2006年度レコード・アカデミー賞「器楽部門」受賞
 モーツァルト:フォルテピアノデュオ
 〜クラヴィーアの歴史と名器〜
モーツァルト:フォルテピアノデュオ

[解説]

モーツァルトがピアノの二重奏――すなわち、二台のピアノのための作品、あるいは一台のピアノの四手連弾曲――という分野に注いだ愛情と情熱には並々ならぬものがある。連弾曲は、今日、考えられがちなような「ハウスムジーク」(家庭音楽)では決してない。純然たるコンサート作品である。モーツァルトの器楽作品の中で中心的な位置を占めるのは(交響曲ではなく)協奏曲であり、なかんずく、他人の作の編曲を含めると30曲を優に超えるクラヴィーア協奏曲(ザルツブルク時代の作の大半はチェンバロ協奏曲である)におけるモーツァルト自身による華麗な独奏の妙技は、当時の音楽愛好家たちの人気の的ともなった。一方、18曲を数えるクラヴィーア・ソナタは、モーツァルトが作曲に際して「形式」の追求に主眼を置いたため、協奏曲における技巧的華麗さとはほど遠い、内面的な世界を現出させることとなった。1781年以降、モーツァルトがヴィーンで書いたピアノ・デュオのための作品群は、その性格において独奏ソナタよりもピアノ協奏曲の世界にずっと近いもので、高度な演奏技巧を要求すると同時に演奏の歓びにあふれた音楽である。特に、二台のピアノのためのニ長調のソナタ(KV448)、四手連弾のためのヘ長調とハ長調による2曲のソナタ(KV497とKV521)は、モーツァルトがピアノという楽器のために書いた最も大規模かつ内容豊かな作品となっている。高名な音楽学者でモーツァルト研究家としても名高いアルフレート・アインシュタイン(アルベルト・アインシュタインのいとこ)Alfred Einstein 1880-1952は、ニ長調ソナタ(KV448)を「《コンチェルト的なもの》の最高理想」と賞讃している。

■連弾曲があまり演奏されない理由
 四手連弾曲というのは、ヴィーン古典派の作曲家たちにとっては欠かせぬレパートリーのジャンルであった。モーツァルトには、現存するだけで5曲のソナタと1曲の変奏曲があり、ベートーヴェンも数は少ないが機知に富んだ魅力的な作品を書いた。シューベルトに至っては数多くの傑作を含む厖大な数に上る作品群を世に贈ったのである。今日の音楽生活の中で、一般の音楽愛好家が四手連弾曲に触れる機会は、ごくたまに限られた演奏家たちのコンサートで聴く以外は、子どものためのピアノの発表会がせいぜいといったところだろう。コンサートが滅多にないから、録音も当然ごく僅かしかない。しかも、おさらい会では、ここで挙げたとびきりの名曲にはほとんど触れられもしない。なぜなら、これらの名曲群は、おさらい会で連弾曲を弾く子どもたちには難しすぎるのである。では、世に数多くのピアニストやピアノ教師たちは、こんな宝の山を前に何をしているのだろうか。
 連弾曲の世界は、たとえ内容が如何に豊かで華麗な技巧を駆使しようとも、畢竟、少人数の耳の肥えた聴衆を対象としたサロン音楽であり、本質的に、今日の商業主義的なコンサートの運営や広すぎる演奏会場になじむものではあるまい。しかし、関係者の熱意と努力があれば、これらは決して克服不可能な障害ではないはずである。
 私はここで、関係者の理解と認識を妨げているきわめて重要な要因が「楽器」の問題にある、ということを指摘したい。モーツァルトやシューベルトの用いた所謂フォルテピアノ――ヴィーンのクラシック・ピアノ――は、多くの点で、現代のピアノとは特性が異なっている。弦の張力が弱いため、フォルテピアノは構造も軽く、音色を作る響板は、僅かな振動の変化にも敏感に反応するように作られている。音の立ち上がりの速さ、いわゆる「玉を転がす」ような軽やかな音色がモーツァルトの作品に適していることは、これまでも再三にわたって強調されてきた。構造体を形成するすべての部品が木で出来ているため、音色には「木質」の温かみがある。しかしもっと重要なのは、音域によってかなり音色が異なること、減衰が速いため、ニュアンスが豊富であることである。モーツァルト時代のフォルテピアノの音量は打弦後すぐにピークに達し、1〜2秒のうちに半減する。シューベルト時代のピアノではこの時間が2〜4秒と少し長くなる。それに対してモダン・ピアノでは、打弦後の数秒間は音量が上昇カーヴを描き、ピークに達するとかなりの長時間にわたって同じ音量を維持する。
