チェンバロの歴史と名器[第2集]/渡邊順生
 解説


 □曲目一覧
 □この企画のねらい/選曲
 □使用楽器について
 ■ドイツのクラヴィーア音楽
 □フランスのチェンバロ音楽

 

■ドイツのクラヴィーア音楽

□17〜18世紀のドイツの社会と音楽

 ロンドンやパリを中心に、いち早く中央集権的近代国家への道を歩みだしたイギリスやフランスと異なり、17〜18世紀のドイツにおいては、皇帝の足下のウィーンのみならず、フランクフルトやアウクスブルク、旧ハンザ都市として知られるハンブルク、リューベックなどの帝国都市、ドレスデン、ベルリン、ミュンヘン等の大領主たちの都から地方の中小都市に至るまで、音楽家たちの活躍の場には事欠かなかった。それらの町は、それぞれが、比較的小さな文化圏の中心地であった。それぞれの町の音楽的雰囲気は、その町あるいはそれを支配する領主がルター派の新教、カルヴァン派新教あるいはカトリックの何れを奉ずるかによって、著しく異なっていた。

 この時代のドイツの社会や文化的土壌の特殊性は、17世紀前半にドイツ全土を巻き込んだ「三十年戦争」によってもたらされた、と言ってよいだろう。

 この時期、まだ「ドイツ」と呼ばれる国家は存在していない。ドイツ語圏を中心に、その周辺を加えた広大な地域が神聖ローマ帝国と呼ばれ、全体としてはウィーンを本拠とした神聖ローマ皇帝によって緩やかに束ねられながら、中世以来の封建制度が守られていた。皇帝は、西暦800年以来、キリスト教世界の守護者としての世俗界における最高の権力者をもって自他共に任じて来たから、16世紀に中部ドイツのザクセンを拠点としてマルティン・ルターの宗教改革が行われ、その信仰が中部・北ドイツにかけて猛烈な勢いで広がった17世紀初頭には、皇帝を中心とする旧教世界の権力者たちは、その状況を座視して放置するわけには行かず、両勢力の軍事的対決は早晩避けられない状況となっていた。かくして1618年に始まった内乱は、やがてスウェーデンやフランスなどの外国の干渉を招き、戦争は国際的な性格を帯びて長期化した。ドイツ各地は戦場と化し、その戦乱による破壊に加えてペストの流行が荒廃にさらに拍車をかけることとなった。

 三十年戦争は、1648年のウェストファリア条約をもって終結したが、その結果、300以上にも及ぶ封建的領邦や帝国都市がそれぞれの領主権を保証されたため、神聖ローマ帝国は、皇帝を中心とした中央集権的近代国家への道を完全に断たれてしまった。この条約が「ドイツの死亡証書」と呼ばれる所以である。しかし、そのおかげで、各地にそれぞれの地方色を生かした文化が育まれて行った。ドイツにおける音楽文化の豊かさは、ドイツ社会の後進性と表裏一体をなすものだったのである。

 ルター派の地域では、音楽活動は「神」あるいは教会と深く結びついていたが、それは、マルティン・ルターが、音楽を「神の言葉」と考えたからである。ルター派の教会では会衆の歌うコラールとオルガンが鳴り響き、受難曲や教会カンタータなど、バロック期を特徴づける多数の宗教音楽が生み出されたが、それだけではない。オペラや器楽曲などの世俗音楽も、畢竟は神に帰属するものと考えられたのである。このように、この時代のドイツでは、政治や文化に対する宗教の影響力はまだ極めて大きかったのだが、宗派の違いは、もはや音楽家たちの親交を妨げることはなかった。ドイツを訪れるイタリアやフランスの音楽家も多く、また、ドイツの音楽家たちもあちこちの都市や宮廷の間を往来して様々な音楽家たちと交際し、互いに刺激や影響を与え合ったのである。

 

□ヴェックマンの《トッカータ》と《カンツォーナ》

 マティアス・ヴェックマンは、ルター派地域の音楽に決定的とも言ってよいほど大きな影響力を与えた初期バロックの巨人ハインリヒ・シュッツ(1585-1672)の薫陶を受けた。シュッツはヴェネツィアのガブリエリとモンテヴェルディの下に学び、ザクセン選帝侯の都ドレスデンの宮廷礼拝堂の音楽監督を務めた。ヴェックマン少年は聖歌隊員としてシュッツの指導を受け、彼の薦めで北ドイツの中心的都市ハンブルクでプレトリウスにオルガンを学んだ。1637年からはドレスデンで宮廷オルガニストを務めたが、1655年に、空席となったハンブルクの聖ヤコービ教会のオルガニストのポストを射止め、鍵盤作品の他に教会カンタータなどを作曲した。

