リューネブルクのバッハとクラヴィコード
(小学館・バッハ全集第11巻所収)

 演奏家という仕事の中で最もエキサイティングなのは、作曲者のイマジネーションの中で何が起こったかを辿って行く作業である。最初の着想がいかに発展して最終的な作品の姿をとるに至ったか、それを「探り当てた」と思った時には、夜も眠れぬほどの興奮を覚えたりする。

 1706年2月、バッハがアルンシュタットの教会オルガニストであった頃、コラールの演奏の際に「いろいろと奇妙な変奏をおこない、多くの耳なれぬ音を混入させることによって、教区民たちを困惑させている」と、上司から叱責されたことが、聖職会議の記録に残っている。若く才能豊かなオルガニストが、オルガンと戯れるように新しい手法の開発に夢中になっている姿を彷彿とさせる記述だが、それが、バッハがリューベックにブクステフーデのオルガン演奏とアーベントムジーケンの演奏会を聴きに行き、四週間の予定を無断で四倍にも延長して帰参した直後のことであることを考え併せるなら、彼の狙いのおおよその見当はつこうというものである。しかし、バッハの若い頃についてはこの種の記録が非常に少ない。いつ、誰に何を習ったのか。誰に遭って、どんな経験をしたのか。先人たちのどのような作品に接し、どのような影響を受けたのか。このような、いわば基本的な情報が、彼に付いては全く欠落していると言ってよい。従って、彼の人格や作風の形成過程については全てが謎に包まれているのである。

■ヨハン・クリストフ・バッハのアンソロジー
 『メラー手稿譜』(以下、MMと略記)と『アンドレアス・バッハ写本』(以下、ABB)という二つの曲集は、こうした情報不足の闇に光を投ずる極めて貴重な資料である。これらはバッハの長兄ヨハン・クリストフが編纂したもので、主にドイツとフランスのクラヴィーアとオルガンのための作品から成り、収録曲数は両者を合わせると一一一曲にも上る大規模なものである。しかも、全体の四分の一程度がヨハン・ゼバスティアンの作品に充てられ、ごく一部分ながらゼバスティアンの自筆譜をも含んでいるのである。この内、MMはゼバスティアンがアルンシュタットのオルガニストを務めていた1703年から1707年にかけて編まれ、ABBの方はその後、1710年代の半ば頃までに纏められたと考えられる。

 ヨハン・ゼバスティアン・バッハは相継いで両親を失った10歳の頃から約5年の間、オールドルフでオルガニストをしていたヨハン・クリストフのもとに引き取られて教育されたが、1700年春、リューネブルクの聖ミヒャエル教会の聖歌隊に入り教会附属の学校で教育を受けるためにオールドルフを去った。1703年の夏にアルンシュタットのオルガニストに就任すると、古巣のオールドルフとは目と鼻の距離であった。ゼバスティアンは再び兄のもとに足繁く出入りするようになり、これらの手稿譜の編纂にも関与したと思われる。

 これらの写本の中に収められている次の3曲のクラヴィーア組曲は、バッハが、最初の組曲集である 《6つのイギリス組曲》 を書く遥か以前から、フランス様式の作品に深い関心を抱いていたことを物語っている。

組曲イ長調 BWV832(MM第38曲)
組曲ヘ長調 BWV833(MM第44曲)
序曲(組曲)ヘ長調 BWV820(ABB第13曲)
序曲(組曲)ト短調 BWV822 という作品は、これらの写本には含まれていないが、同じ頃に書かれた。そこで、両写