 もう一つ重要なことは、モダン・ピアノの低音部は交叉弦なので音の混ざりが良く、一方、並行弦のフォルテピアノでは低音の一音一音がクリアに聞こえる。これらの音響的特性は、それ自体では、どちらか片方がもう一方より優れているか劣っているか、という問題ではない。しかし、それぞれの特性に応じて、異なる音楽表現を要求する。端的に言って、音に持続力のあるモダン・ピアノの方が旋律を「歌う」ことに長けており、ニュアンスの多いフォルテピアノは「喋る」ことにより適している、ということになろう。フォルテピアノで息の長い旋律を歌うのには特別な工夫を要するが、モダン・ピアノで細やかなニュアンスを付けるにはもっと苦労するのである。
 さてそこで連弾曲である。モーツァルトやシューベルトのピアノ独奏曲では、響きが比較的あっさりしており、テクスチュアが薄い。モーツァルトのアレグロ楽章などでは、二声部書法の部分が圧倒的に多い。それでもモーツァルトやシューベルトの音楽の性格を出すためには、基本的に左手はかなり控えめに弾くことが多い。モーツァルトでもシューベルトでも、交響曲などの管弦楽曲ではチェロ・バスなどの低音楽器がしっかりしていた方が心地がよいのに、ピアノの独奏ではそのように弾かないのは、専らモダン・ピアノの特性によっているのである。
 ところが連弾曲は基本的に四声体で書かれており、それを音の減衰のほとんどないモダン・ピアノで弾くと必然的に暑苦しくて野暮ったい響きになる。作品が優れていればいるほど、低音側の奏者は伴奏者ではなく高音奏者とまったく対等な共演者として扱われているので、音楽的にも中低音に重点の置かれた部分が多く、独奏曲のように低音を控えめに弾く、というわけには行かない。しかも低音部は混ざりの良さを身上とするモダン・ピアノであるから、旋律を鮮明に弾くのは並大抵ではない。低音部の旋律に起伏を付け、また、「噛み付き」の良い音でも出そうものなら、音量がどんどん上がってしまってますます暑苦しい響きになる。
 このような事情は、二台のピアノのための作品でも基本的に変わらない。二台ピアノのデュオが連弾と異なるのは、低音部の同一音域で分散和音が交叉したり、オクターヴのユニゾンが現れるなどの点であり、そのため低音部のクリアさがますます要求される。
 そのようなわけで、ピアノ・デュオの魅力を堪能して頂くためには、フォルテピアノの演奏に如くはないのである。そうは言うものの、演奏する側にとってみれば、フォルテピアノのデュオはモダン・ピアノのデュオに比べたらはるかに大変である。フォルテピアノは音の立ち上がりがはっきりしているからずれると非常に目立つ。しかし、そんなことは、ニュアンスを揃えることの難しさに比べたら初歩的な問題でしかない。フォルテピアノの持ち味は、前述のように、音の抜けの良さにある。それが、二人の奏者が同時に弾くことで、お互いのニュアンスを殺し合ってしまっては何にもならない。弦や管楽器とのアンサンブルでは、もともと異質な響きをどう近づけるかが問題になるのだが、同質の楽器の場合は何層倍も難しい。しかし、本当に合った時の快感には何物にも代え難いものがある。そこに到達するためには、二人の奏者が響きの理想を共有し、経験を積むことが必要なのである。

■モーツァルトのクラヴィーア・デュオ
□少年時代
