異常な情念の世界
〜ヒッチコックの『マーニー』(1964)〜

 

Marnie (Technicolor, Vistavision, 130 min; US Universal, 1964)

スタッフ:
製作監督:アルフレッド・ヒッチコック
脚本:ジェイ・プレッソン・アレン 
原作:ウィンストン・グレアム
撮影:ロバート・バークス 
音楽:バーナード・ハーマン

キャスト:
ティッピ・ヘドレン、ショーン・コネリー、ダイアン・ベーカー、ルイーズ・レイサム、ブルース・ダーン

 

 久しぶりにヒッチコックの『マーニー』を見た。ワイドスクリーン版で見たのは、中学生の頃にロードショーで見たとき以来だから、もう36年ぶりということになる。この映画は、ヒッチコックの作品の中ではあまり出来の良い方ではない。どちらかといえば、駄作の部類に属する。だが、この映画には、幾つかの興味深いポイントがある。

 これは、精神異常の主人公を扱った物語である。主人公は盗癖のある金髪美人(ティッピ・ヘドレン)である。有能、スマートかつ理知的でエレガント、という、一見非の打ち所のない女性だが、赤い色と、稲妻と雷鳴を異常なほど恐怖する。男性を嫌悪して寄せ付けず、心に不安を感じると持ち前の盗癖を発揮して、勤務先の会社の金庫から大金を盗み出して行方をくらましてしまう。この女に恋をした男性(ショーン・コネリー)が、彼女の心の襞に分け入って幼少期の異常な体験を思い出させ、彼女の奇癖のもとになっていた罪障コンプレックスを取り除くことによって、彼女を救おうとする、というのがストーリーの骨子である。

 あらすじだけから見ると、1945年のヒッチコック映画『白い恐怖』に酷似している。しかし、『白い恐怖』は、基本的には健全なラヴ・ストーリーで、記憶喪失症にかかった魅力的な主人公(グレゴリ−・ペック)を、彼に恋した精神科の女医(イングリッド・バーグマン)が、その献身的な愛情によって救うという物語。映画全体の雰囲気には異常さを感じさせるものは少ない。興味深かったのは、サルバドーレ・ダリによる夢のシークエンスであった。この『白い恐怖』は、バーグマンの魅力を堪能できる映画としては随一のものであろう。

 ヒッチコックの映画の中で精神の異常を題材としたものには、これらの2作品の他に、『めまい』(1959)、『サイコ』(1960)、『フレンジー』(1972)などがあるが、この『マーニー』は、ある意味で『めまい』の姉妹編と言ってもよいほど、その雰囲気には共通したものがある。その一つは、音楽用語でいえば「アダージョ・アフェットゥオーソ」とでも言いたくなるような情念のゆらめきであり、もう一つは全編を通して感じられるミステリアスな雰囲気である。ロバート・バークスのカメラやバーナード・ハーマンの音楽が、その効果を一層盛り上げている。

 『めまい』は、事故で高所恐怖症になった元刑事(ジェームズ・ステュアート)が薄倖の祖母の霊にとり憑かれた金髪美人(キム・ノヴァク)に恋をするが、彼女は自殺してしまい、男は愛する女の自殺を止めることができなかった罪障感から精神病院入りとなってしまう。退院した彼の前に現れた女に失った恋人の面影を認めた彼は、彼女を恋人そっくりに作り替えようとする。女は、実はその恋人その人で、保険金殺人に加担して自殺を擬装したのであった。しかし彼女は犯した罪への悔悟の念と元刑事に対する愛から、唯々諾々と彼の要求に従い、髪型を変え、髪の色を変え、衣服も替える・・・。

 この映画を製作した当時、ヒッチコックは、彼の映画の理想のヒロインと考えていた女優グレース・ケリーを結婚によって失ってしまったばかりであった。モナコ公妃となった彼女が、ヒッチコックの映画に再び出演する機会は永遠になかろうと思われた。『めまい』の中で、失った恋人を作り出そうとするジェームズ・ステュアートの異常なまでの情熱は、再びグレース・ケリーを作り出そうとするヒッチ自身の姿に重なるのである。

 その数年後、金髪美人のティッピ・ヘドレンにヒッチはグレース・ケリーの面影を見出したのであろう。しかし、ティッピは俳優として演技の訓練を受けたことのないモデルであった。彼女が最初に主演したヒッチコック作品『鳥』(1963)では、主人公の性格が比較的単純であったために、彼女でも何とかこなすことが出来たが、『マーニー』ではそうは行かなかった。しかも、ヒッチは個人的にもティッピに入れ込み、『マーニー』の撮影中にティッピに言い寄って拒絶された、という話が、ドナルド・スポトーの「ヒッチコック伝」(邦訳・早川書房)に書かれている。マーニーに扮したティッピは、彼女のクールでエレガントな風貌の下に情熱を秘めていることを観客に感じさせないので、観客は彼女の感情移入することが出来ないのである。だが、ショーン・コネリーを拒絶する演技には真に迫った部分もある。これは、ヒッチに対する拒絶の顕われでもあったのだろうか。

 何れにせよ、『めまい』はヒッチコックの最高傑作の1つであり、全体として良くバランスがとれているので、「病的な」印象は感じられないが、『マーニー』は異常である。しかも、監督の思い入れや執着は良く伝わってくるのに、俳優たちが監督の要求によく応え得ていない。『マーニー』で、ヒッチコックは、映画作家として踏み外してはならない一線をどこかで越えてしまったのかも知れない。その直前まで、生涯最高の傑作群をたて続けに世に送っていたヒッチは、この作品を境に、二度と以前の水準に立ち返ることはなかったのである。

 尚、余計なことかも知れないが、ティッピ・ヘドレンは現在活躍している女優メラニー・グリフィスの母であることを付け加えておく。

 

『めまい』 Vertigo (Technicolor, Vistavision, 128 min; US Paramount, 1958)

スタッフ:
製作監督:アルフレッド・ヒッチコック
脚本:アレック・コッペル、サミュエル・テイラー 
原作:ボワロー&ナルスジャック『死者の中より』
撮影:ロバート・バークス 
音楽:バーナード・ハーマン

キャスト:
ジェームズ・ステュアート、キム・ノヴァク、バーバラ・ベル・ゲデス、トム・ヘルモア

 

『サイコ』 Psycho (bw, Vistavision, 109 min; US Paramount, 1960)

スタッフ:
製作監督:アルフレッド・ヒッチコック
脚本:ジョゼフ・ステファノ 
原作:ロバート・ブロック 
撮影:ジョン・L・ラッセル
音楽:バーナード・ハーマン

キャスト:
アンソニー・パーキンス、ジャネット・リー、ヴェラ・マイルズ、ジョン・ギャヴィン、マーティン・バルサム、ジョン・マッキンタイア


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