書評■フルトヴェングラー グレート・レコーディングス
(ジョン・アードイン著・藤井留美訳・音楽之友社・四六判・472頁)


渡邊順生

 

 ヴィルヘルム・フルトヴェングラーは、まさに「20世紀の奇跡」と呼ぶに値する。今日から見れば、20世紀の前半は、まだまだ「巨匠の時代」であった。アルトゥーロ・トスカニーニ、ウィレム・メンゲルベルフ、ブルーノ・ヴァルターらの指揮者、フリッツ・クライスラーやブロニスラフ・フーベルマン、ジャック・ティボー、アドルフ・ブッシュらのヴァイオリニスト、ヴラディーミル・ド・パッハマン、イグナツ・ヤン・パデレフスキー、モーリッツ・ローゼンタール、セルゲイ・ラフマニノフ、アルフレッド・コルトー、アルトゥール・シュナーベル、エトヴィン・フィッシャーらのピアニスト、そして、もちろん、パウ・カサルス・・・。しかし、いったい彼らのうちの何人の演奏が、一般の音楽ファンに記憶されているだろうか。これらの伝説的な巨匠たちのレコードの多くは、今日の大方の演奏家とは比較にならぬほどのスケールの大きさ、個性的で卓越した演奏にも拘わらず、時代の波に揉まれつつ、徐々に忘却の彼方へ追いやられて来たのではなかったか。

 しかし、フルトヴェングラーのレコードは、その没後半世紀近くの年月の間に、彼の演奏スタイルとはほとんど正反対と言ってもよい、イン・テンポによる客観的な音楽へのアプローチが称揚され続けてきたにも拘わらず、根強い人気を保ち続け、常に新しいファンを獲得し続けてきた。多くの音楽家が、評論家や学者、識者の群が、フルトヴェングラーの演奏スタイルが過去のものとなり、もはや彼のような方法を踏襲するわけには行かないと公言して憚らなかった。しかし、それでも、音楽に感動を求める多くの音楽ファンは、彼の演奏にこそ求めるものを見出し、彼のレコードを聴き続けてきたのである。この数年間だけでも、一体どれくらいの厖大な数に上るCDが、新たに発売されあるいは再発売されてきたか――その数が、彼の人気の大きさを端的に物語っている。すべての演奏は聴衆のために為される。多くの聴衆が、「楽譜に忠実」というお題目よりも、切れば血の出るような、フルトヴェングラーの演奏を選んだ――これはもう、専門家に対する一般の音楽ファンの勝利に他ならない。

 最近(2000年12月)、音楽之友社から『フルトヴェングラー グレート・レコーディングス』と題する本が出た。著者はアメリカの慧眼な評論家、ジョン・アードイン。1994年に出版された"THE FURTWANGLER RECORD" [Amadeus Press, Portland, Oregon]の全訳である。私は、今までこの本を座右に置いてきたが、日本語で読めるようになったことは何よりも喜ばしい。

 最近では、フルトヴェングラーのCDの数が余りに多いため、困惑する一般愛好家も少なくない。何しろ、ベートーヴェンの『エロイカ』、『第五』、『第九』などでは10種類を下らないのである。「どれから聴いてよいかわからない」という素朴な戸惑いの声が上がるのは当然である。見識ある批評家がそんなニーズに応えたガイドブックとしては、これまでは宇野功芳氏による『フルトヴェングラーの全名演名盤』(講談社文庫)が一冊あるだけだったのが、本書の登場によって選択肢が増えた。著者のアードインは、往々にして、宇野氏とは全く異なる見解を表明しており、世の数多くのフルトヴェングラー・ファンにとっても、こうした評価の相違は十分興味深いものであるに違いない。

 しかし、本書の最大の特色は、同曲の演奏を比較して論じたことのみにあるのではない。著者アードインは、まずフルトヴェングラーの歴史的位置づけから説き起こし、いまだに比較対照されるトスカニーニとの相違点を、フルトヴェングラー自身のトスカニーニ評を引用することで彼の視点から明らかにし、さらには、作曲家や作品ごとの解釈について、彼自身の著作や手記、同時代の証言などを豊富に引用しながら、残された実際の演奏の記録(CD)によって検証しようとする。しかも、一般の音楽ファンを対象としたガイドブックとしても、きわめてわかりやすく書かれている。