 モーツァルトにとって、四手連弾という演奏形態は、子どもの頃からの姉ナンネル(マリア・アンナ・モーツァルト1751-1829)との楽しい思い出に満ちたものであったに違いない。現存する連弾ソナタの最初のもの(KV19d)は9歳の時の作品である。このソナタの終楽章(ロンド、アレグロ)では4小節にわたって、低音奏者の右手と高音奏者の左手が交錯する。有名なモーツァルト一家の集団肖像画(デッラ・クローチェにより、1780年末から81年初頭にかけて、モーツァルトの不在中に描かれた)でナンネルとヴォルフガングの手がピアノの鍵盤上で交錯しているのは、この曲の思い出が描かれたのであろう。
 1773〜4年に相次いで生み出されたニ長調(KV381)と変ロ長調(KV358)の2つのソナタは、ザルツブルクのモーツァルト家で同市の音楽愛好家たちを招いてしばしば催された家庭音楽会の呼び物となったに違いない。もっとも、この時期のモーツァルト家にはまだピアノはなく、連弾のソナタはチェンバロで演奏されたのである。

□ピアノとの出合い〜《二台のピアノのための協奏曲》
 モーツァルトが初めてピアノという楽器に巡りあったのは、1775年の春、ミュンヘンの「黒鷲亭」と呼ばれる宿屋においてであったと思われる。経営者のフランツ・ヨーゼフ・アルベルトは音楽好きで、恐らくタンゲンテンフリューゲル(タンジェントと呼ばれる小さな棒状の木で弦を打つフォルテピアノの一種)と思われるピアノを所有し、黒鷲亭においても頻繁にコンサートを開催していた。モーツァルトはこのピアノがとても気に入ったらしい。青春の記念碑とも言うべき傑作《ピアノ協奏曲第9番変ホ長調KV271》(1777年初頭)は、この楽器のために書かれたのではないか、と私は考えている。
 しかし、1777年10月、いわゆるマンハイム=パリ旅行の途次に立ち寄った父の郷里アウクスブルクで出合ったヨハン・アンドレアス・シュタイン(1728-92)のピアノは、それまでにモーツァルトが経験したあらゆるピアノを遙かに凌ぐ優れた楽器であった。シュタインは、ピアノ製作史上最大の天才の1人で、1780年頃、独自のアクション(発音機構)を完成した。モーツァルトが初めてシュタインのピアノを見たのは、彼のアクションが既にかなり精度が高く、完成の域に近づきつつあった頃である。モーツァルトはザルツブルクの父に、その楽器に出合った感激を早速書き送る。その後に訪れたマンハイムやパリで数多くのピアノに触れたモーツァルトは、ピアノ・ソナタやヴァイオリンとの二重奏ソナタなどを数多く作曲する。この辺りでようやく、ピアノという楽器の、モーツァルトの生涯の伴侶としての地位が確定的なものとなって来るのである。しかし、モーツァルトは1779年1月ザルツブルクに戻るが、モーツァルト家ではまだピアノを購入するに至っていない。
 《二台のピアノのための協奏曲変ホ長調KV365》は、ナンネルと共演するために帰郷後に作曲されたと考えられているが、いつ何処で初演されたのか、資料は沈黙している。この曲は、2つのソロ・パートが繰り広げる輝かしい競争と調和、変化に富む楽想などによって、彼の数多くの協奏曲中でも際立った傑作の1つとなった。2曲の連弾ソナタや《3台のクラヴィーアのための協奏曲》(1776年)――初演時はチェンバロにて演奏――に比べると長足の進歩である。モーツァルトは、1780年11月、歌劇《イドメネオ》の練習と初演のためにミュンヘンに赴き、彼の地で父姉と合流、3月には家族で3日間、アウクスブルクを訪れたのだが、この協奏曲はその時、シュタインのピアノ2台を用いて演奏された可能性がある。モーツァルトは、この直後、ザルツブルク大司教コロレードからヴィーンに呼び出され、その後まもなく大司教と決裂してヴィーンにとどまり、この地に骨を埋めることとなるのである。

□アウエルンハンマー嬢とその他の弟子たち
