるで廃墟のようで、私たちは、その塀の前に立っていながら、一所懸命地図でそのお城を探したくらいです。建物の中へ入ってみると、幾つかの部屋に真新しい内装が施してあって、その中に「鏡の間」というのがありました。バッハが新しいチェンバロのお披露目のために「ブランデンブルク協奏曲第5番」をその部屋で初演したという説明書きの札が、壁に掛けてありましたが、その壁紙ときたら昨日貼ったばかりのように見えました。隣の部屋は、まだ内装工事の真最中でした。期せずして、我々は、観光地は斯く作られる、という現場を目撃した思いがしました。でも、この壁紙にも少し貫禄が付いてきた頃に、この部屋で《ブランデンブルク協奏曲》や《無伴奏チェロ組曲》が演奏されるのを聴いたら、バッハが立ち現れて来るかも知れないような、幻想に襲われたりするのかも知れません。私たち一行は、その時は4人のグループだったのですが、「も四十年後にここへ再び来たら、どうなっているだろうね?」と話し合ったものです。

 その他にも、ことバッハに関することになると、話の種は尽きないのですが、そろそろ皆さんも、お目当ての映画が見たくて痺れを切らしていらっしゃると思いますので、私の話はこの辺で切り上げさせて頂きましょう。

 どうぞ、最後までお楽しみ頂きたいと思います。

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