楽譜の理想に最も近いエディション 渡邊順生 ――児島版ベートーヴェンのピアノ・ソナタ集のすすめ――
私が、いわゆる「原典版」の楽譜に初めて出遭ったのは高校生の頃であった。私は、小学校の低学年の頃から、何か弾いてみたい曲があると、一人で楽譜屋に出かけて行った。今でも、ヨーロッパなどを旅行していて知らない町で時間が出来ると楽譜店を探しまわるのを常としているが、そんな習慣も幼い頃からの徘徊癖が高じた結果であるらしい。
小さい間は、表紙のデザインや色などで楽譜を選んでいたが、そのうちに小遣いで楽譜代を賄わなければならなくなると、少しでも安いものに目が行くようになる。そんなある日、急に「原典版」という文字が目に入ってきて、関心をそそられた。もしかすると、ヘンレ版やウィーン原典版の真っ青や真っ赤なカヴァーが、いつも使っているペータースやブライトコプフの楽譜とまったく違うのに目を奪われるほうが先だったかも知れない。特に、バッハの作品の原典版は、スラーやスタッカート記号、強弱記号などがほとんど無いため、非常にすっきりしていることに驚いた覚えがある。また、モーツァルトのソナタをそれまで使っていたペータース版と比べてみて、原典版に比して数多くの強弱記号が書き加えられ、スラーやスタッカートが大幅に書き換えられているのを見て、今まで自分はモーツァルトが書いた通りの楽譜を見ている積もりだったのにと、やる方のない憤懣を覚えたものである。それ以来、私は原典版信者になった。「原典版」のほうが値段はだいぶ高かったのだが、作曲者が書いた通りの楽譜が手に入らなければはじまらない。
その後バッハの作品をいろいろ弾いているうちに、原典版にも幾つもの種類があり、校訂者によって少しずつ内容が違うことに気がついた。そこで何種類もの原典版を買い込んでは見比べ、拙い語学力で緒言や校訂報告を解読して、その違いが自筆譜や初版譜、特に古い筆写譜などの内容の違いに起因することを知り、「原典版」と銘打たれていても、校訂者の判断いかんで随分中身が変わるものだということに興味をひかれた。チェンバロでバッハを専門的に手がけるようになってからは、原典版以外のいわゆる実用版にも目を通すようになった。校訂者による加筆の多いチェルニー版、それがもうほとんど編曲の域に達しているブゾーニやザウアーの版などから得るものは少なかったが、校訂者のバッハに対する理解と洞察の深さを示しているハンス・ビショッフのエディション(独シュタイングレーバー社、英訳版は米カルムス社)からは学ぶところが多かった。ビショッフ版は、使用された原典資料が明示され、しかも豊富な脚注で異稿が比較されているなどの点でも非常に使いやすい。ビショッフという人物は学者や理論家であるよりはコンサート・ピアニストであり、これらのバッハのクラヴィーア作品のエディションを出版したのは一八八〇年から八八年、彼の二八歳から三六歳にかけてのことであったことを思うと、驚嘆の念を禁じ得ない。
■児島版との出遭い
私が、故児島新氏の校訂されたベートーヴェンのピアノ・ソナタのエディションに初めて出遭ったのは、今から十数年前のことである。その頃私は、フォルテピアノの演奏を始めたばかりで、久方ぶりにベートーヴェンに対する関心を新たなものにしつつある、その矢先であった。ふらっと入った楽譜店で、それもいつもは素通りすることの多い日本版の棚の中に、『ベートーヴェン・ピアノ作品集』と書かれた厚さ四センチ半もある立派な箱入りの楽譜を見つけた。自分の恥を曝すようだが、その時私は、我が国きってのベートーヴェン研究家であった児島氏の名前をまったく知らなかった。ずしりと重いのを棚から引っ張り出してみると、立派な布表紙の本が二冊入っている。いかにも作り手の気合いが伝わってくるような外見である。定価を見ると一万二千円、国内版の「ベートーヴェンのピアノ・ソナタ集」としては思い切った値段の付け方である。箱の裏側に「歴史的注解付批判校訂版」と書かれているのを見て首を傾げる。見慣れない言葉だ。「まず、よく知っている曲から見てやろう」というわけで『悲愴ソナタ』の積もりで第八番をさがしてページを繰る。見慣れた番号から二番後ろにずれているのに驚いて目次を見ると、作品四九の一と二,すなわち普通の曲集では第一九番と第二〇番に当たる二曲が第三番の次に来ている。「なるほど、作曲順の配列にしたんだな」と諒解し、その時点で買うことに決めてしまった。念のため『悲愴ソナタ』だけはその場で見てみることにしてページを開くと、原典版で見慣れた記号が並んでいる。しかし、スタッカート記号が普通と違う。よく見慣れているワルナー版(ヘンレ社の普及版――ヘンレ社からはワルナーによるものと新ベートーヴェン全集版の二種類の原典版が出版されている)では全てドット(丸い点)に統一されているスタッカート記号が、ドットと二種類のウェッジ(楔)――すなわち雨だれ風の記号と三角形の楔、斜めのウェッジ、テヌート記号、そしてストローク(太さの変化のない短い縦棒)の五種類の記号に書き分けられている。楽章の冒頭やテンポの変わり目には三,四種類のメトロノーム表示があり、また小さい活字で印刷された強弱やペダルの記号がある。「原典プラスアルファ」であることはすぐに納得が行くが、そのプラスアルファは何なのか。序文の説明を読んで「なるほど」と思い、音楽書の棚から児島新著『ベートーヴェン研究』を探し出して、一緒に買って帰った。
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