本の中に含まれているフランスの作品を列記してみると、次のようになる。

デュパール:装飾音表[チェンバロ組曲集(1701)より](MM22)
リュリ:オペラ《パエトーン》よりシャコンヌ(クラヴィーア編曲)(MM24)
ルベーグ:チェンバロ組曲 ト短調(1677/1697)(MM46)
ルベーグ:チェンバロ組曲 ニ短調(同)(MM47)
ルベーグ:チェンバロ組曲 イ短調(同)(MM48)
ルベーグ:チェンバロ組曲 ハ長調(同)(MM49)
ルベーグ:チェンバロ組曲 ヘ長調(同)(MM50)
ルベーグ:装飾音表
[チェンバロ組曲集(一六七七/九七)より](MM51)
マレー:《アルシード》より管弦楽組曲(クラヴィーア編曲)(ABB38)
マルシャン:チェンバロ組曲 ニ短調(1701/02)(ABB39)
■フランス音楽との最初の接点
 リューネブルクで、バッハはフランス音楽について忘れ難い体験をした。この期間に、バッハは、リューネブルクから約80キロ離れたツェレの宮廷に出入りしており、彼の次男カール・フィリップ・エマヌエルと弟子アグリーコラの共著に成る『故人略伝』(1754)には次のように書かれている。「彼はまた、機会をつかんではそこからツェレへ出かけてゆき、ツェレの大公お抱えの、そして楽員の大多数がフランス人であるという、当時名の高かった楽団の演奏にしばしば接することによって、当時その地方ではまったく新しいものだったフランス趣味をしっかりと身につけることができたのである。」

 リューネブルクに移ってほどなく、声変わりのためにかつてのように美しい声のボーイ・ソプラノ歌手として脚光を浴びることの出来なくなったゼバスティアン少年は、今度はヴァイオリンまたはヴィオラ奏者としてアルバイトをしなければならなくなった。聖ミヒャエル教会は一般の子弟を教えるミヒャエル学校と騎士学院という二つの学校をもっていたが、バッハのような給費生は騎士学院のあった古い修道院に起居しており、また、バッハの所属していた合唱隊は、騎士学院でも音楽上の務めを果たさなければならなかった。この騎士学院がバッハにとって貴重な体験の機会を与えてくれた。身分の高いドイツ人にとって当時不可欠であったフランス語の会話が、この騎士学院の学生たちの間では義務づけられており、またジャン=バティスト・リュリ(1632-87)の弟子であったトマ・ド・ラ・セルがフランス式の宮廷舞踏を教えていたのである。ド・ラ・セルは当時のダンス教師の常として自らもヴァイオリンを弾き、フランス人の妻と共に自らのツェレの居城を小型のヴェルサイユにするために腐心しているブルンスヴィック=リューネブルク公の宮廷楽団にも属していた。「若いバッハの熱心な反応に注目し、ツェレの町に彼を連れていこうときめたのは、まずまちがいなく、このド・ラ・セルであった」とガイリンガーはその著書『バッハ−その生涯と音楽』(1967)の中で推測している。ツェレの宮廷楽団はバッハにとっての有力なアルバイト先となったのかも知れない。そんなわけで、若きバッハは本場フランスの宮廷舞踏と舞踏音楽に早くから親しんだのである。

 最近のパリでは、17〜18世紀のフランス・オペラが頻繁に上演されているが、絢爛たるバレエの場面は、観る者の脳裏に鮮やかな印象を刻みつけずにはおかない。バッハにとっても、ツェレの宮廷バレエが如何に忘れ難いものとなったかは、容易に想像できる。MMに含まれているリュリのパエトーンのシャコンヌのクラヴィーア編曲(編曲者は不明)に注目したい。この曲は17世紀フランスを代表する舞踏用小品として長期間にわたって人気を博し、元のオペラから切り離されて単独で踊られた、いわば宮廷バレエのスタンダード・ナンバーである。バッハはこの曲のクラヴィーア編曲をチェンバロで弾きながら、ツェレでの体験を兄に語って聞かせたに違いない。

 パエトーンのシャコンヌに限らず、MMとABBに含まれるフランス音楽は皆、バッハがフランス人との交際の中で入手したものだったのかも知れない。MMの終りの方にルベーグの組曲がまとめて記載されているのは、ゼバスティアンがいよいよアルンシュタットを去ってミュールハウゼンに発つ日が近づいたので、ヨハン・クリストフが急いでこれらの作品を書き写した、というような情況も考えられないことはないのである。

