チェンバロの歴史と名器[第2集]/渡邊順生
 解説


 □曲目一覧
 □この企画のねらい/選曲
 □使用楽器について
 □ドイツのクラヴィーア音楽
 ■フランスのチェンバロ音楽

 

■フランスのチェンバロ音楽

□17世紀のチェンバロ音楽とルイ・クープラン

  18世紀になるとチェンバロ音楽の絢爛たる黄金時代を誇ることになるフランスも、17世紀の前半には、隣接諸国の何れに比しても、この分野で大幅な後れを取っており、室内楽の分野では、リュートが我が世の春を謳歌しているのみであった。リュート音楽の代表的な形式は「組曲」で、組曲においては短いプレリュードの後に幾つかの小規模な舞曲を連ねるのが常であった。フランスはバレーの盛んな国で、それ故舞曲が重んぜられたのである。以後フランスの室内楽はリュート音楽をモデルとして発展することとなる。その際、チェンバロが「鍵盤の付いたリュート」、ヴィオラ・ダ・ガンバが「弓で弾くリュート」と見なされたのは極めて自然な成り行きであった。

  リュートの語法を鍵盤に移し替える、という、フランスの初期チェンバロ音楽の最初の試みの中心となったのは、フランスのチェンバロ音楽の始祖とも言われるジャック・シャンピオン・ド・シャンボニエール(c1602-1672)であった。フローベルガーのパリ訪問は、このように、まだ揺籃期を出ていなかったこの国のチェンバロやリュートの奏者たちにとっては大事件となった。ルイ・クープラン(c1626-1661)は、これら先輩たちの業績を受け継ぎながら、チェンバロ特有の語法をさらに発展させ、チェンバロ王国の基礎を固めたのであった。

 

□ルイ・クープランの生涯と作品

 チェンバロという楽器の響きの美しさを堪能できるという点において、ルイ・クープランの作品は全く比類がない。フランスのチェンバロ音楽の領域では、黎明期に登場したこの作曲家こそが最大の天才であったことは疑う余地がない。しかし、最近でこそ、彼の作品がチェンバロのリサイタルでとり上げられることも珍しくなくなったものの、一般の音楽愛好家にとっては、ルイ・クープランは依然として彼の有名な甥フランソワ(1668-1733)の陰に隠れた存在である。両者の顕著な違いは、先ずその作品の量にある。しかも、ルイ・クープランの作品は、当時から筆写譜によって限られたサークルの中でのみ知られているに過ぎなかったが、フランソワの、4巻の『クラヴサン曲集』をはじめとする数多くの作品は、印刷・出版されて世に広まったのである。1670年頃を境に、フランスの音楽界では楽譜の印刷が盛んに行なわれるようになり、厖大な分量の音楽作品が出版されたが、35歳で若死したルイ・クープランはその恩恵に浴することがなかった。しかし、フランソワは35の年には『クラヴサン曲集』の第1巻すら、未だ公にするには至っていなかったのである。またルイ・クープランは、17世紀の他のチェンバロ音楽の巨匠たち――フレスコバルディ、フローベルガー、シャンボニエールなど――のように、チェンバロ奏者としての国際的な名声を獲得することがなかった。早すぎる死が、彼からその機会を永遠に奪い去ったのである。

