ナネッテ・シュトライヒャー(ウィーン、1818年)


Nannette Streicher, Vienna 1818

■ナネッテ・シュトライヒャー(1769-1833)は、19世紀の最初の四半世紀に、ウィーンにおいて最も高く評価された女流ピアノ製作家である。特に、この6オクターヴ/4本ペダルのタイプは、彼女のピアノのうちでも最も優れたモデルで、ベートーヴェンを夢中にさせた。ナネッテ・シュトライヒャーは、1820年に至るほぼ10年間にわたり、このモデルを基本的な仕様を変更せずに作り続けた。

■ナネッテ・シュトライヒャーNo.1352
このピアノには、1818年という製作年代と1352という製造番号が、響板上にスタンプで押されている。2002年にドイツで発見され、2003年、オーベルンドルフ(オーストリア)のロバート・ブラウンによって修復された。欧米でも珍しいほどの良好なコンディションの下で修復され、本来の魅力を余すところなく伝えている。

□仕様:
署名:(ネームボード上のエナメル製ネームプラックに)
    
Nannette Streicher née Stein, a Vienne
アクション:ウィーン式
音域:FF-f""(6オクターヴ)
弦:FF-BB二重弦/HH-f""三重弦
ペダル(4本):右から、ダンパー、モデラート、バスーン、シフト(ウナ・コルダ)
化粧板:トネリコ
第二響板(オリジナル)付

□ペダルの説明
ダンパー・ペダル:今日のピアノの右のペダルと同様。
モデラート:弱音用ストップ。ハンマーと弦の間に薄い布を挟む。
バスーン:中低音域の弦に紙を触れさせてびりつかせる。
シフト(ウナ・コルダ):弱音用ストップ。鍵盤をずらしてハンマーの打つ弦の数を減らす。少し踏むと、3重弦の部分では、ハンマーの打つ弦が2本になり、下まで踏み込むと1本になる。(注:una cordaとはイタリア語で「1本の弦」の意)

    第二響板
通常の響板の上に設置された、取り外し可能な薄い板(響板材で作られている)。当時のウィーンのピアノには大抵の場合この第二響板が取り付けられていた。これにより、直接音を抑えた、少し曇りのある柔らかな響きが得られる。この時代のウィーンのピアノは、蓋を完全に閉じるか、あるいは外して演奏された。今日のピアノのように、蓋を開けて突き上げ棒で支えるという演奏スタイルはこの時代のウィーンの趣味には馴染まなかったのである。

 

 

■シュタインの娘
ナネッテ・シュトライヒャーの父ヨハン・アンドレアス・シュタインは、ピアノ製作史上最も重要な天才の一人で、ウィーン式アクションの創案者でもある。1777年、モーツァルトは南ドイツのアウクスブルクで、シュタインのピアノと運命的な出会いをしたのだが、ナネッテは当時8歳、モーツァルトが父レオポルトに宛てた手紙の中に愛くるしい姿で登場する。ベートーヴェンとはその10年後に初めて会った。1792年に父が死ぬと、弟マテウス・アンドレアスと共に工房を経営したが、94年に詩人でピアノ奏者のヨハン・アンドレアス・シュトライヒャーと結婚すると、父の顧客リストを頼りにウィーンへ移り、当代随一の製作家の一人として、短期間のうちにその地歩を確立した。

■ベートーヴェンとの緊密な関係
 特にベートーヴェンとは生涯、緊密な関係を維持し、楽器を提供するだけでなく、病気の看護から資産の運用に至る様々な面で彼の生活を支援した。夫アンドレアスは、ベートーヴェンの補聴器を作ったり、胸像の製作に関与したりもしている。ベートーヴェンがシュトライヒャー夫妻に宛てた手紙は100通以上残っていて、彼らの緊密な親交の内実を知ることができるが、その内容は、音楽や楽器のことから、生活上の雑事に至るまで、多岐に及んでいる。
 1796年にベートーヴェンからアンドレアス・シュトライヒャーに宛てた手紙、1801年にアンドレアス・シュトライヒャーが刊行したピアノ演奏と楽器のメンテナンスの手引きなどを見ると、この時期の両者の楽器観・音楽観には大きな隔たりがあるが、1809年以降は、ベートーヴェンはシュトライヒャーのピアノ無しでは暮らせないほど、彼女の楽器に入れ込んでいる。ベートーヴェンは《熱情》ソナタを作曲した後、5年余りもピアノ・ソナタから遠ざかっていたが、彼をピアノの世界に引き戻したのは、紛れもなくシュトライヒャー・ピアノの功績であった。

