ベルリン報知[1747-05-11]


 ポツダムからの消息によれば,ライプツィヒに有名な楽長バッハ氏が,ポツダム王宮のすぐれた音楽を聴く喜びにあずかろうとの目的をもって,去る日曜日[5月7日]同地に到着したとのことである。その晩,王宮広間でのいつもの室内音楽がはじまろうとするころ,陛下[フリードリヒ二世]のもとに,楽長バッハがポツダムに来着して,ただいま次の間に控えつつ,音楽を拝聴させていただくべく陛下の寛大なるご許可をお待ち申しているとの知らせがもたらされた。陛下はただちに,その者を部屋に入れるようにとお命じになり,同人がはいってくるのをご覧になると,いわゆるフォルテピアノの前に進まれ,無造作に,陛下おんみずから,バッハ楽長に一つのテーマを弾いてお聴かせになり,これをフーガに発展させてみよと仰せられた。右の楽長はこのご要望におこたえしたが,その出来栄えのあまりの見事さに,ひとり陛下のみがご満足の意を表されたばかりでなく,居合わせたすべての人びともまた驚嘆につつまれたのであった。バッハ氏は,自分に課されたこのテーマが申し分なく美しいものに思われたので,それを本格的なフーガに構成して記譜し,しかるのち銅版印刷* にまわしたいとのことである。

〈シュルツェ編『原典資料でたどるバッハの生涯と作品』(酒田健一・訳)〜「バッハ資料集」白水社刊〉 * こうして出来たのが《音楽の捧げ物》BWV1079である。


 
J・F・アグリーコラによるアードルングの『楽器構造論』への注[ベルリン,1768年]


 ゴットフリート・ジルバーマンはこの楽器(ピアノフォルテ)を手はじめに二台製作したのだった。その一台を,いまは亡き楽長ヨーハン・ゼバスティアン・バッハ氏が実見し,かつ,試奏した。彼はその響きをほめた,というよりは激賞したといってよいが,しかし同時に,高音部が弱すぎるうえに,弾きづらいという指摘もつけ加えた。自分の製品に少しでもけちをつけられることに我慢のできないジルバーマンは,これを聞いてすっかりつむじを曲げてしまった。彼はこれを根にもって長いあいだバッハ氏に腹を立てていた。だがそれにもかかわらず彼の良心は彼にむかって,バッハ氏の言葉にも一理あるではないかとささやいたのだ。そこで彼は−これは大いに彼の名誉になることなのでいっておかなければならないが−これ以上この楽器の製造には手を出さず,そのぶんだけJ・S・バッハ氏によって指摘された欠陥の改良に専念しようと覚悟をきめることこそ,自分のなすべき最善の道であると考えたのだった。この仕事に彼は多くの年月を費やした。そしてこれが製造の遅れの真の原因だったことは,それをほかならぬジルバーマン氏自身の口から彼の率直な告白として聞かされているだけに,私にはいよいよもって疑う余地がない。こうしてジルバーマン氏は,自分が実際に多くの改良を,とりわけトラクタメント(打弦機構)に関してのそれをなしえたと思ったとき,ようやくつぎの一台をルードルシュタットの宮廷宛に売り渡したのだった。ところでシュレーター氏がその 141番目の『批評的書簡集』の 102ページで言及している製品こそ,まさにこのときの一台ではなかったろうかというのが,私の推測である。その後まもなくプロイセンの国王陛下がこの楽器を一台,そしてこれがかしこくも陛下の御意にかなったためにさらに数台,ジルバーマン氏に製作を命ぜられた。これらすべての楽器を見,そして聴くならば,そしてとりわけ私のようにあの二台の旧作のどちらかを目にしたことのある者ならば,ジルバーマン氏がいかに熱心にその改良のために努力したにちがいないかが,手に取るようにわかるのである。ジルバーマン氏はまた,自分の新作であるこれらの楽器の一台をいまは亡き楽長バッハ氏に見せて点検してもらおうという褒むべき功名心を発揮したが,これに対してバッハ氏からは申し分のない保証を与えられたのだった。