 2世紀間にわたってフランスの音楽界で重要な役割を演じたクープラン一族のなかで、ルイ・クープランはパリで活躍し成功した最初の音楽家である。彼は、パリから約50kmほど離れたショーム・アン・ブリーで、その地の教会オルガニストであったシャルル・クープランの三男として生れた。シャンボニエールとは同郷であった。1651年(一説によると1650年)、25歳のルイ・クープランは、2人の弟たち――即ちフランソワ(1631-1701)とシャルル(1638-1679)[有名なフランソワ・クープランの父]――と共に、シャンボニエールの前で自作の弦楽合奏曲を演奏する機会を得、これに深い感銘を受けたシャンボニエールは、ルイ・クープランを「田舎で朽ち果てさせるには惜しい才能の持ち主」だと考えて、彼をパリ及び宮廷の音楽サロンに紹介したのである。1653年、その後長らくクープラン一族が占有することとなるパリのサン・ジェルヴェ教会のオルガニストの地位を得たルイ・クープランは、宮廷礼拝堂のオルガニストの一人にも任命され、またヴァイオリンあるいはヴィオル奏者として宮廷バレーの演奏にも度々参加するなど、多方面に活躍した。1656年頃には、宮廷におけるシャンボニエールのポストを提供されたクープランが――シャンボニエールは数字付き低音による伴奏法を知らなかったためにその職を失いそうになったとの説がある――恩人に対する心遣いからこれを辞退すると、宮廷ではトレブル・ヴィオル奏者のポストを彼のために新設するなど、彼に対する評価は並々ならぬものであった。また高名な外交官アベル・セルヴィアンの庇護をも受け、セルヴィアンのムードンの館に招かれてスウェーデンのクリスティナ女王のために演奏したこともある。このように輝かしいキャリアを積み重ねつつあったルイ・クープランであったが、1661年夏、急に病に倒れ、惜しまれて世を去った。彼の作品と地位は、彼の死後2人の弟たちによって受け継がれた。

  ルイ・クープランは、パリで活躍した10年間に200曲(1つの楽章を1曲と数える)余りの作品を残したが、鍵盤独奏曲の占める割合が圧倒的に大きく、チェンバロ曲が130曲余り、オルガン曲が80曲近くも残っている。それに対して室内楽作品はほんの数曲を数えるに過ぎない。しかも、彼のオルガン作品のほとんど全てが、イギリスの蒐集家の所蔵する写本に収められているのだが、未だ出版されていないために、今までのところ演奏される機会はほとんど無い。従って、今日ルイ・クープランの作品として演奏されるものはほとんどチェンバロ曲に限られている。フランスではその後18世紀になると厖大な分量の『チェンバロ曲集』が書かれることになるのだが、それらの多くはロココ時代の典雅な装飾趣味に彩られている。ルイ・クープランのチェンバロ曲は、それらに較べるとずっと直載かつ明晰で、17世紀の偉大なる精神を体現した音楽作品としてフランスのチェンバロ音楽のなかでもユニークな位置を占めている。このディスクに収録した《組曲ヘ長調》と《パヴァーヌ嬰ヘ短調》はその中でも特に優れた作品に数えることが出来る。

 

□ルイ・クープランの《組曲ヘ長調》と《パヴァーヌ》

 ルイ・クープランの作品中最も斬新かつ独創的なのは、各組曲の冒頭を飾るプレリュードである。これらのプレリュードでは、全ての音符が全音符で書かれていて小節線が無く、個々の音符の実際の長さは奏者の自由に委される。そのためこの形式で書かれたプレリュードはプレリュード・ノン・ムジュレPrélude non mesuré )[拍子のないプレリュード]と呼ばれる。プレリュード・ノン・ムジュレは元来リュ−ト組曲の冒頭に置かれていたものだが、リュートのためのプレリュードは極く短くて、リュートならではの美しい和音の響きを聞かせることによって雰囲気を作り、後に続く舞曲群へと聴き手をいざなう役割を与えられていた。ルイ・クープランはこれを大幅に拡大し、装飾的なフレーズやイタリア風の要素などを盛り込むことによって、リュートのためのそれよりも遥かに長大で内容豊かなプレリュードを創り出した。