■他の作曲家との関わり
 シューベルトは貧しかったのでシュトライヒャーのピアノは高嶺の花であったかも知れないが、シュトライヒャーのピアノは何と言ってもシューベルトの作品で最も美しく響く。ゲーテは1821年にシュトライヒャーのピアノを購入したが、彼のもとをしばしば訪れた少年時代のメンデルスゾーンは、ゲーテのピアノが大のお気に入りであった。シューマンは、1820年代にナネッテ・シュトライヒャーの弟マテウス・アンドレアス・シュタインの製作したピアノを所有していたが、これは、シュトライヒャーのピアノとはよく似た性格をもった楽器であった。この楽器は、やはりオーベルンドルフのロバート・ブラウンによって修復され、現在、ツヴィッカウのシューマン・ハウスにある。ショパンが学んだ頃のワルシャワ音楽院にもやはりシュトライヒャーのピアノがあり、またショパンは、ウィーンでもシュトライヒャーのピアノを弾いている。このように、ロマン派の作曲家たちもまた、大なり小なりシュトライヒャーのピアノに親しむ機会をもったのである。

■ベートーヴェンとの共同開発
 1803年、パリのエラールからピアノを寄贈された時、ベートーヴェンを最も喜ばせたのがその音量の大きさであったことは想像に難くない。しかし、ほどなく彼は、エラールのピアノには、ヴィーンのピアノの持っている微妙なニュアンスの表現力が欠けていることに気付く。私の演奏家としての経験から言うと、音量の不足なら我慢もできるが、繊細さの不足は何者を以てしても代え難い。ベートーヴェンも、エラールのそうした欠点には我慢がならないものの、音量の大きさもまた手放すことができない。結果として彼は、ピアノ・ソナタの作曲からはとりあえず手を引いてしまうのである。エラール・ピアノに、その音量の大きさはそのままにして、如何にしたら微妙な表現力を持たせ得るか。ベートーヴェンはシュトライヒャーにエラール・ピアノの「改良」(「改造」と言うべきか)を依頼する。この頃になると、両者の間には以前に輪をかけて揺るぎない信頼関係が確立されていた。シュトライヒャーはアクションの改造によってベートーヴェンの要望に応えようとする。ベートーヴェン自身もいろいろなアイデアを出したかも知れない。両者共に、ピアノの音と機構の関係についての考え方を忌憚なくぶつけ合う、これはまたとない好機となったに違いない。しかし、そうした努力の甲斐もなく、エラール・ピアノは改善されなかった。が、数年後、失敗に終わったかに見えたこの試みは、当初のねらいとは全く別の形で大きな実りをもたらすことになるのである。
 この頃のベートーヴェンのピアノに対する考え方をよく表しているのが、《ピアノ、ヴァイオリン、チェロのための三重協奏曲》作品56、《ピアノ協奏曲第4番》作品58、《チェロとピアノのためのソナタ第3番》作品69などである。それらの作品では、エラールの音量の豊かさとヴィーンのピアノの微妙さが共に追求されている。1台で彼の作曲意図を実現できるピアノなど現実には存在しないのだが、そんなことに構ってはいられない、というのがいかにもベートーヴェンらしい。現実の制約が受け容れ難いものであるなら、その現実を変えるしかない。そんな「改革派」気質が音楽の中にも窺われる。
 1809年、シュトライヒャーの開発した新型のピアノはベートーヴェンを驚喜させた。だが、そこに至る経緯を考えてみるなら、このピアノは、広い意味でシュトライヒャーとベートーヴェンが共同開発したものと言っても差し支えないであろう。彼の頭の中で鳴り響いていた音が、現実のものとなったのである。過去十年間にわたって彼の頭の片隅にあったヴィーンのピアノを「改良」するという念願がようやく叶えられた。上に挙げた何曲かをはじめとする幾多の作品において、ベートーヴェンが意図していたような表現を実現する楽器が遂に現れたのである。ベートーヴェンは早速、5年にわたって遠ざかっていたピアノ・ソナタの作曲に着手、そして、ピアノ協奏曲第5番《皇帝》、ピアノ三重奏曲《大公》などの傑作が次々に生み出されることとなる。
 私は、1810年頃から20年代の前半にかけて作られたヴィーンのピアノを数多く見るうちに、ヴィーンのピアノ製作におけるこの時代が「不毛の時代」であるように思えて来た。しかし、その考えは、シュトライヒャーのピアノを何台か見ることによって一変した。成功作こそ数少ないが、シュトライヒャーや初期のグラーフの幾つかのピアノのように真に優れた楽器は、5オクターヴの小型のピアノの持つ繊細さと後のピアノの力強さを併せ持った、まことに魅力的で表現力豊かな楽器なのである。