 フルトヴェングラーについての本はこれまでにもたくさん書かれてきたが、その多くは伝記的側面――特に、喧しく論議されたナチス政府との確執に重点を置いたものであった。彼の抱いていたイデーとその実践の両面から、彼の芸術の全般を解き明かそうとした包括的な研究書というのは、本書がほとんど初めてと言ってもよい。

 フルトヴェングラーのトスカニーニ観を正面きって取り上げた、というのは、これまでのフルトヴェングラー評にはほとんど見られなかったことである。「楽譜に忠実」でイン・テンポを旨とするトスカニーニの演奏スタイルに異を唱える者は、20世紀の後半にはほとんど皆無であったと言ってよい。トスカニーニの演奏スタイルが「正しい」ことには議論の余地がなく、それを前提とした上で、フルトヴェングラーのような演奏スタイルが、あるいは彼の個々の演奏が容認しうるか否か、ということが、論者によって、あるいは論議の対象によって、意見の分かれるところであった。しかし、本書の著者アードインは、そうしたこれまでの論議のあり方それ自体に疑問を投げかける。彼の引用するフルトヴェングラーの見解によれば、トスカニーニの音楽的思考はイタリア・オペラの諸形式に基盤を置き、純粋にホモフォニックなアリアが彼の音楽の基本概念であった、ということになる(詳しくは、『フルトヴェングラーの手記』[白水社]の「ドイツにおけるトスカニーニ(1930)」を参照されたい)。別の箇所でアードインは、「ベートーヴェンの音楽は僅かではあるが間断のないテンポの変化を要求しており、それによって生成と発展という、音楽本来の有機体としての姿を取り出すことが可能になる」というフルトヴェングラーの見解を引用している。これは、個々の演奏において音楽はそのつど生成する、と言ったチェリビダッケの見解と重要な共通点を持っている。

 新しい世紀の演奏現場を担う若手の演奏家たちからは、これまでの「楽譜に忠実な」演奏手法に対する強い懐疑が表明されつつある。四分の三世紀にわたって演奏家の手足を縛り続けて来た「20世紀のイデオロギー」はようやく批判の矢面に立たされようとしている。これからの音楽家たちは、もう、「楽譜に忠実」という美名の下に音符の奴隷となることを受け容れなくなるだろう。「真に表情豊かな演奏とは何か」について、もっと踏み込んだ自由な論議が行われなければならない。音楽界全体がそのような岐路に立たされている今、フルトヴェングラーの音楽について思いめぐらすことは、まさに時宜を得ていると言える。そうした意味でも、本書の意義は大きい。

 しかし、本訳書には幾つかの重大な問題点がある。第一に、原書にあった参考文献表が削除されたのは、一体なぜであろうか。しかもそれについて、一点の断り書きもないのである。また、訳者と編集部は、原書が出版されたアメリカよりも、我が国の方がはるかにフルトヴェングラー関係の文献の多いことを忘れていないだろうか。『音と言葉』、『音楽ノート』、『手記』というフルトヴェングラー自身の著作集(いずれも白水社)は近年相継いで復刊されたばかりだし、対談形式による『音楽を語る』(東京創元新社)やカルラ・ヘッカーの『フルトヴェングラーとの対話』(音楽之友社)、クルト・リースの『フルトヴェングラー〜音楽と政治』(みすず書房)やベルタ・ガイスマールの『フルトヴェングラーと共に』(東京創元新社)などといった重要な証言集もある。本書の引用箇所に引用先を明示する註を付けたり、既出の翻訳書との間で訳文を検討するなど、他の文献との連繋を図ったならば、研究書としての本書の価値を一層高めたに違いない。特にフルトヴェングラーの著作については、英語版からの重訳のみに頼ったのでは、原著者の意図を十分に伝えることなどとてもおぼつかない。また、その他の部分でも訳語の選択について疑問の残る箇所は少なからずある。特に理論的な部分や演奏評に類する部分などの翻訳が厄介なことは十分理解できるが、著者の意図も情熱も十分に伝えるのでなくては翻訳としての使命を果たしたとは言い難い。こうした問題点が、第二刷以降改善されることを切に望みたい。