  ルイ・クープランによるプレリュード・ノン・ムジュレの様式的確立に大きな影響を与えたのは、フローベルガーであった。ルイ・クープランは、フローベルガーと親交を結び、フローベルガーの音楽の中でも特に、自由で即興的かつ幻想的な作品に大きな刺激を受けたに違いない。ルイ・クープランのプレリュードにおける旋律の対位法的処理やフレーズの作り方などは霊感に富んでいるが、その和声法の目を見はるような大胆さは正に特筆に価する。彼の転調法は全く聴き手の予想しうる範囲を越えているのだが、それがいかにも無理なく自然に行なわれるために、唐突さなどは微塵も感じさせない。

 彼のプレリュードでは、「フローベルガー氏の模倣によるプレリュード」が有名である。この作品では、フローベルガーの《トッカータ第1番イ短調(1649)》の冒頭と、《組曲第30番》の「嘆き」の冒頭部分が引用されている。《組曲ヘ長調》のプレリュードは、アルマンド風の上拍によって穏やかに開始されるが、ちょうど中程に、やはりフローベルガーの《トッカータ第5番ニ調(1649)》からの引用がある。

 アルマンドは、ゆったりとしたテンポ(grave)が指定されカンタービレな性格が強い点で、後の時代のアルマンドの性格を先取りしている。3拍子による軽妙洒脱なクーラント、単純なテクスチュアによる簡素なサラバンド、な軽快で元気がよく後の時代のブレーやリゴドンを想わせるバスクのブランル、田舎風だが時折洗練された趣味をのぞかせるガイヤルドなどの舞曲は、どこといって特筆すべき点などありそうもなく思えるのだが、どこをとっても詩情があふれているところに、作曲者の非凡の才が垣間見えるのである。

  シャコンヌは通常、組曲の末尾を飾る3拍子の終曲で、威厳に満ちた堂々たる性格をもっている。特にこの組曲のシャコンヌは、そのスケールの大きさという点でルイ・クープランの作品中でも際立った存在である。イタリア様式のチャッコーナは、前述のように、定型バスの上に組み立てられた変奏曲の形式をとっているが、フランスにおけるシャコンヌはロンドーの形式によっている場合が多い。冒頭の4小節あるいは8小節が繰り返し戻ってくる間に、それとは対照的あるいは相互補完的な性格をもったエピソードが次々に挿入される。

 「ブランロシェ氏の墓」は、3部分から成るパヴァーヌの形式によっている。フローベルガーの同名の作品が極めて激情的な性格をもっていたの対し、ルイ・クープランのこの曲では、穏やかで澄み切った和音の響きの美しさの中に、かえって切々たる悲しみが浮び上がって来る。弔いの鐘の音を模したような音型が聞き手の心の中にこだました後、故人の冥福を願う敬虔な祈りが再び美しい和音の響きの中に昇華されて、この曲の幕は閉じるのである。

 《パヴァーヌ嬰ヘ短調》で我々は再びプレリュードに匹敵する自由なファンタジーの世界に出合うことになる。この作品は、17世紀にフランスで書かれたあらゆるチェンバロ作品の中で、その手法・内容の何れから見ても比肩し得るものが無い。ここでは、ルイ・クープランのあらゆる音楽的特質が、音楽に深みを与えるために奉仕している。たっぷりした4分の4拍子で、3つの部分から成り、4声あるいは5声部という彼の作品中では異例ともいえる厚みのあるテクスチュアが、この作品に限りなく豊かなニュアンスと果てしない広がりを与えている。嬰ヘ短調という調性の選択は、この時代にはそれ自体、大胆極まりないものであった。この作品はどことなく、フローベルガーの《皇帝フェルディナンド3世の死に寄せる哀歌(1657)》(第1集に収録)を想い起こさせる。フローベルガーのトンボーはアルマンドの形式によっているものがほとんどだが、この作品だけがパヴァーヌの形式で、しかも、ヘ短調という、当時としてはやはり珍しい調で書かれている。しかも、彼の全作品中でも屈指の傑作である。私には、ルイ・クープランとフローベルガーのこれらの2作品の間には、何か内的な繋がり乃至刺激のし合いがあったに違いないように思えるのである。