 ヴィーンに居を定めたモーツァルトが最初に直面した深刻な問題の一つは、ピアノを入手することであった。シュタインのものは高価でとても手が届かなかった。「・・・では、さようなら、おしまいにしなくてはなりません。クラヴィーアを探しに行かなければならないからです。・・・」(1781年8月1日付の父宛の手紙)
 早速後援者となったトゥーン伯爵夫人(1744-1800)はシュタインのピアノを所有していた。フォン・アウエルンハンマー家にあったのも、おそらくはシュタインのピアノであっただろう。ヴィーンは、まだ、鍵盤楽器については後進的で、優れたピアノを探すのは、それ自体で一苦労なのであった。フォン・アウエルンハンマー家の令嬢ヨゼーファ(1758-1820)はヴィーンにおけるモーツァルトの最初の弟子の一人。ピアノの腕前は確かだが、誠に気の毒な容貌の持ち主であったという。モーツァルトは、少なくとも、1781年11月23日のフォン・アウエルンハンマー家における私的な演奏会と翌年5月26日のアウガルテン・コンサートの2回、変ホ長調の協奏曲(KV365)で共演し、前者のために《二台のピアノのためのソナタ ニ長調KV448》を作曲した。また、彼女には6曲のヴァイオリン・ソナタを献呈している。モーツァルトの演奏会に彼女が出演する機会は上記以外にも数回あったが、曲目の詳細は不明である。
 その後のモーツァルトは腕達者な女性の弟子に恵まれ、何曲かのピアノ協奏曲をそうした弟子たちに献呈しているが、その中でも特に、バルバラ・フォン・プロイヤー嬢(愛称バベッテ1765-1800以前。ヴィーン駐在のザルツブルク宮廷顧問官兼連絡官ゴットフリート・イグナーツ・フォン・プロイヤーの縁者)のためには《第15番変ホ長調KV449》と《第17番ト長調KV453》の2曲のピアノ協奏曲を作曲した。フォン・プロイヤー家における1784年6月13日の演奏会で、バベッテ嬢は出来たばかりのト長調協奏曲を、モーツァルトは《ピアノと管楽器のための五重奏曲変ホ長調KV452》を、そして二人でニ長調の2台ピアノのソナタを演奏した。
 1786年、大好評を博した歌劇《フィガロの結婚KV492》の初演前後の傑作量産期に、2つの連弾曲が10数年ぶりに登場する。《ソナタ へ長調KV497》は古今のすべての連弾曲中の最高峰とも言うべき傑作だが、もう少し小ぶりな《アンダンテと変奏曲KV501》は、ソナタにはない親密な魅力を湛えた「天才の悪戯」のような作品で、「独奏ピアノのための変奏曲のどれよりも優れている」(アーサー・ハッチングス『モーツァルト人と音楽』)。どちらも成立事情については知られていないが、前後の事情から察するに、モーツァルトの最も気のおけない友人であったゴットフリート・フォン・ジャカン(1767-92)とその妹フランツィスカ(1769-1853)が絡んでいることは確実であろう。特に変奏曲の高音パートはきわめて女性的に書かれており、モーツァルトが特定の愛らしい女性のイメージを持たずにこのパートを書いたと想像することは、むしろ困難ですらある。フランツィスカ・フォン・ジャカンのために、モーツァルトは、有名な「ケーゲルシュタット(ボウリング)・トリオ」と呼ばれる《ピアノ、クラリネット、ヴィオラのための三重奏曲変ホ長調KV498》を書いているが、自作品目録によると、ヘ長調の連弾ソナタは三重奏曲の僅か4日前に完成しているのである。
 翌年5月に作曲された《連弾ソナタ ハ長調KV521》もまたヘ長調のソナタに勝るとも劣らない名品である。完成直後、モーツァルトはゴットフリート・フォン・ジャカンに宛てて「この作品を妹さんに差し上げて下さい」と書いているが、この手紙は、「今父の死の報を受け取ったばかりだ」という、きわめて印象深いものである。この手紙の記述にも拘わらず、このソナタは後日、正式にはナートルプ家の姉妹に献呈された。ナートルプ家はフォン・ジャカン家と親しく、妹のバベット(1769-1844)は後日ゴットフリートの義妹となった。

[曲目解説]

■二台のピアノのためのソナタ ニ長調 KV448