 「トッカータ」はもともとイタリアにおける自由な形式による即興的な楽曲。名人芸的な、速い音階的なパッセージを特徴とする作品が多い。「トッカータ」の名称は、「触れる」という意味のイタリア語の動詞toccareに由来するが、これは恐らく、この曲種が「試し弾き」から発展したことを示しているものと思われる。同じ「トッカータ」というタイトルが付いているにも拘わらず、ヴェックマンとフローベルガーの作風は顕著な違いを見せている。

 フローベルガーのトッカータにおいては、全体が4つ乃至5つの部分で構成されたものが多く、和音と走句を主体とする即興的な部分と、フーガ風の対位法的な部分の交替が特徴的だが、ヴェックマンのトッカータにはそのような定型は見られない。彼のトッカータにおいても和音と走句は多く用いられているが、その形式はごく自由で、《第3番ホ調》においては自由で即興的な部分は同音反復を主体とするリズミックな部分と好対照を為しているが、《第4番イ調》においては和声的な要素が支配的であり、トッカータというよりも規模の大きなプレリュードという印象を与える。《カンツォーナ第1番ハ調》では、信号音のような特徴的なリズムで始まる明るい主題が印象的である。

 

□フローベルガーの《組曲》と《トンボー(墓)》

 ヨハン・ヤーコプ・フローベルガーは、シュトゥットガルトの宮廷楽長の息子として生まれ、ウィーンの宮廷オルガニストに任じられた後、皇帝フェルディナント3世の後ろ盾を得てローマに留学し、晩年のフレスコバルディに師事した。1649年から50年にかけての冬にドレスデンを訪れ、選帝侯の宮廷で、シュッツやヴェックマンに会い、ヴェックマンと鍵盤楽器の腕競べをしたと伝えられる。これを機に、南北ドイツを代表するこの二人の鍵盤の名手たちは親交を結んだ。

 フローベルガーは、ドレスデンを去った後ブリュッセルに向かい、スペイン領ネーデルラントの総督レオポルト・ヴィルヘルム大公(フェルディナント3世の末弟)の指揮下に入って、スペイン王フェリペ4世とオーストリア大公女アンナ・マリーア(フェルディナント3世の娘)の結婚披露の宴で、オルガニストとしての勤めを果たした。その後パリに赴き、そこから更にイギリスへ渡った。

 《組曲第30番》はこの時にロンドンで書かれた作品であろう。冒頭楽章の「憂鬱を晴らすための嘆き」はリュート様式による「トンボー(墓)」のスタイルで書かれている。「トンボー」というのは、私的な席で演奏される追悼曲で、この当時のフランスでは、即興的な自由なスタイルのうちに個人的な悲しみの情を表現したトンボーが数多く書かれた。フローベルガーは、イギリス海峡で海賊の略奪にあったと伝えられているが、真偽のほどは定かではない。しかし、この曲の表題の「憂鬱」の原因が海賊の略奪で無一文になったことだという憶測は、広く行われている。

 1652年にパリに戻ったフローベルガーは、王宮で演奏会を開き、大喝采を浴びたと云う。パリでは、チェンバロ奏者のシャンボニエールやルイ・クープラン、リュート奏者のゴーティエ等と親交を結んだ。この時、彼はアマチュアのリュート奏者ブランロシェの館に寄宿していたが、ブランロシェが食後に階段から転落して死んだとき、フローベルガーはちょうど現場に居合わせたと云う。《ブランロシェ氏の墓(トンボー)には、友人を失った深い悲しみと苦悩が激しく表現されている。

 《組曲第12番》は、皇帝フェルディナント3世に捧げられた「第4巻」と題された曲集(自筆の献呈浄書譜が残っている)の最後を飾る作品。冒頭楽章の「哀歌」は、皇帝の息子で父に先立ったフェルディナント4世の死を悼むトンボー。劇的な《ブランロシェ氏の墓》と比べるとずっと穏やかで、美しい響きの中に冥福を祈る気分が強いのは、父親である皇帝の、息子を失った悲しみの心情を汲み取ってのことであろう。この曲の最後に現れる上昇音階は、天に昇る魂を表しているが、その音階が4オクターヴにわたる、というところに、フェルディナント4世の「4」が織り込まれているのである(《フェルディナント3世の死に寄せる哀歌》の最後ではF(ヘ)音が3回打ち鳴らされる。この作品は第1集に収録されている)。