■バッハの組曲
 右に掲げた初期の組曲は、共通して、バッハがオーケストラ組曲(乃至組曲楽章)のクラヴィーア独奏用編曲に強い関心を寄せていたことを示している。フランスのオペラ序曲を彷彿とさせる序曲(BWV820)や、トランペットのためのエールAir pour les Trompettes(BWV832)、アントレEntree(BWV820)等と題された楽章、或いは如何にも編曲然としたアルマンド(BWV833)を含んでいたりする。また、BWV822は全体が、誰か他人の作に成るオーケストラ組曲のクラヴィーア用編曲である。BWV820が、リュリ等に時折見られる3小節+3小節というフレーズ構造を持つメヌエット・ド・ポワトゥーを含んでいることも興味深い。しかし、書法の面では、彼が学ばなければならない事柄はまだ沢山あった。とりわけ、フランス様式の作品を書くためには、フランスのチェンバロ音楽に特有のリュート風の書法(分散様式 stil brise)に精通する必要があった。彼はそれをルベーグやダングルベール、マルシャンらのチェンバロ組曲から学んだのであろう。また、オーケストラの語法をチェンバロやオルガンにとり入れて表現方法を拡大するには、ヴィヴァルディの協奏曲との出遭いを待たなければならなかった。ヴィヴァルディらの協奏曲を集中的にオルガンとチェンバロの独奏用に編曲する(ヴァイマル期の1713〜04年頃)ことによって、弦楽器のイディオムを鍵盤に移し替える技法に習熟したバッハが、次に取り組んだのは、組曲という形式によってフランス・イタリアの二大様式の融合を図るという新しい課題であった。イギリス組曲はこうした創作意図の下で完成されたのである。

■バッハの練習楽器
 1700年の春に美しいボーイ・ソプラノの声をもった一五歳の少年は、1703年の夏には、オルガンの名手として人も羨むほど高給のポストを手に入れる。筆者は職業柄、その間彼はどのようにして鍵盤楽器を練習したのだろうかと、首を傾げざるを得ない。聖ミヒャエル教会で何かの折にオルガンを演奏し、またそうした機会のために練習を許されることは皆無ではなかったかも知れない。しかし、日常的にオルガンが自由に練習出来たとは考えられない。バッハのような苦学生にオルガンのふいご係に支払うための資金が潤沢にあったなどということはあり得ないからである。一方、チェンバロにしても17世紀のドイツでは18世紀のフランスにおけるようなポピュラリティはない。ベートーヴェンの少年時代のように、親代わりになって面倒を見てくれる富裕な未亡人とも縁があったとは思われない。そうなると、バッハが自由に練習することの出来た鍵盤楽器は、クラヴィコード以外にはないということになる。

 クラヴィコードは14〜15世紀の昔から使われていた有弦鍵盤楽器の一種で、16世紀にはヨーロッパ全土に普及していた。17世紀に入ると、イギリス、フランス、イタリア等では次第に廃れて行ったが、オルガンの盛んなドイツでは、オルガニストのための練習楽器あるいは教育楽器として普及していた。チェンバロとは比較にならないほど小型で安価であり、何処へ行っても誰もが目にする、ごく当り前の楽器であった。

 オールドルフの兄の下では、バッハは「クラヴィーア」の手ほどきを受けたことになっているが、兄が教会でオルガンを弾く時に傍らで助手を務めたり、時にはオルガンを弾かせて貰う機会もあったことだろう。また、MMやABBから推して、ヨハン・クリストフがチェンバロを所有していたことは確実である。幼いゼバスティアンも、小型のクラヴィコードの一台ぐらいは与えられていたかも知れない。リューネブルクにおける苦学生時代に比べれば、こと鍵盤楽器に関する限り、余程恵まれた環境にあったことは間違いない。リューネブルクへ赴いた際、バッハが自分のクラヴィコードを携行した可能性も充分考えられる。何しろ軽量の楽器である。しかし、リューネブルクへ着いてから借りたり買ったりしたとしても、さほど大きな経済的負担にはならなかったであろう。