[註]バッハがジルバーマンのピアノフォルテをはじめて知った時期については何の記録も残っていないが,おそらく1735/36 年ごろだったと推定されている。〈シュルツェ・前掲論文〉


 
J・S・バッハの署名入り領収証 [ライプツィヒ,1749-05-06]


 ビアラストックのブラニツキ伯爵閣下宛に発送されることとなったピアノ・エ・フォルテと称する楽器の代金,ルイ銀貨にて 115ライヒスターラー,当地のヴァランタン氏より下記署名者たる小生にまちがいなく手渡されたことを,ここに証明する。ライプツィヒ,1749年5月6日。ポーランド国王兼ザクセン選帝公宮廷作曲家ヨーハン・ゼバスティアン・バッハ。

[註]バッハの署名をもつ最後の領収証。この楽器がバッハの所有物であったのか,それともバッハは仲介者にすぎなかったのかは不明。〈シュルツェ・前掲論文〉


 
カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ著『クラヴィーア奏法』[ベルリン,1753年]


 性能が良くないのであまり知られていないとか,まだ一般化してないといった数多くの種類の鍵盤楽器を除くと,これまで最も好評を博してきた楽器として,ハープシコードとクラヴィコードの二つがあげられる。概して前者は合奏用,後者は独奏用として使われる。近来のフォルテピアノ* も長持ちし,上手に作られるならば多くの長所がある。ただこの楽器のタッチは特別な研究を必要とするが,それはなまやさしいことでない。このフォルテピアノは独奏やあまり大きくない編成の合奏では効果的である。ただ私の考えでは,よいクラヴィコードは,音が弱いという事を除いては,音の美しさではフォルテピアノに劣らないし,ベーブングやポルタートをつけることができる点ではフォルテピアノよりも優れている。

〈P・E・バッハ著『正しいピアノ奏法』(東川清一・訳)全音楽譜出版社刊〉
* 「近来のフォルテピアノ」とは主にジルバーマン作のものを指していると思われる。


 
モーツァルトよりザルツブルクの父に[アウクスブルク,1777-10-17]


