レオンハルトとチェンバロ
(1993年秋・レオンハルト来日プログラム)

今回のレオンハルトの来日公演で使用されるチェンバロは次の2台の予定である。
1台は、ブレーメン在住の製作家マルティン・スコヴロネックが1990年に製作した2段鍵盤のフレンチ・モデルで、1755年にルーアンのオルガン製作家ニコラ・ルフェーヴルが製作した楽器に基づいており、『ヴェルサイユの栄光』のプログラムで使用される。2年半前の来日の際にも大半の演奏会で使われたチェンバロである。基になったルフェーヴルのチェンバロは10年程前にレオンハルトが購入したもので、やはりスコヴロネックによって修復された。18世紀にチェンバロの黄金時代を現出せしめたフランスのチェンバロは、その製作台数と楽器の品質の何れにおいても他国を圧倒し、今日製作されるいわゆる歴史的チェンバロのレプリカは大半もまたフレンチ・モデルである。しかしオリジナルのフランスの名器の中でも、ルフェーヴルのチェンバロはその繊細さと明瞭さにおいて並ぶものが無い。私は今まで三百台に余るオリジナルのチェンバロを見て来たが、ルフェーヴルはその中でも最も響きの美しい楽器である。レオンハルトはこのルフェーヴルを用いて《バッハ/イギリス組曲》(EMI)、《バッハ/ソナタと組曲》(DHM)、《フランス・クラヴサン音楽の精華〜ル・ルー、ラモー、ロワイエ、デュフリの作品》(DHM)、《フォルクレ/クラヴサン組曲》(Sony)等のディスクを録音している。
もう1台は、アムステルダム在住のアメリカ人製作家ブルース・ケネディが1992年に製作した二段鍵盤のジャーマン・モデルで、18世紀の初め頃にベルリンのミヒャエル・ミートケが製作した楽器(ベルリン、シャルロッテンブルク宮所蔵)のレプリカである。こちらは『偉大なる作曲家、バッハとフォルクレ』及び『チェンバロ音楽の真髄』の2つのプログラムで使用される。バッハがケーテンの宮廷楽長をしていた1719年、ケーテン宮廷が購入したのがプロイセン王室の楽器製作者であったミートケの手に成る2段鍵盤のチェンバロで、この楽器に触発されて、バッハは《ブランデンブルク協奏曲第5番》や《半音階的幻想曲とフーガ》を作曲したのである。倍音が少なくアーティキュレーションのはっきりしたミートケのモデルは、バッハ演奏に最適のタイプとして、「バッハ生誕三百年」の1985年前後から古楽界の注目の的となって来た。最近のレオンハルトは、バッハは勿論、17世紀のドイツ音楽やイタリア音楽にも、ケネディのミートケ・モデル(1985)を好んで用いている。《フローベルガー/チェンバロ作品集》(DHM)
《ベーム/クラヴィーア作品集》(Sony)等のディスクで弾いている楽器がそれである。また《幻想曲とフーガ〜J・S・バッハ名演集》(Philips)
や《バッハ/パルティータ》(EMI) では、ウィリアム・ダウドのパリ支社で1984年に製作された同型のモデルが使用されている。
尚、どちらの楽器も、プレクトルム(爪)には鴨の羽軸が用いられているということを申し添えておこう。今日、オリジナルの銘器を含めて、殆どのチェンバロのプレクトルムには、デルリンというプラスティックの一種が用いられることが普通である。羽軸よりもプラスティックの方が強く、しかも安定していてトラブルが少ないというのがその理由だが、音色的には、プラスティックは「生き物」にはかなわない。多少のトラブルがあっても、音色の優れた方をとりたいというのが、羽軸にした理由である。
私がレオンハルトのレコードを初めて聴いたのは1971年のことである。その頃私は、チェンバロ奏者になろうという志を固めたばかりで、自分が練習するための楽器を購入する必要に迫られていた。当時は、チェンバロといえば金属的な音のする所謂モダン・チェンバロが殆どで、いわゆる歴史的チェンバロは滅多に聴く機会がなかった。そんな折りも折りであったから、レオンハルトのレコードに初めて接して、先ず、彼の使っているチェンバロの音色の美しさとその表現力の大きさに感嘆したのである。レコードのジャケットによれば、ブレーメンのマルティン・スコヴロネックが1962年に製作したヨハン・ダニエル・ドゥルケン(18世紀中葉のフランドルの製作家)のチェンバロのレプリカということであった。基になったのはワシントンのスミソニアン博物館の所蔵する1745年製の楽器である。レオンハルトは、彼の演奏活動が最も飛躍的に拡大された60年代を、この楽器と共に歩んだのである。1970年代の初め頃までに、テレフンケンやドイツ・ハルモニア・ムンディに録音したレコードの大半がこの楽器によるもので、その中にはバッハの《半音階的幻想曲とフーガほか》《無伴奏ヴァイオリン・ソナタのチェンバロ用編曲》《ゴルトベルク変奏曲》《チェンバロ協奏曲全集》(以上TEL)、《パルティータ》《イタリア協奏曲とフランス風序曲》《平均律クラヴィーア曲集第2巻》《フーガの技法》(以上DHM)、また《クーナウ/聖書ソナタ集》《ラモー/コンセールによるクラヴサン曲集》(以上TEL)、ルイ・クープラン、ダングルベール、フランソワ・クープラン、スカルラッティの作品集(以上DHM)等々が含まれる。スコヴロネックの作るチェンバロには、数世紀の風雪を経たオリジナルの最高の銘器群に比しても勝るとも劣らない名器が少なくない。また彼は優れたリコーダー製作家でもあり、ブリュッヘンは彼のリコーダーを愛用し、数々のレコードにも使用していた。私がオランダに留学した1973年頃には、ドゥルケンとスコヴロネックという2つの名前は歴史的チェンバロのシンボルのようになっていた。