啓蒙思想とバッハ
(2000年9月、大倉山記念館のコンサート・プログラムより)
渡邊順生


演奏曲目:
ラモー:コンセールによるクラヴサン曲集第5番・第3番
マレ:『聖ジュヌヴィエーヴ教会の鐘の音』
J・S・バッハ:フルートと通奏低音のためのソナタ ホ長調 BWV1035
J・S・バッハ:《音楽の捧げ物》BWV1079より2つのリチェルカーレとトリオ・ソナタ
出演:
前田りり子(フラウト・トラヴェルソ)、渡邊慶子(ヴァイオリン)、神戸愉樹美(ヴィオラ・ダ・ガンバ)、 渡邊順生(チェンバロ)
■啓蒙期の理想を体現したラモー
 今夜のプログラムは、18世紀フランス最大の作曲家であるラモーと、今年没後250年を迎えたJ・S・バッハの室内楽作品を対比させながら楽しんで頂こうというものである。
 ジャン=フィリップ・ラモーは、ヨハン・ゼバスティアン・バッハより2歳年上の1683年生まれ。18世紀を特徴づける啓蒙主義の思想家たちと芸術観を共有し、正にこの時代のフランスならではの音楽を書いた。そんな時代の申し子のような作曲家であり、しかも類いまれな天分にも恵まれていたにもかかわらず、彼の生涯は決して平坦な道のりではなかった。40歳を目前にして田舎のオルガニストの職を辞してパリに出たラモーは、古典派の和声理論の基礎となる2つの重要な著作を出版して認められた――『和声論』[1722]と『理論的音楽の新体系』[1726]――ものの、作曲家としてのラモーが1720年代に世に問うことが出来たのは、1724年と28年に出版された2つの「クラヴサン曲集」のみであった――ラモーのクラヴサン(チェンバロ)のための独奏曲集には、これらのほかに、1706年、23歳の時に出版した『クラヴサン曲集第1巻』がある。1733年、50歳になったラモーは、彼の最初のオペラ《イポリートとアリシー》で成功すると、悲劇によるオペラやオペラ・バレーなどの舞台作品を次々に発表し、名実共にパリの音楽界の帝王として君臨した。
 啓蒙思想とは、自然科学の原理に認識の基礎を求め、反宗教的、反形而上学的な考え方を自然認識のみではなく社会認識にまで及ぼし、しかも、全てを理性の光に照らすという、この考え方を普及させること――すなわち広義の「教育」――によって民衆の蒙昧を啓き、社会的な不自由や不平等を取り除こうとする思想運動であった。この思潮は、先ず17世紀後半のイギリスにおけるジョン・ロックの科学的認識論に始まり、18世紀フランスにおいては、モンテスキューやヴォルテール、百科全書派のディドロやダランベールなどの思想家が続々と輩出した。「教育」を重視するというこの思潮の特徴から見ても、音楽をはじめ諸々の芸術が重要なものと見なされたのは当然の成り行きであった。
 ラモーは、18世紀における「音の魔術師」であった。彼の作品は、斬新な「響き」と機知にあふれた楽想、絶妙な劇場的効果などによってパリの聴衆を魅了した。しかし、彼の作品は、平明さと同時に優雅で洗練された趣味を求める、啓蒙期の音楽の理想と現象的な面で一致したのみに留まらなかった。彼は、オペラで成功した後も、その多忙な作曲活動の合間を縫っては、理論的な著作の執筆を続けた。彼は、理論家として評価されることを常に望んでいたばかりか、晩年、作曲活動が忙しい時期に理論的な著作が思うように書けなかったことを悔いるような発言をしたと伝えられている。彼は、実際的な作曲家には珍しく、生涯を賭けて音楽の原理を理論的にも追求した極めてユニークな音楽家であったわけで、このような音楽に対する彼の姿勢は、この理性の時代の模範とも言うべきものであった。

■ラモーの《クラヴサン・コンセール》
 ラモーが1741年に出版した《コンセールによるクラヴサン曲集》は、疑いなく、それまでに彼が出版したクラヴサン曲集中もっとも優れたものであるだけでなく、18世紀フランスにおける室内楽作品中でも頂点を為す傑作である。それまでのクラヴサン曲集と異なり、この曲集ではフルート、ヴァイオリン、ヴィオラ・ダ・ガンバという3つの楽器が加えられているが、特筆すべきは、チェンバロも含めたそれらの楽器の扱い方である。ここでラモーは、絶妙な手法によって、これらの楽器をまるでオーケストラのように扱い、親密な室内楽の雰囲気から、彼の得意としたオペラやバレー音楽における劇場的効果をも生み出しているのである。