 最愛のお父さん!
 さて,早速シュタインのピアノ・フォルテから始めなくてはなりません。シュタインの仕事をまだ若干でも見ていないうちは,シュペートのクラヴィーアがぼくの一番のお気に入りでした。でも今ではシュタインのが優れているのを認めなくてはなりません。レーゲンスブルクのよりも,ダンパーがずっとよくきくからです。強く叩けば,たとえ指を残しておこうと上げようと,ぼくが鳴らした瞬間にその音は消えます。思いのままに鍵に触れても,音は常に一様です。カタカタ鳴ったり,強くなったり弱くなったりすることなく,まったく音が出ないなどということもありません。要するに,すべてが均一の音でできています。そのピアノは,一台 300フロリーン以下で売ってくれないのはたしかですが,彼がつぎこんだ苦労と努力はお金で報いられるものではありません。彼の楽器が特にほかのと変わっているのは,エスケープメントがつけられていることです。それについて気を使っているのは,百のメーカーに一つもありません。しかし,エスケープメントがなければ,ピアノ・フォルテがカタカタ音をたてたり,残響がのこったりしないようにすることはまったく不可能です。彼のハンマーだと,鍵を叩くとき,たとえそのまま指を残しておこうと放そうと,鍵が弦に触れて飛び上がったその瞬間に,また落ちます。彼はそんなクラヴィーアを一台作り上げると(彼自身ぼくに話してくれましたが),まずその前に坐って,ありとあらゆるパッセージや走句や跳躍を試したり,ぶっ叩いたりして,ピアノがどんなことにも堪えられるようになるまで仕事を続けるのです。なにしろ彼はひたすら音楽に役立つために働いているので,自分自身の利益のためではありません。さもなければ,たちまち仕上げていたことでしょう。
 彼はよく言っています。「もし私自身これほど熱烈な音楽愛好家でなく,自分でも多少はクラヴィーアが弾けるのでなかったら,たぶんとっくの昔に仕事への忍耐を失っていたでしょう。ただ私は,弾き手を失望させないで長持ちする楽器の愛好家なんですよ。」事実,彼のピアノはほんとに寿命が長いのです。響板が割れたり,裂けたりしないよう注意しています。彼はピアノ用の響板を仕上げると,それを大気,雨,雪,太陽熱にさらし,あらゆる魔物にさらして,それで割れ目を作ります。その時木片をそこに入れて,にかわで中を塗ります。そうすると,ほんとうに強く,しっかりしたものになります。もし板に割れ目ができれば,彼はまったく御満悦です。今後それ以上のことが起きないという保証になりますからね。ときどき彼は自分で刻みを入れて,もう一度にかわで固め,ほんとうに強固なものにします。そういうピアノ・フォルテを彼は三台も作っています。ぼくはきょう初めてそれを弾き直してみました。・・・(中略)・・・
 ぼくは当地およびミュンヒェンで,自作の六曲のソナタをほんとにたびたび暗譜で演奏しました。そのト長調の第五曲は,例の田舎貴族たちの演奏会で弾きました。最後のニ長調の曲は,シュタインのピアノ・フォルテで,比較にならないほどよく響きました。膝で押す装置も,彼のはほかのよりもよく出来ています。ただ触れさえすればすぐに効きますし,膝を少しのければたちまちどんな残響も聞こえなくなります。
 さて,あしたはたぶん彼のオルガンに行くでしょう。−つまり,オルガンについて書こうということです。そして,彼の幼いお嬢さんのことは最後にとっておきます。ぼくが,シュタインさんに,彼のオルガンを弾きたいな,オルガンはぼくの情熱を燃やしているものですからといったら,彼はひどく驚いて言いました。「なんですって?あなたのような大ピアニストが,甘さもなければ表情もない,弱音や強音どころかいつも同じ調子の楽器を弾きたいんですか?」−「そんなことはまったく問題ではありません。オルガンはなんていったって,ぼくの目と耳には,あらゆる楽器の王様ですからね。」「それなら,どうぞ。」こうしてぼくらは実際に一緒に出かけました。ぼくは彼の話からすぐに,ぼくが彼のオルガンではたいして弾けないだろう,いわばまったくピアノ風に弾くだろう,と考えていることに気づきました。・・・(中略)・・・ぼくが前弾きを始めると,もう彼はにっこりしていました。それからフーガを一曲。彼は言いました。「こんなに弾かれるなら,あなたがオルガンを弾きたがるのもよくわかりますよ。」

〈海老沢敏/高橋英郎・編訳『モーツァルト書簡全集3.』白水社刊〉


 
モーツァルトよりザルツブルクの父に[アウクスブルク,1777-10-24]