 アインシュタインは、名著『モーツァルト』(邦訳:浅井真男訳、白水社、1961)の中で、この作品について次のように述べている。「終始《ガラント》である。オペラ・ブッファのための理想的なシンフォニアの形式と主題を用いている。その明朗さを曇らせる一片の影もない。しかし両パートの均斉のとれた配分の技術、戯れる対話、装飾音型の精緻さ、そして楽器の音域の混合と十分な利用における音響感覚などのいっさいが、ぶきみなほど老練なので、一見《表面的》で娯楽的なこの作品が、モーツァルトが書いたもののうちの最も深く、最も熟した楽曲の1つとなっている。」
 第1楽章はソナタ形式で書かれているが、内容的には、本稿冒頭に引用したアインシュタインの讃辞を待つまでもなく、純然たる協奏曲である。2台のピアノは、独奏楽器として親密な対話を交わしながら次第に昂揚し、興奮の度を強めながら共にオーケストラと化して行く。オーケストラを伴わない鍵盤楽器だけのための協奏曲としては、J・S・バッハの有名な《イタリア協奏曲BWV971》や《2台のチェンバロのための協奏曲ハ長調BWV1061a》などに前例があるが、この作品は同種の発想によるモーツァルト版と言える。作曲家がチェンバロを自らの私的なオーケストラと見なすような扱い方は18世紀になるとバッハやD・スカルラッティ、ラモーなどをはじめとして多くの作曲家に見られるが、モーツァルトやベートーヴェンにとってのピアノもまったく同様であった。このソナタにも、そうしたオーケストラ的なアイデアが随所に応用されている。
 第2楽章もまたソナタ形式で書かれているが、声楽のアリアのような印象を強く与える。第1主題では第2ピアノによる伴奏の上で第1ピアノが旋律を奏するが、第2主題部では2台のピアノが対話を交わし、終結部では同じ旋律を交互に奏する、という具合に、2つの楽器の関わり方に様々な趣向が凝らされている。展開部は、第2ピアノのソロによる穏やかな旋律で始まるが、やがて高音部での長いトリルに付点リズムが組み合わせられると突然華やかになり、短調の導入によって曲想がにわかに哀愁を帯びるなど、非常に変化に富んでいる。
 第3楽章はソナタ形式の要素を強く持ったロンド。A−B−A−C−B−A−コーダという構成で、各部分の間には、それぞれかなり長いブリッジ(推移部)がある。Bの部分が第2主題に相当する部分だが、通常のロンド・ソナタ形式ではCとBの間でAが回帰するのが普通である。この楽章ではそれが省略されているためにやや意表を突かれるが、この方が構成的に見て締まりがある。Bの部分が短調で書かれているのが、楽章全体に大きな変化と広がりを与えている。

■四手連弾のためのアンダンテと5つの変奏曲 ト長調 KV501
 1786年11月4日完成(自筆作品目録)、翌87年、ヴィーンのホフマイスター社から出版された。この曲は「KV448と同様の意図によるものである。これはおそらく友人の出版社ホフマイスターの望みで、はじめは同様に二台のピアノのためのものとして着想されたが、その後もっと売行のよい四手のために完成されたのであろう。・・・魅力と響きの優美さに満ち、聴衆を魅了する効果を持つ演奏会用楽曲である。」(アインシュタイン)
 ここで我々が出合うのは、「変奏曲がこんなに楽しいものとは知らなかったでしょ?」というモーツァルトのいたずらっぽい眼差しである。多分自作と思われるアンダンテの主題は、前半8(4+4)小節/後半10(6+4)小節の2部分から成り、それぞれの部分が反復する。流麗で親しみやすい旋律だが、なかなかどうして、これが一筋縄では行かないのである。4つのフレーズ(楽節)は典型的な「起承転結」構造によっているが、和声的には定石から大きく逸脱している。前半の第1の部分では、既に第3〜4小節で属調(ニ長調に向かう)。第5小節でハ長調へのドミナント(属和音)が登場したとき既に、敏感な聴き手は、この主題の尋常ならざる和声的広がりを予感するはずである。第6小節以降はハ長調、ニ長調の和音を経て主調(ト長調)に戻る。