 

□ラモーの《組曲イ短調》

 ジャン=フィリップ・ラモーは遅咲きの大家である。50歳の時、初めてのオペラ《イポリートとアリシー》で脚光を浴び、以後、「オペラ王」としてパリの楽壇に君臨した。彼は、自分の音楽理論研究を作曲と同等あるいはそれ以上に重要なものと考え、多くの理論書や論考を著した。彼は、今日の目から見れば18世紀フランス最大の作曲家であるが、彼自身は、作曲家としてよりはむしろ理論家としての名声の方を望んでおり、思想家としての自負心の方が強かったという。

 彼は、ブルゴーニュ地方の中心都市ディジョンに生まれ、若い時分にパリへ赴き、2つの教会でオルガニストを務めたが、3年後には故郷へ戻った。その後は、中部及び南フランスでオルガニストの職を転々としたが、1722年に再びパリに定住した。初めのうちは定職に就かずに活動したが、1726年頃、私設オーケストラを持ち主で後にラモーの後援者となる新興貴族ラ・プープリニエールに紹介された。この人物との交際がきっかけで台本作者と出会い、彼の屋敷で私的に上演したオペラをオペラ座の舞台にかけたことが、ラモーに飛躍的な成功をもたらしたのである。

 ラモーは、チェンバロのための独奏曲集を3巻出版した。いずれもオペラ作曲家として成功する前のことである。このうち、1冊目の曲集は、1706年にパリで出版されている。その内容は、プレリュード・ノン・ムジュレで開始するイ短調の組曲1曲という、小規模なものであった。「第2巻」は再びパリに出て間もない24年の出版。これは、舞曲を中心としたホ短調/ホ長調の組曲と、表題をもついわゆる性格的小品を並べたニ短調/ニ長調の組曲から成るが、特に後者には、今日でも演奏される機会の多い「恋の嘆き」、「ミューズの会話」、「つむじ風」、「キュクロープス(一つ目巨人たち)」等の代表作を含んでいる。

 このディスクに収録した《組曲イ短調》は、3巻目の曲集の前半を占める。この曲集では、「第2巻」のプランを踏襲――すなわち、前半は舞曲を中心としたイ短調/イ長調の組曲、後半は性格的小品を並べたト長調/ト短調の組曲という構成をとっている。後者には「めんどり」、「未開人たち」、「エンハーモニック」、「ジプシー女」などが含まれている。この巻は、28年頃に出版されたと考えられているが、その出版の背景には、プープリニエール家の人々――なかんずくラモーの熱烈な讃美者となった夫人――の熱心な奨めがあったのかも知れない。

 《組曲イ短調》では、彼の作品を特徴づける斬新な音響感覚が見事に活かされ、随所で感じさせる才気の閃きは正にラモーの独壇場である。アルマンドクーラントサラバンドといった伝統的な舞曲でオーケストラのような響きが実現されていることは、いかにもリュート的なフローベルガーやルイ・クープランによる同種の舞曲との際立った違いである。アルマンドとクーラントに、20年余り前に出版した同じ調の舞曲の改良版といった趣きがあることも興味深い。両手の交差を頻繁に用いることで技術的見せ場を多く含んだ「3つの手」には、ラモー独特のユーモアとダンディズムが見られ、それに続く2つの性格的小品「ファンファリネット」「意気揚々」の2曲には、それぞれ違った意味で生き生きとした表情と響きに対する独特のセンスが溢れており、後年のオペラの挿入曲を彷彿とさせる。そして、「6つのドゥーブル(変奏)を伴ったガヴォット」は、彼のチェンバロ独奏曲の中でも1、2を争う傑作である。この曲が、ヘンデルの『8つのクラヴィーア組曲』(1720年にロンドンで出版)中の「第3番」における「5つの変奏を伴うエール」に、主題・変奏共によく似ていることは注目に値する。最終的な仕上がりにおいて、ラモーの「ガヴォット」の方が断然優れていることは誰の目にも明らかであろう。彼は、オペラ作曲家として既に国際的名声を得ていたヘンデルを強く意識していたに違いない。