 ここで、フローベルガーの組曲における楽章配列について触れておきたい。舞曲を連ねたフランス様式の組曲は今日30曲が知られているが、その中で自筆譜が残っているのは12曲のみである。そのうち、最初の6曲は1649年に皇帝に捧げられた「第2巻」に、次の6曲は1656年の「第4巻」に収録されている。それ以外の組曲については、ごく僅かな例外を除けば、作曲年代や素性について、ほとんど何の手がかりもない。彼の組曲の大半は、アルマンド(A)、クーラント(C)、サラバンド(S)、ジーグ(G)という4つの舞曲から成り、他は、ジーグを含まないもの、アルマンドをトンボー乃至そのカテゴリーに属する曲と置き換えたもの、そして、一部の舞曲のドゥーブル(変奏)を加えたものである。

 最初の6曲の中では第2番(本シリーズの第1集に収録)のみがジーグを含み、通常のA-C-S-Gという曲順が採用されている。他は、ジーグを含まないのでA-C-Sとなっている。ところが「第4巻」の6曲はいずれもジーグを含み、6曲ともA-G-C-Sという異例の配列になっているのである。そこで、これまでは、フローベルガーの組曲は、第2番を唯一の例外として、ジーグを含むものは全て「第4巻」の曲順で演奏する、というのが古楽界の常識となっていた。

 しかし、フローベルガーがヴェックマンに送った組曲の1つは、A-C-S-Gという配列で書かれていたらしいことが、ヴェックマンの記したものから知られるのである。そうしてみると、A-G-C-Sという配列の方が、フローベルガーにとって一時的な配列であったという可能性が出てくる。もちろん、1656年の曲集以降、フローベルガーが組曲における楽章配列についての考え方を変えなかったという可能性もある。

 いずれにしてもヴェックマンにA-C-S-Gという配列による組曲が送られたのは1653年頃と推定されるので、それ以前の組曲にはこの配列のほうが相応しい、ということになる。そこでこのディスクでは、《組曲第30番》ではより一般的なA-C-S-G、《第12番》では自筆譜通りのA-G-C-Sという配列を採用したのである。

 

□ブクステフーデの《プレルーディウム》

 ディートリヒ・ブクステフーデは、17世紀のドイツにおける最も優れた作曲家の一人であり、北ドイツにおける最も重要なポストの1つであるリューベックの聖マリア教会のオルガニストを40年近くにわたって務め、多数の鍵盤作品とカンタータを残した。リューベックは、ハンブルクの東方、バルト海に面した港町で、中世以来ハンザ都市として栄えた。若き日のバッハが、ブクステフーデの主宰する「アーベントムジーク(夕べの音楽)」を聴くために、遠路はるばる徒歩でリューベックを訪れたことはよく知られている。

 《プレルーディウム(プレリュード)ト短調》は、通常は、形式的には「トッカータ」そのものである。全体は6部分から成り、自由な部分とフーガが交替するフローベルガーのトッカータに極めて近いが、曲想では、同じ北ドイツのヴェックマンとの親近性を強く感じさせる。3つあるフーガのうち2番目のものは、ヘンデルのオラトリオ《メサイア》の合唱曲"And He shall purify"によく似た主題が使われている。全体として、バッハやヘンデルよりも半世紀近く前に生まれた人の曲とは思えないほど、近代的な印象を与える作品である。

 

□ケルルの《チャッコーナ》

 ヨハン・カスパール・ケルルは、中部ドイツのザクセンの生まれだが、少年時代にその才能を認められ、レオポルト・ヴィルヘルム大公によってウィーンへ招かれ、カリッシミの下で学ぶためにローマへ派遣された。その時フレスコバルディの薫陶も受けたと思われる。1646年からは総督としてブリュッセルに赴任した大公の下でオルガニストを務めた。フローベルガーとは当然旧知の仲で、彼のドレスデン訪問に同行した可能性も高い。1656年に、バイエルン選帝侯のミュンヘンの宮廷に招かれ、副楽長を経てほどなく宮廷楽長となり、多数のオペラやミサ曲を作曲して賞讃を浴びた。

