静寂呼ぶ極小の音響「魂からの演奏」可能に
復興するクラヴィコード――ひとの声に近い楽器――
渡邊順生

(読売新聞夕刊文化欄1998.5.16)

 最近、クラヴィコードが注目を集めている。クラヴィコードはヨーロッパで14世紀から19世紀の初め頃まで使われた長い歴史をもつ小型の鍵盤楽器だが、その表情の豊かさという点で、他のあらゆる鍵盤楽器から抜きん出た魅力を持っている。

 それに、一早く気づいたジャズ・ピアニストがいた。1975年、オスカー・ピーターソンはBBCテレビの自分のショー番組にゲストとして招いたイギリスの元首相ヒース氏(アマチュアのピアニストとして有名)からクラヴィコードを紹介された。クラヴィコードに一目惚したこのジャズ界の巨人は、早速、クラヴィコードとギターのデュエットで、ガーシュウィンの『ポーギーとベス』から十曲のナンバーをを録音した。

 クラヴィコードの発音原理は極めて単純だ。鍵盤のうしろの方に立てられた真鍮製のタンジェント(マイナス・ドライバーの先のような形状)が弦を打って音を出す。弦には消音用のリボンが巻いてあるが、タンジェントが弦を打つと弦が少しもち上げられ、弦のタンジェントとブリッジの間の部分が振動する。従って、タンジェントによって弦がもち上げられている間は振動が持続する。鍵盤を上下に細かく震わせると、弦の張力にも細かい変化が起きるので、ヴィブラートがかかる。クラヴィコードはヴィブラートをかけることの出来る唯一の鍵盤楽器なのだ。

 加えてクラヴィコードの重要な特性のもう一つは、その音量の小ささにある。小さいといっても、尋常の小ささではない。五メートルも離れると、耳をそばだてないと、細かいニュアンスを聞き取ることができないほどだ。しかし、クラヴィコードほど「ひとの声」すなわち「歌」に近い表現のできる楽器は他にない。

 16世紀にはヨーロッパ全土で広く用いられていたが、17世紀以降はほとんどドイツにお限られる。特にオルガンの盛んであったドイツでは、教育用の楽器、オルガニストの練習楽器として普及し、広く愛好された。特にクラヴィコードを愛奏した大作曲家を挙げてみると、バッハ、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン等々・・・。何れも大作曲家中の大作曲家である。

 今日の演奏家の中でも、先頃来日してチェンバロの巨匠グスタフ・レオンハルトや、イギリスのチェンバロ奏者で指揮者のホグウッドなどは、クラヴィコードに取り組んでいる。ピアニストのグルダはマイクロフォンを使ってクラヴィコードをリサイタルのステージでも取り上げており、シフは「バッハの多くの作品にはクラヴィコードが最も理想的な楽器である」と指摘している。

 クラヴィコードへの関心は、最近まではごく限られたものに過ぎなかった。ところがここ数年、クラヴィコードの復興運動の輪は目立って大きな広がりを見せ始めた。これは、フォルテピアノ(初期のピアノ)の復興が軌道に乗るにつれ、次第に光が当ってきたためだ。1991年と93年にはベルギーのアントワープで、初期鍵盤楽器全般に関する催しが行われ、93年と95年にはイタリアのマニャーノで、国際クラヴィコード・シンポジウムが開かれた。その間に、米、英、独、蘭、瑞など5か国にクラヴィコード協会が結成された。我が国でも今春3月23日、日本クラヴィコード協会(宮本とも子代表)の第1回の催しが横浜で行われたばかりだ。日本クラヴィコード協会は、会員相互及び外国の団体との情報や研究成果の交換を目的としている。また、横浜のフェリス女学院大学では、数年前からクラヴィコードのレッスンも行われている。

 クラヴィコードの魅力の秘密は、ひとえにその構造の単純さと音量の小ささにある。他の鍵盤楽器は、空気の通り道にある弁を開閉(オルガン)したり、弦を打つハンマー(ピアノ)や弦をはじく爪(チェンバロ)を動かすには回転運動によらねばならず、鍵盤の上下運動を回転運動に媒介するためには、それぞれ、それなりに手の込んだ機構を必要とする。その機構ゆえに、鍵を押す演奏者は発音の瞬間を直接的に知覚できない。しかしクラヴィコードにおいては、弦の振動はほとんど直接指に伝わって来る。だからクラヴィコードはあらゆる鍵盤の原点であり、この楽器に熟達した奏者は、他のあらゆる鍵盤楽器に熟達することができるのだ。

 クラヴィコードを公開の場で演奏すると、会場は恐ろしいほどの静寂に包まれる。それは、すべての聴き手が全身を耳にした、能動的な意志の充満した静寂だ。そうした静寂を一度でも経験すると、日常我々がいかに騒音に晒されているが、そしていかに音量の大きいことが表現力の大きさにつながっていると勝手に思い込んでいたか、を悟るのだ。

 プライベートな空間で自分で弾いてみれば、極小の音響の中でこそ想像力が最も自由に飛翔することを確かめられる。クラヴィコードを通じて、我々は、バッハやハイドン、モーツァルトやベートーヴェンの鍵盤作品がなぜあれほど精神的な音楽たり得たかを、実感をもって納得することができるし、また、ジャズであろうと現代音楽であろうと、我々自身の魂からの演奏が依然として可能であることを実証することができるのだ。(1996年5月16日、読売新聞夕刊文化欄に掲載)

渡邊順生著『チェンバロ・フォルテピアノ』

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