□コンセール第5番
 このコンセールは、全5曲中の最高傑作で、3つの楽章は寓意的な筋書に沿って配置されているように思われる。「フォルクレ」と名付けられた第1楽章は、おそらくラモーの親しい友人であったジャン・バティスト・フォルクレ(ヴィオラ・ダ・ガンバの名手アントワーヌ・フォルクレの息子)の二度目の結婚を祝福した、ささやかなウェディング・プレゼントであったのであろう。揺れながら鳴り響く鐘を思わせる楽句がそれを裏付けているように思われる。「キュピ」は、ブリュッセルからパリに移住したヴァイオリニスト、ジャン・バティスト・キュピの弟フランソワの子供の誕生を祝う子守歌。「マレー」は、フォルクレと並び称せられたヴィオラ・ダ・ガンバの名手マラン・マレーの子供の一人に何か喜ばしい出来事があったのであろう。この楽章の祝祭的な雰囲気は、いかにもそれを祝福している様子を思わせる。それが何であるかがわかれば、このコンセールにおける「結婚−子供の誕生− ? 」というストーリーが完結するのだが・・・。

□コンセール第3番
 第1楽章の「ラ・プープリニエール」はラモーの最大の庇護者であった新興貴族の肖像である。ラモーは、この人物の計らいでオペラ作曲家として活躍する機会を得、また彼の私設楽団の指揮にも当たっていた。優雅から一転諧謔的に曲想が変化するのは、この人物の気紛れさを表わしている。「内気」と題された第2楽章は全曲中の白眉で、楽器の組み合わせを変えることによって色彩感を変える機会が演奏者に与えられている。終楽章は賑やかなタンブーラン(「太鼓」の意)である。

■マレの《聖ジュヌヴィエーヴ教会の鐘の音》
 ラモーより一世代年長のマラン・マレ(1656-1728)はルイ14世に仕えたヴィオラ・ダ・ガンバの名手であるが、オペラも手がけた。彼が晩年の1723年に出版した《サンフォニー集》は、ヴァイオリンとヴィオラ・ダ・ガンバ及び通奏低音チェンバロのための室内楽曲集であるが、オペラにおける様々な劇場的効果を応用した室内楽曲集として、ラモーのコンセールの性格を先取りしている。
 《サン・ジュヌヴィエーヴ教会の鐘の音》は、この曲集を締めくくる華やかなフィナーレで、鐘の音を模した「レ−ファ−ミ」というモティーフがチェンバロで300回以上繰り返される上で、ヴァイオリンとヴィオラ・ダ・ガンバが自由な旋律を即興的に奏でる、という手法で書かれている。それはまるで、この鐘の音が喚び起こす様々な思い出が、走馬燈のように現れては消えて行くかのようである。

■バッハと啓蒙主義
 ヨハン・ゼバスティアン・バッハは、その創作姿勢と作品の特質の何れにおいても、啓蒙主義的ではない、とされている。確かに、受難曲やカンタータにおける敬虔なルター派の教会音楽家としての創作姿勢は、啓蒙思想の一角を為す理性的無神論とは相容れぬものであったし、多声音楽の諸声部に独立性を与える対位法的書法もまた、啓蒙主義の理論家たちが理想とする音楽とは一線を画するものに違いない。しかも、バッハの時代にはこのような対位法的な作曲技法は次第に過去のものとなりつつあった。啓蒙主義を標榜するヨハン・アドルフ・シャイベ(1708-76)は、バッハの作品は複雑かつ難解であり、「自然の理に反している」として、痛烈に攻撃した。しかしバッハが、決して、平明な楽想にも、優雅で洗練された趣味に対しても無関心でなかったことは、《ブランデンブルク協奏曲》や《イタリア協奏曲》、《ゴルトベルク変奏曲》のアリアなどを見ても明らかであろう。バッハが同時代の多くの作曲家たちと異なるのは、彼はそれらの特質と引き替えに対位法を棄てたり、あるいはそれに背を向けたりはしなかったことである。バッハは、当世流行の様式にも十分な敬意と関心を払いつつ、その中から採り入れるべきものは自分の音楽の中に取り込んで、古来の対位法と組み合わせ、総合的かつ普遍的な音楽世界の形成を目指したのである。そうした彼の姿勢は、最晩年の大作《ロ短調ミサ曲》の中に、最もよく現れているのである。