■クラヴィコードの特性
 クラヴィコードにおいては、鍵盤のうしろの方に立てられた真鍮のタンジェント(マイナス・ドライバーの先のような形状)が、弦を打って音を出す。弦の低音側には消音用のリボンが巻いてあるが、タンジェントが弦を打つと弦が少し持ち上げられ、弦のタンジェントとブリッジの間の部分が振動する。従って鍵盤を戻すとタンジェントが下がって弦の振動が止まるのである。従って【図1】でAからBまでの部分が実質弦長となる。

 このような原理なので、例えば、右隣の鍵盤で同じ弦を打つようにすると、タンジェントの位置が違うので、実質弦長は短くなり、高い音が出る。左隣なら実質弦長は長くなるので音は低くなるわけである。このように一本の弦でも、打つ位置が違うと音程が変るので、幾つかの鍵盤で弦を共有することが出来る。ただし、この場合は、同じ弦を共有している鍵盤どうしで和音を弾くことは出来ない。クラヴィコードは、このように幾つかの鍵盤が弦を共用するゲブンデン式【写真1】、一つ一つの鍵盤に専用の弦が張られたブントフライ式【写真2】の二つのタイプに大別される。バッハの時代には、ほとんどのクラヴィコードがゲブンデン式であった。

 16世紀に作られたクラヴィコードにはかなり開放的な響きをもつ楽器もあるが、一般には音量は極めて小さく、公開演奏には適さない。しかしその欠点が、正に練習楽器としての強みにもなる。つまり、いつ練習しても周囲に迷惑をかけることがないのである。しかも前述のように、17世紀にドイツで普及した音域四オクターヴのゲブンデン式の楽器は極めて軽量で、持ち運ぶことに何の困難もなかったのである。

 クラヴィコードは、音量こそ小さいが、打鍵の強さを変えることによって、確実に音量を漸次的あるいは急激に変化させることが出来る。また、ヴィブラートをかけることの出来る唯一の鍵盤楽器でもある。タンジェントが弦を打った後、鍵盤を上下の方向に細かく揺らすと、その動きに合わせて弦も上下に動き張力に細かい変化が起きるので、それにつれて音程も微妙に変化する。即ち上向きのヴィブラートがかかる(「ベーブング」という)のである。

 あらゆる鍵盤楽器の中で、微妙なニュアンスと色彩の変化に富み、表情豊かな(カンタービレな)演奏を可能にするという点で、クラヴィコードに比肩するものはない。この楽器がにわかに音楽史の前面に躍り出たのは18世紀の後半であった。1740年頃以降、ドイツでは音域の拡張された大型のクラヴィコードが盛んに作られるようになり、バッハの息子たち、なかんずく長男のヴィルヘルム・フリーデマンと次男のカール・フィリップ・エマヌエルらによって、クラヴィコードのための独奏曲が多数書かれた。一八世紀後半のドイツは、鍵盤音楽に関する限り、「クラヴィコードの時代」と言ってもよい。ハイドンのクラヴィーア・ソナタの大半はクラヴィコードによって最もよくその音楽的特性を発揮する。エマヌエル・バッハは、その著書『クラヴィーア奏法試論第1巻』(1753)の中で「よいクラヴィコードは、音が弱いと言うことを除いては、音の美しさではピアノフォルテには劣らないし、ベーブングやポルタートをつけることができる点でピアノフォルテよりもすぐれている。したがって鍵盤楽器奏者の能力を最も正確に判断出来るのは、このクラヴィコードである。」と述べている。また、1789年に『クラヴィーア教本』を著したダニエル・ゴットロープ・テュルクは、その冒頭で、チェンバロやフォルテピアノをはじめ「クラヴィーア」という概念を適用することの出来る各種の鍵盤楽器を列挙した後で、「しかし本物のクラヴィーアとは、クラヴィコードのことである」と述べている。