 ・・・ところでシュタインの娘さんのことを話しましょう。彼女が弾くのを見たり聴いたりして笑わずにいられるひとは,彼女の親爺さんと同じく《石》(シュタイン) で出来ているにちがいありません。この娘はけっしてクラヴィーアの中央部にではなくて,まったく高音部にむかって坐るのです。そうすれば,からだを動かしたり,しかめっ面をしたりする機会が増えます。目をむき出しにしたり,にやにや笑ったりします。一つの主題が繰り返されるとき,二度目に彼女はゆっくりと弾きます。三度目には,もっと一段とゆっくりです。パッサージュを弾くときは,腕を高々と上げ,パッサージュを際立たせるので,指でなくて腕で弾重しく,無器用にやるのです。でも,いちばん傑作なのは,あるパッサージュで(油のようになめらかに流れなくてはいけないところで),どうしても指を変えなくてはならないのに,そんなことにはとんとおかまいなく,むしろ時には中断して,手をあげ,それからまた実に気持よさそうに始めます。その弾き方だとミス・タッチがいっそう増えるのですが,それがしばしば奇妙な効果をあげます。(中略)・・・シュタインさんは娘さんにまったくのぼせ上がっています。彼女は八歳半で,いまだになんでも暗譜で覚えてしまいます。彼女はものになるかもしれません。才能をもっていますから。でも,こんな弾き方では伸びないでしょう。決して速く弾けるようにはなりません。つとめて手を重くするようにしているのですから。彼女は音楽で最も必要不可欠なもの,いちばんむつかしい物,とくに大事なもの,つまりテンポを身につけることはけっしてないでしょう。なにしろ幼いころから,拍子はずれの弾き方に専念してきたのですから。
 シュタインさんとぼくは,この点について二時間はたっぷり話し合いました。でも,すでにぼくはほとんど彼の意見を変えさせました。いまではなにかにつけ,ぼくの忠告を求めます。彼はベーケにすっかり夢中でした。でもいまでは,ぼくのほうがベーケよりもうまく弾くこと,ぼくがしかめっ面などせず,しかもじつに表情豊かに弾くこと,彼の知っているかぎり,いままでだれも彼のピアノ・フォルテをこんなに見事に使いこなしたひとはいないことを見聞したわけです。
 ぼくが常に正確に拍子(タクト) を守っていること,それについてはみんな感心しています。アダージョでテンポ・ルバートするとき,左手はそれと関係なくテンポを守るのも彼らには理解できないことです。彼らだと,左手が連られフェック伯爵や他の連中も,こないだのコンサートで,ぼくがベーケを完全に打ちのめしたことを公言していました。ヴォルフェック伯爵は広間のなかをたえず走りまわっては言ってました。「生まれてこのかた,こんなの聴いたことがない。」彼はぼくにも,「あなたに言っておきますが,いまだかつて,きょうのような演奏を聴いたことがありません。ザルツブルクに着いたらすぐ,父上にも申しましょう」といいました。

〈海老沢敏/高橋英郎・前掲書〉

 モーツァルトは1781年にウィーンでトゥーン伯爵夫人の所有するシュタイン製のフォルテピアノを弾いたらしい。1790年10月15日にはフランクフルトで,シュタインのフォルテピアノで自作のピアノ協奏曲(おそらく第19番と第26番)を公開演奏し,その演奏は完璧だったと伝えられている。1781年にヴァルターのフォルテピアノをウィーンで入手する以前は,ザルツブルクでシュタインのフォルテピアノを所有していたのではないかと推測されている。(W)


 
レオポルト・モーツァルトより娘マリア・アンナへ [ウィーン,1785-03-11]


 ルブランさんと奥さん(マンハイムのオーボエ奏者と歌手)は素晴らしい演奏会を三回やりましたが,初回が1100フロリーン,第二回が 900フロリーン,そして第三回が500 フロリーンでした。お前の弟は自分の音楽会で 559フロリーン収入をあげたが,これは 150人以上もの会員からなるメールグルーベの六回の演奏会を予約でやっているので予想もしなかったことだ。・・加えてあの子は劇場でのほかの音楽会でも好意で演奏するのだ。・・・(中略)・・・私たちは夜の一時前に眠ったことは一度もないし,九時前だ! 毎日,音楽会だし,いつも勉強したり,作曲したりなどで,私はどこへ行ったらよいのだ? ・・音楽会さえ終ったら。面倒はことや落ち着かないことを全部書いて知らせることはできません。お前の弟のフォルテピアノのフリューゲル* (グランド型のクラヴィーア)は,私がこちらに来てから,すくなくとも12回は家から劇場に,あるいは他の邸に運ばれたのだ。あの子はフリューゲルの本体の下に大きなフォルテピアノのペダル**を作らせたが,これは60センチぐらいの長さで,びっくりするほど重いのだ。毎金曜日にはメールグルーベに運ばれ,またツィヒー伯爵やカウニッツ侯爵のところにも運ばれたものだ。〈海老沢敏・著『モーツァルトの生涯』白水社刊〉

* この楽器は【アントン・ヴァルター,1781】であろう (略年表参照)か?
**この「ペダル」は「足鍵」を意味するものと思われるが,この足鍵盤は失われてしまった。



フォルテピアノ

フォルテピアノ書簡集

渡邊順生著『チェンバロ・フォルテピアノ』

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