■フルート・ソナタ ホ長調
 1740年に28歳で即位したプロイセンの若き支配者フリードリヒ2世は、音楽好きで素人離れしたフルートの名手でもあった。新しい物好きで開明的な君主であろうとするフリードリヒは、啓蒙主義の文芸や音楽の良き理解者であろうと努め、学芸を保護奨励し、フランスの代表的啓蒙思想家であるヴォルテールに傾倒した。それは、多分に彼のフルートの師であったクヴァンツの影響であったかも知れない。こうしたフリードリヒの宮廷は、やがて、「多感様式」と呼ばれる主観性の強い新しい音楽様式の温床となって行く。バッハの次男カール・フィリップ・エマヌエルは、1738年から皇太子時代のフリードリヒに仕えており、1740年の新王の即位と同時にベルリンに移った。
 ゼバスティアン・バッハが、1741年に、非公式に――おそらく息子のエマヌエルを訪ねるということを表向きの理由に――ベルリンを訪れたとき、フリードリヒ大王はベルリンを留守にしていた。この時、フリードリヒは音楽などにうつつを抜かしてはいられなかったのだ。1740年にオーストリア女王マリア・テレジアが即位すると、神聖ローマ帝国の帝位を女帝が継承することに反対して反オーストリア勢力が結集して兵を挙げた。フリードリヒの率いるプロイセンもその一角に属しており、彼の兵はシュレジェンを占領した。バッハはこの時、このホ短調のフルート・ソナタを携行し、大王の腹心で留守を預かる秘書官フレーデルスドルフにこの作品を献呈した。フレーデルスドルフもまた、主君と同じくフルートを嗜んでいた。
 このソナタは、バッハの作品の中では当世はやりの「ギャラント様式」に最も接近したものであり、優雅な気品をたたえているが、その品格は「崇高さ」にまで高められており、ギャラント様式の作曲家たちをはるかに凌ぐスケールの大きな世界が現出されるところに、バッハの真骨頂が現れている。

■《音楽の捧げ物》
 1747年5月、バッハは3たびベルリンを訪れた。今度はおそらく大王の招きに応じたものであろう、彼は大王の夕べの音楽の集いに参加する栄誉を得た。バッハが、居並ぶ廷臣たちの前で、大王から下賜された主題に基づいて即興的に演奏したフーガが、後に「音楽の捧げ物」というタイトルの下にまとめられた曲集の冒頭を為す「三声のリチェルカーレ」である。この作品は、バッハの即興演奏の一例としては極めて興味深いものである。後半に登場する並行三度や六度の連続は「ギャラント様式」を意識したものであろう。一方、彼が、ライプツィヒに帰ってから作曲した6声フーガが、バッハの対位法芸術の頂点とも言うべき「六声のリチェルカーレ」である。「王の主題」は、凝縮型の対位法作品の主題にはほとんど不向きと言ってもよいほど長大なものだが、それを二つの手で6つの声部を弾き分けるフーガに使用するなどということは、余人には想像も及ばないほどの難題である。「六声のリチェルカーレ」は、対位法の奥儀を窮め尽くした晩年のバッハにとってもなお果敢な挑戦であったに違いなく、しかも、ここで彼はそれに単なる技術的な解決を与えたのみならず、このような極端なまでの制約から如何に神々しい音楽が生まれ出るかを示したのである。この音楽は、啓蒙主義とはほとんど共有点をもたない。
 「六声のリチェルカーレ」がいわゆる学究的な作品であり、ここにおいて繰り広げられるのが、静的かつ自己完結的な世界であり、古様式に則った対位法の技法が駆使されているのに対し、「トリオ・ソナタ(王の主題によるソナタ)」は、ギャラント様式を採り入れ、動的かつ外向的な広がりをもっている。この二つの曲の対照は、《音楽の捧げ物》という曲集全体における大きな軸となるものである。
 「トリオ・ソナタ」は、一見して「ギャラント様式」への接近を示してはいるが、それだけではない。ここでは、伝統的な対位法の技法もまた駆使されている。第1楽章の冒頭の低音部における同音の反復は、ギャラント様式に特徴的な単純な伴奏音型のように見えるが、実は、これは、「王の主題」を終止音から初めて逆向きにたどったものである。自由な主題に基づく力強い第2楽章においては、「王の主題」は「定旋律」として登場する。フルートとヴァイオリンによる並行3度あるいは6度と、ため息のような音型が頻繁に登場する第3楽章は、最も「ギャラント」な楽章だが、終楽章は変形された「王の主題」に基づくフーガであり、しかもその後半には、演奏至難な華麗で技巧的なパッセージがフルートとヴァイオリンに交互に現れ、さながら二重協奏曲の感を呈しているのである。《音楽の捧げ物》は、バッハがその生涯を通じて求め続けた「普遍的なるもの」を、内容と形式の相克によって最も端的に示した作品であると言えるだろう。

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