レオンハルトの演奏について
ひとは「過去」が好きである。「過去」は「現在」よりも美しく「未来」よりも確かである。子供の夢は未来へ向かって飛んで行くが、大人は遠い過去に想いを馳せる。そうした美しい過去の時代に生みだされた美しいものはなおさら美しい。しかし、今日ほど人々が過去に心魅かれた時代が今まであっただろうか。現代のテクノロジー文明を満喫しながらも、人々は満たされぬ心の空隙を、過去の美を堪能することで埋めている。「音楽」はその最たる例である。近年、「古楽器」と、それによって演奏される「古楽」は目覚ましい隆盛ぶりである。最近十年ほどの間に、古楽の復興は瞠目すべき広がりを見せた。
しかし、私がチェンバロを始めた今から二十年ほど前には、事情は随分異なっていた。当時、チェンバロでバッハの作品を演奏しようとする者は、なぜ敢えてチェンバロという楽器を選ぶのか、その理由ないし意図を−その演奏を通じて或いは言葉によって−明確にすることが求められたものである。当時は−特に日本などでは−チェンバロはまだ珍しい楽器の域を出ていなかった。多くの人々にとって、バッハのチェンバロ作品がまさにチェンバロのために作曲されたのだということは、それらの作品を演奏するに際してチェンバロという楽器を選択するための十分な理由とは見なされなかったのである。これらの作品をピアノで演奏するというのはごく当り前のことであったし、人々はそれをごく自然なものとして受け容れていた。今日、状況は一変した。今日のピアニストは、バッハの作品をコンサート・ステージ上で演奏し、あるいは新たにバッハの作品のレコーディングを行なおうとするならば、なぜ敢えてこれらの作品の演奏にピアノという楽器を選ぶのかが問われるであろう。今日では、バッハのチェンバロ曲をチェンバロで演奏することについて説明する必要は無くなった。いつの間にか、それがスタンダードになると共に、公開演奏の現場では(古い固定観念の支配する教育現場を別とすれば)、ピアノによるバッハ演奏は激減した。時折「ピアノによるバッハ演奏の中にも捨て難い味わいのあるものが存在することを忘れてはならない」式の批評を見ると、世の中が如何に変わったかを痛感させられる。
グスタフ・レオンハルトは、このように世の人々の意識を作り変えた張本人の一人である。古楽器の復権に寄与した数ある古楽器奏者の中でも、彼の業績は最も偉大なものの一つに数えられよう。鍵盤楽器の奏者としても、指揮者としても、彼の世界は今や前人未到の高みに達している。私が彼の下で学ぶためにアムステルダムへ留学した18年前、学生達は既に彼を神格化していた。以来、私の知る限りでも、彼の模倣者と崇拝者は後を絶たない。オランダやベルギー、イギリス等の若手古楽器奏者のレオンハルトに対する態度がまるで師に対するが如くであるのは容易に頷けるとしても、フランス・ブリュッヘンやアンナー・ビルスマ、クイケン兄弟等、いわば第一級の演奏家達もレオンハルトの意見には一目も二目も置いている。同僚達からこんなに尊敬を集めている演奏家も珍しいだろう。その点は、少し立ち入って考えてみる価値がある。
レオンハルトの演奏は「現代的」と評されることが少ない点で、彼の最も親しい同僚であるブリュッヘンの演奏とは全く趣を異にする。彼の演奏から「オーセンティック」という印象を受ける人は多いだろう。「オーセンティシティ」というのは古楽器演奏を云々する時に頻繁に用いられる言葉で、通常「真正さ」と訳される。一般的には真贋の鑑定などによく使われる言葉で、要するに「本物」という意味である。古楽器奏者は、オーセンティックな楽器を用いてオーセンティックなスタイルを探求する。彼が窮極的に追い求めるものは、平たく言えば「作曲家の頭の中で鳴り響いていた音のイメージ」ということにでもなろうか。決して到達し得ないと分かっていても、手を伸ばさずにはいられない、一瞬でもその「光」を自分の手で掴むために。
レオンハルトのレッスンを受けている時、私は何度も、作品それ自体が語りかけて来るような錯覚に襲われた。今、それを「錯覚」と言い切る自信はない。レオンハルトは、アムステルダムの中心部にある、17世紀に建てられた豪壮な邸宅の中で、17〜8世紀の家具や調度品に囲まれて暮している。「歴史」に対する関心の旺盛さ、造詣の深さは大変なものだが、特に「建築」に関しては、専門的な著作もあるほど素人離れしている。だが、肝心なのは、彼の、美しいものを愛する心である。ひとは、ちょっぴり皮肉混じりに、レオンハルトの家はまるで博物館のようだと言う。かつて彼の演奏が「博物館趣味」と評されることがよくあった。批評家達は、悪意をこめて「博物館」と言ったようだが、博物館を愛する人は多いのである。博物館に在るのは、本物であって模造品ではない。今日「本物」を見たいと思ったら、一般人は博物館へ行く以外に方法は無いのである。レオンハルトは大変な博学だが、彼の演奏は、断片的な知識の集積とは全く次元を異にする。彼の最大の関心は、過去の偉大な精神に没入することであると云う。
私の出会った数多くのチェンバロ製作家達のうちの極く少数の人達は、オリジナルを越えてしまっていた。彼等の製作したチェンバロのうちの何台かは、現在残っている17〜8世紀のチェンバロの中でも最も優れた楽器と肩を並べ、或いはそれらの楽器を凌いでさえいた。響きの美しさ、音色の多彩さ、或いは演奏者の想像力を喚起する力の強さの何れにおいてもである。演奏家は、もとより、何世紀もの時の隔たりを越えてバッハやラモーと競争するわけではない。だが、レオンハルトという人もまた、彼の求める「本物」にきっと届いているに違いない。私は最近、自分が彼の崇拝者ではないという確信が持てるようになって、かえってそう思うようになった。だからこそ彼は、本物を求める聴き手の夢を叶えてくれるのだ。私がレオンハルトの下での勉強を終えた時、「これからは君自身のバッハを求めなさい」という至極当り前のアドバイスが印象に残った。だが「私自身のバッハ」とはどのようにして求めればよいのか。そう考えてみると、これは当り前のアドバイスではなかった。「私自身のバッハ」とは、私が自分とバッハとの距離感を無くさない限り到達し得ないのである。レオンハルトは、彼の演奏がオーセンティックな演奏だと評されることを歓迎しないだろう。何故なら、彼こそはオーセンティックなレオンハルト自身であるから。
[完]
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