■バッハとクラヴィコード
 フォルケルは『バッハ評伝』(1802)の中で「バッハが最も愛用したのはクラヴィコードである」と記している。彼はこの著作のために多くの情報をフリーデマンとエマヌエルの兄弟から得ているので、この記述には最大限の信頼を置くことが出来る。また、フォルケルの述べているバッハのクラヴィーアのタッチは、まさに正しいクラヴィコードの弾き方以外の何物でもない。

 フォルケルの記述がこれまで文字通りに受け取られて来なかったのは、これが単に、現代ピアノによるバッハ演奏を擁護するためにのみ引用されることが多かった、という事実に起因している。チェンバロ演奏の正当性を主張しそれを定着させようとする人々は、この記述の権威を失墜させるために、クラヴィコードを最も優れた鍵盤楽器だと考えていたエマヌエル・バッハの我田引水をフォルケルが真に受けたために、結果的に事実が歪曲されて記述されたのだと主張した。しかし、この主張には些か無理がある。先ず、エマヌエル・バッハは、父の偉大さを伝えることに多大な情熱を傾けた人物である。しかも、彼は鍵盤楽器奏者として生前の父に勝るとも劣らない名声を得ていたので、父の権威を自らのために利用する必要は全くなかった。偉大な鍵盤楽器奏者であった父に手ずから教育されて自らも偉大な鍵盤楽器奏者となった人物が、ほかならぬ父の鍵盤楽器に対する評価についての判断を誤る筈がない、というのが常識的な考え方というものではあるまいか。

 バッハとクラヴィコードを切り離したがる人々は、バッハの遺産目録にはクラヴィコードが含まれていないではない

か、と主張したが、明らかに大型のクラヴィコードと思われる楽器が「クラヴサン」の名称で記載されているのである。「クラヴサン」という語は「クラヴィーア」と同様、一八世紀のドイツにおいては、有弦鍵盤楽器一般を意味する多義的概念にほかならない。また、バッハは、生前、ペダル付きの3つのクラヴィーア(3 Claviere nebst Pedal)を息子のJ・C・バッハに与えたと伝えられる。この楽器は、恐らくペダル付き二段鍵盤のクラヴィコード(それぞれ独立した3つのクラヴィコードが一体に組み合わされたもの【写真3】)であったに相違ない。

 バッハは息子たちに鍵盤楽器を手ほどきをする際には、先ず、クラヴィコードによって音楽表現の基本を教えたものと思われる。1720年に書き始められた 《ヴィルヘルム・フリーデマンのためのクラヴィーア小曲集》では、大半の曲がクラヴィコードのためのものであることは明白である。その後半部分を占める 《インヴェンションとシンフォニア》 については、1723年にバッハ自身の手で再度浄書譜が作られたが、その序文の中でこの曲集が「カンタービレな奏法を身につける」ためのものであることがはっきりと示されているのが、これが純粋なクラヴィコードのための練習曲集であることの何よりの証拠である。クラヴィコード以外の鍵盤楽器でこの曲集を練習しても、それが、演奏者のカンタービレな表現力を特に高めたり抽き出したりすることは少ないであろう。

 もしかすると、バッハ自身もクラヴィコードで最初の鍵盤楽器のレッスンを受けたかも知れない。それも大いにありそうなことだが、それについては判断する材料は何もない。リューネブルクでは、バッハは先ず歌手であった。音楽の演奏において、オルガンやチェンバロ等の鍵盤楽器ほど「歌唱」と遠い距離にあるものはない。しかし、クラヴィコードは違う。クラヴィコードは「ひとの声」に最も近い表現の出来る幾つかの楽器の一つである。しかも、高度な精神集中を要求される。当時の一般的な考え方からすれば、クラヴィコードは単にオルガンやチェンバロの練習楽器であり代用楽器であったかも知れぬが、バッハは、もう既に、この楽器の中に音楽表現の真髄を見出すことの出来る年齢に達していた。