 このディスクに収録した《チャッコーナ》はわずか3分ほどの小曲だが、ハ長調の明るい響きの中で機知に富んだ楽想が展開される。「チャッコーナ」は「パッサカリア」と同様、イタリアで好まれた定型バスの上に組み立てられる一種の変奏曲だが、イタリアの「チャッコーナ」におけるバス主題が2小節であったのに対し、ケルルのこの曲では、それが4小節に拡大されている(第1集のフレスコバルディ《パッサカリアによる100のパルティータ》と比較されたい)。17世紀後半以降のドイツやフランスにおけるチャッコーナ(シャコンヌ)には、4小節にわたる主題を用いたものが多い(ディスクIIのルイ・クープラン及びデュフリの作品とも比較されたい)。

 

□クーナウの《聖書ソナタ第4番》

 ヨハン・クーナウは、ライプツィヒにおけるバッハの前任者で、同市の四大教会の音楽監督とトーマス・カントルを務めていた。選帝侯の都ドレスデン近郊の生まれで、ライプツィヒ大学で法学を修め、1701年にトーマス教会の職を得た。

 彼は、幾つかの重要な鍵盤曲集を出版したが、中でも代表作とされるのが、1700年にライプツィヒで出版された「聖書の物語の音楽的表象」と題された6曲のソナタである。これらは、何れも、旧約聖書の物語を題材とし、音画的あるいはその他の描写的手法を駆使した、いわゆる標題音楽である。それぞれのソナタには、長大な序文が付けられており、その中でクーナウは、物語の概要と共に、その道徳的な意味合いや彼自身の解釈、思い入れなどを述べている。

 《ソナタ第4番》の物語は、旧約聖書の「列王紀略」から採られており、イスラエルの善良な王ヒゼキアが死病に取り憑かれたが、彼の祈りは神に届き、神の恩寵によって快癒して、寿命が15年延長された、という単純なものだが、クーナウがその物語に作曲した音楽は、極めて感動的なものである。王が神に祈る部分、神の恩寵を確信する部分で、バッハの《マタイ受難曲》に何度も使われたことで我々に親しいものとなっている有名なコラールの旋律が鳴り響くことも、たいへん興味深い。

 なお、若き日のバッハは、クーナウのこの曲集から大きな刺激を受け、その描写的手法を自分の身近な家庭的事件に応用して、初期の代表的なクラヴィーア曲である《最愛の兄の旅立ちに寄せるカプリッチョBWV992》を書いた。1703年頃のことである。

 以下は、このソナタにつけられた、クーナウの初版譜における序文の全訳である。

 「神に対する敬虔さは、大いなる報いをもたらさずにはおかぬ。此岸と彼岸のわれらが生命、そは敬虔への報いとして、神より与えられたるものである。ここには、信仰ふかき言行と確固たる誓約が、厳然として根ざしている。すなわち、“敬虔さは、現世(うつしよ)と、そして来るべき永遠の生命を約束ずるものであり、生きとし生けるものにとって、まこと大事なものである。

 然しながら、神の信仰ふかき子供として、われらに与えられた現世における幾星霜の生命につき、ひとたび思いを馳せてみるとき、生くるための物質的なかずかずや肉体の限度というものを考慮に入れたにせよ、いかんせん、そこには敬虔さがあまりにも少いことを想わずにはおれない、というのが本音であろう。

 ヒゼキアの名を知らぬものとてあるまいが、神から祝福を受けし人びとの中でも、かれヒゼキアこそ、敬虔さにおいてその範と言うべき人ではなかったであろうか。神から遣わされし御使いは、かれの栄光は色あせることなからん、と約されたのである。さればこそ、この約にもとづき、この偉大なる人間の王は、常に、神の神聖な御意志を導き手として仰ぎ、おのが行動の目安と考え、最後に辿りつくべき目標と決めていた。かれは勇敢にも、偶像崇拝の恐怖を根絶やしにしたのだが、神を信ずることの強固なる、ユダヤひろしと言えども、かれヒゼキアに匹敵しうる王は一人も見当らぬ、というほどの名君となったのである。