 

□デュフリの小品

 ラモー以後のフランスには、もはや創造的な天才は登場せず、音楽会は外国人作曲家のリードする場となる。こうして、ブルボン王家の下でさしもの栄華を誇った貴族文化も、やがて来たるべき革命の刃によって打ち倒される運命にあった。チェンバロにおいては、デュフリ、アルマン=ルイ・クープランなどの作品が辛うじて異彩を放ったが、彼らの作品とて、イタリアの影響を強く受けたヴァイオリンのルクレール、フルートのブラヴェほどのインパクトは持ち得なかった。

 ジャック・デュフリは、偉大な作曲家ではなかったかも知れないが、時代の趣味を敏感に嗅ぎ分け、人々の求めるような作品を供給することの出来る才人であった。ノルマンディのルーアンに生まれ、生地をはじめとする幾つかの都市でオルガニストを務めたが、1742年にパリに移ってからはチェンバロに専心し、演奏家及び教師として名声を博した。彼の作品は、この時代の雰囲気を申し分なくよく表したものである、と言うことが出来る。また、彼の作品は、フランスの作曲家達が、チェンバロを美しく響かせる手法にいかに通暁していたかを示す証しでもある。

 《ラ・ドゥ・ベロンブル》は、当時のフランスで流行しつつあった直截で活発なイタリア趣味とフランス的な響きを結びつけた、という点で模範的とも言える作品だ。一方、《三美神》《シャコンヌ》は、当時大きな人気を博したラモーなどのオペラの場面を彷彿とさせる。ラモーは、デュフリが最も傾倒し、大きな影響を受けた作曲家であった。《三美神》は言うまでもなくギリシア神話に出てくる三人の女神ヴィナス(アフロディテ)、ディアーヌ(アルテミス)、ジュノー(ヘラ)が互いに美を競い合う話だが、このやわらかい夢のような響きが聴き手を現実離れした幻想的な世界へといざなう。《シャコンヌ》では、ルイ・クープランの作品とは異なり、ロンドー形式を用いていない。大部分の変奏は2度ずつ繰り返されるが、2回目が1オクターヴ低いピッチで繰り返されることもしばしばである。ラモーのオペラなどでは、華やかで変化に富んだオーケストレーションと名人芸的なバレーによる「シャコンヌ」が一つのクライマックスを作るのが常であったが、ここではそうしたものがイメージされているのであろう。

 一方、低音の響きへの偏った嗜好が顕著な《フォルクレ》《メデー》の2曲では、明らかにフォルクレの作品を手本にしている。アントワーヌ・フォルクレ(1672-1745)は、マラン・マレーと並び称されたヴィオル(ヴィオラ・ダ・ガンバ)の名手であった。彼の息子ジャン・バティストは、父の死の2年後(1747年)、父の『ヴィオル曲集』を出版したが、それをチェンバロ独奏用に編曲した『チェンバロ曲集』も同時に出版した。先に述べたように、17世紀のフランスでは、ヴィオルは「弓で弾くリュート」と考えられた。フォルクレの作品は、そうしたヴィオル音楽の考え方の基本からは何歩も踏み出した真の名人芸的作品であるが、息子の手に成る編曲版は「チェンバロのための音楽」としても極めて優れた出来映えを示している。この編曲版は、チェンバロの中低音域をふんだんに使用した独特な響きによって人気を博したのである。《フォルクレ》は、フォルクレ自身の作品を彷彿とさせる堂々たる楽想が特徴的である。《メデー》はギリシアの王女メデアのことだが、この曲はギリシア神話の物語とはほとんど関係はなく、このタイトルは、この威圧的で激しい楽想に相応しいものとして選ばれたに違いない。

 

 

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