 MMの中に 《 最愛の兄の旅立ちに寄せるカプリッチョ》 BWV992 という作品がある。バッハの最も初期のクラヴィーア独奏曲の傑作である。作曲されたのはバッハがアルンシュタットに移って間もない1703年の終わり頃と推定されている。この作品は、スウェーデン王の近衛隊に就職することになった3歳上の兄ヨハン・ヤーコプとの別れを惜しんで書かれたものだが、この曲の中のアリオーソとアダージッシモの二つの緩徐楽章は、鍵盤作品としては驚くほど声楽的な発想によっている。この作品は通常チェンバロで演奏されるが、このような楽想がチェンバロの特性から生まれたとは考えにくい。よく似た楽想は、やはり若い時代の作品である 《トッカータニ短調 BWV913》の二つの緩徐部分にも見られる。その後のバッハのクラヴィーア作品を見渡してみると、クラヴィコード的な発想、クラヴィコードで演奏すると効果的な作品は至るところにある。《組曲ヘ短調 BWV823 》のサラバンド、ヴァイマル時代にまとめてクラヴィーア用に編曲したヴィヴァルディ等の協奏曲や《イタリア協奏曲》の緩徐楽章、《フランス組曲》の数多くの楽章や《イギリス組曲》《パルティータ》等の幾つかの楽章、そして勿論 《平均律クラヴィーア曲集》の相当数のプレリュードとフーガ等々。しかし、何と言っても極めつけは《ゴルトベルク変奏曲》の第25変奏であろう。

 このように、1つの曲のある1つの楽章、あるいはごく一部分がクラヴィコード的であると言って列挙する筆者の意図を測りかねる読者も多いことだろう。ここで言いたいのは、リューネブルク以来、バッハの音楽の発想の中心にクラヴィコードが置かれた、ということである。あるいは、クラヴィコードに習熟することによって、鍵盤楽器の演奏の腕を上げたということなのである。エマヌエル・バッハが『クラヴィーア奏法試論』の中で言っているように、クラヴィコードが巧くなるとチェンバロの演奏も同時に巧くなるのである。チェンバロからクラヴィコードのような微妙な表情が出せるようになる。オルガンについても同様のことが言える。現代の演奏家の演奏においても、例えばアンドラーシュ・シフのピアノ演奏や、最近のグスタフ・レオンハルトのチェンバロ演奏の中には、クラヴィコードの影響を明瞭に聴き取ることが出来る。エマヌエル・バッハは、いみじくも、クラヴィコード奏者とチェンバロばかり弾いている奏者の二人に、同じ曲をチェンバロで弾かせて両者の演奏を比較したなら、その違いは明らかであると述べている。

 バッハは、クラヴィコードから得たインスピレーションを作品の上にも、チェンバロやオルガンの演奏の上にも反映させて行った。強弱の変化がつけにくく、ともすれば機械的な演奏に陥り易いチェンバロやオルガンの限界を、バッハがいとも易々と乗り越えて行けたのもクラヴィコードゆえのことであろう。クラヴィコードは単に鍵盤音楽のみならず、バッハの他の音楽の領域−−ヴァイオリンやフルート等の器楽作品はもとより、声楽作品における発想の源ともなったに違いない。バッハの音楽における声楽的な要素と器楽的な要素は、クラヴィコードを介して緊密な結びつきを得たのである。

 リューネブルクは、精神的に自立しつつある天才少年にその後の大成の基となる様々な経験の機会を与えたが、とりわけ示唆に富んでいるのは、クラヴィコードにおける孤独な精神世界と、ツェレで体験した音楽の世俗的華麗さとの極端な対照である。自室で独りクラヴィコードの神秘的な音色に耳を傾けながら、バッハは、神の懐に抱かれているのを感じつつ、やがて彼が創造する極大の世界を夢想していたのかも知れない。

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