 さはれ同時にかれは又、現世の幸運の星がその頭上に輝くことのない人びとの、その一人に属するとも言えようか。たしかに、健康といい名誉といい、かれの亨けたものは申し分なかったが、その頭上には、不幸のしずくを含んだ暗雲が重苦しく、垂れこめていたのである。いかばかり数多き敵どもが、かれの心の平和をかきみだしたことであろうぞ。その生涯を振りかえりみるとき、年若くして既に、疾病の悪しき蛇に執りつかれ、生命の力の内にみちたる年ごろに至って、ついにその務めを放棄して床につき、最後の審判の日が来たらんその時まで、二度とふたたび起つを禁ずるおごそかな命を受く。予言者イザヤが神のお召しに応え、至高の神の御名において、かれヒゼキアにその命をば伝えたのである。思いおこすはベルシャザール、かれにあっては、ひとたび命を受くるや、瞬く間に血の気を失い、節々がぐったり、恐れおののきブルブルふるえ出し、フト気がつくや、いつしか指がひとりでに、壁の黎喰をなぞりつつ、おのが身に下されし審判の条々を書いていた、という見るも哀れな混乱ぶりだとか。

 さすがにヒゼキア、かかる事態には陥り込まずに相済ませたものの、少なからず、苦しみ悩みしこと、それは言うには及ばぬ。そは双つの眼からとどめもなく流れて落つる涙からも、思いもかけぬ当惑にわれを忘れし様子からも、推して知りうることでもあろう。

 ともあれ彼は、信頼すること篤き医師を識っていたのにちがいない。おのが疾病を訴えて、救いを熱心に乞いねがう。

 やがて神は、ヒゼキアの非の打ちどころとてなき暮しぶりと、神の御前に公正かつ信仰ふかき彼のこころを顧みたもう。いつくしみの愛にあふれし医師である、その神の御心は、ヒゼキアに寄せたもう憐れみに動かされて行く。

 ひとたび神の御言葉を伝えた予言者が、病める王の枕もとを去るか、去らぬかその中に、神は予言者を呼び戻され、ヒゼキアにふたたび御言葉を伝えさすべく申しつける。すなわち、これから後も、神はヒゼキアを見捨てたもうことなく、ヒゼキアはこれまでと変らず、民の王として留まるべし、と。

 ヒゼキアの流す涙と洩らす嘆きが、身を厚く取りまいていた暗雲を貫いたのである。かれは癒され、それから三日目には、宮詣でして御礼申し上げる。そしてかれの町は、アッシリア王の手からかれの手に、ふたたび戻ることができたのだった。ほむべきかな、全能の神は、この慈しみに満ちたる御約束をば、たぐいまれなる自然の不思議という印をもって封じられたのである。すなわち、神はヒゼキアに、その命数をずっとずっと延長するというあかしをお与えになったのだった。それは、アザの日時計を十度あと戻りさせてできた影が、かれヒゼキアの死の時を15年おくらせることになるというお示しだったのである。

 余命がかくも延ばされしことに、かれのよるこびはいかばかり。この歓喜こそ、死に瀕した病いを通して、はじめて健康と生命のもつ、まこと偽りなき価値を、身をもって知りえた者のみが味わいうるものなのだ。(丹羽久雄・訳)」

 

□ベームの《プレルーディウム》と《組曲》

 ゲオルク・ベームもやはりザクセン生まれの音楽家である。ザクセンといってもドレスデンやライプツィヒなどの選帝侯領ではなく、バッハが少年時代(1695-1700)を過ごしたオールドルフ近郊の生まれで、1794年、北ドイツのハンザ都市リューネブルクの聖ヨハネ教会のオルガニストの職を得、終生その地位にとどまった。

 バッハがリューネブルクに滞在していた2年間(1700-02)にベームの教えを受けたかどうかは不明だが、共通の知人が多かったのみならず、後年、バッハが《6つのパルティータBWV825-830》を自費出版した際、ベームがその販売代理業務を引き受けたことも、両者の親交の証と考えることが出来る。また、楽譜の蒐集家であったバッハの親代わりの兄ヨハン・クリストフが、バッハのアルンシュタット時代(1703-07)に編纂した2つの大規模なアンソロジー(それぞれ「メラー写本」及び「アンドレアス・バッハ本」と呼ばれている)には、ベームの作品が数多く集められているので、これらは若き日のバッハに大きな影響を与えたと思われる。このディスクに収録した2曲は、いずれも「アンドレアス・バッハ本」に含まれている。

 ト短調の《プレルーディウム》は、ベームの作品中でも特に優れた作品である。ブクステフーデの作品とタイトルも調性も同じでありながら、北ドイツ的な厳しさを感じさせるブクステフーデの作品とは随分その印象を異にする。この曲は、反復される低音の上で打ち鳴らされる和音が印象的な前奏部、フランス風の優雅な主題によるフーガ、リュート風の分散和音による後奏部という3部分から成る。バッハは、この曲の後奏部を、《トッカータ ト長調BWV916》(第1集に収録)の冒頭部分の終結部で借用している。

 《組曲変ホ長調》は、フローベルガー以来のドイツにおけるフランス様式の組曲の伝統に従ったもので、やはり4つの主要舞曲をA-C-S-Gの順に配列している。特にリュート様式によるアルマンドは、その響きの美しさ、装飾的な音型の効果的な使用や模倣の技法の導入などによって入念に仕上げられた印象深い音楽。軽快でリズミックなクーラントは、音程の幅の広い跳躍が特徴的で、イタリア風の印象を強く与えるが、フランス的な優雅さも忘れていない。4分の3拍子と2分の3拍子の頻繁な交替も、この舞曲の際だった特徴の1つである。単純だが物静かなサラバンドは、内省的な気分に満ち、フローベルガーのサラバンドとは際だった違いを見せている。4声フーガの書法によるジーグは、バッハ以前に書かれたジーグの中では、模倣の技法を最も巧みに用いたものの1つといえよう。主題の中に現れる5度の跳躍はこの主題に男性的で快活な性格を与えている。後半では主題の反行形が用いられているが、結尾部では再び主題が元の形で現れ、全曲に完結した印象を与えている。

 

□バッハの《トッカータ ニ長調》

 本シリーズでは、トッカータの変遷を辿ってきた。すなわち、第1集では、17世紀イタリアのピッキ及びフレスコバルディのトッカータ、また、オランダのスウェーリンクによるルネッサンス様式のトッカータ、ドイツのフローベルガーのトッカータ、そしてバッハの《ト長調トッカータ》を取り上げ、この第2集では、ヴェックマンやブクステフーデなど、北ドイツの作曲家による同種の作品を見て来た。

即興的な部分とフーガ風の対位法的な部分が好対照を為した。

 ヨハン・ゼバスティアン・バッハは、20代の前半から半ば頃にかけて7曲のトッカータを作曲したが、激しい感情の起伏に富んだ曲想と技巧的な見せ場の多いことを特徴とする、いかにも、血気盛んで自己顕示欲の強い若者を思わせる作品群である。

 《ニ長調トッカータ》の華やかな序奏部には、1705年の秋にはるばる北ドイツのリューベックまで聴きに行ったディートリヒ・ブクステフーデ(1637-1707)の影響が強く顕れている。それに続くアレグロで、バッハは、音の跳躍と和音による活発で力強い楽想と、16分音符による軽快な楽想を効果的に対照させている。これは、いかにも、イタリアの協奏曲におけるトゥッティソロの対照を思わせる。バッハが、協奏曲の気分をクラヴィーア独奏曲の中に持ち込んだ最初の例である(協奏曲の形式を用いた《ト長調トッカータBWV916》[第1集に収録]は、この数年後の作品である)。アダージョによる即興的な推移部を経て、憂いに満ちた嬰ヘ短調の足取りの重いフーガ、再び自由な推移部と続き、最後は、イタリア風ジーグを思わせる16分の6拍子の活発で無窮動的なフーガによって華麗に締め括られる。

 バッハのイタリア音楽に対する関心は、1710年代の前半を境に、以後は、専ら協奏曲という形式に対して注がれることになる。トッカータにおける自由で即興的な部分もフーガも、以後の作品でも頻繁に取り上げられるが、以後の作品ではいずれの部分も規模が大きく書法も入念になり、もはや「トッカータ」という器には入りきらなくなったためであろう。彼は、若い時代に取り組んだトッカータという形式には、もう二度と戻ることはなかったのである(1729年に、クラヴィーアのための《パルティータ第6番ホ短調》を出版した時、バッハは、初稿では「プレリュード」とした開始曲のタイトルを「トッカータ」に改めたが、この楽章は、部分的にトッカータを想起させるパッセージは用いられているものの、イタリア様式のトッカータの系譜に属する作品とは考えられない)。

 

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