 後半はいきなり並行短調(ホ短調)で開始する(第9〜10小節)が、旋律が冒頭と同じなのでまったく違和感がない。4小節目(第12小節)でニ長調の和音(ト長調の属和音)となり、主調への回帰が示されるが、モーツァルトは続く2小節(第13〜14小節)で、ニ音のオルゲルプンクト(持続低音)上で、不協和音による色合いの変化を巧みに織り交ぜながら属和音の響きを延長する。第9小節での転調によって主調から離れたため、ここでは主調に戻る方向性をより強調することでバランスを取ったのである。古典派の4小節ずつのフレーズ構造を敢えて崩したわけだが、この、いわば余分の2小節が天才の業である。この2小節によって主題の平明さに「含み」が与えられ、雰囲気と深みが、和声的な安定性と共にもたらされたのである。この2小節間では、内声に現れる下降する旋律の連続が模倣的に扱われ、大きな広がりの感覚を作り出している。
 主題から第3変奏までは、一貫した加速感がこの変奏曲の大きな特徴となっている。すなわち、主題では8分音符の流れが特徴的であるのに対し、第1変奏ではそれが16分音符のモーション(高音パートの右手)に分割され、第2変奏では16分音符の3連音符(低音パートの右手)、第3変奏では32分音符(高音パートの左手)という具合に音価が細かくなって行く。第2変奏と第3変奏で、低音パートの男性的特質と高音パートの女性的性格が見事な対照を見せるが、このようなところに、オペラの達人たるモーツァルトの面目が躍如としている。第2変奏はチェロ協奏曲。出番到来と大いに張り切るソリスト(低音パートの右手)が大真面目で技巧的なパッセージを弾きまくるのを、高音パートは黙って眺めていないで、高い音域でちょっとした旋律を弾く振りをするところがコミカルだ。第3変奏の主たる関心はもちろん32分音符を奏する高音パートの左手だが、それを挟んで、高音パートの右手、低音パートの右手と左手が、模倣的に旋律の断片をやりとりする。
 第4変奏は、弾みの付いてきたスピード感を一気に中断する間奏曲。同主調(ト短調)に転調し、半音階で下降する旋律が、これまでとはまったく別の曲のような印象を与える。この暗さ・深刻さは、今までの喜悦に満ちた曲想からは何人も予想だにし得ない展開であり、こうした突然の変転を可能にする手腕が、天才モーツァルトが時として「悪魔」にたとえられる所以である(小林秀雄『モーツァルト』参照)。4つの声部が、ここでは主にフーガの手法で扱われているのは、ファン・スウィーテン男爵(1733-1803)のもとでバッハの研究に勤しんだ成果である。
 第5変奏で、男女の協奏的な対話の世界がさらに拡大された姿で戻って来る。こういう曲に接すると、モーツァルトの音楽におけるオペラとコンチェルトの親近性を改めて痛感しないではいられない。「拡大されている」というのは、第2変奏と第3変奏では、低音パートの右手と高音パートの左手――すなわち内声どうし――の対照であったものが、この変奏では、低音パートの左手と高音パートの右手――すなわち外声――が対照されているからである。ここではフォルテピアノの音域の両極が用いられ、この時代のフォルテピアノの低音の音色の「厚かましい」とも言える物々しさと、高音域の透明感のある軽快さとが、文字通りの「競争」を繰り広げるのである。これはもう、完全にオペラ・ブッファの世界だ。バス歌手が自慢の低音で吼え立てるとソプラノ歌手は鈴の音のような高音を強調し、「どちらの声がより素晴らしいか」とその判定を迫っているのである。その行き着く先は、ドラマティックな変ホ長調の和音である。何という物々しい和音であろうか! ここに喜劇の粋がある。2人の役者が真剣になればなるほど、観客は笑いを堪えることが出来ない・・・
 コーダでは、冒頭主題の最初の8小節がほとんど原型のまま復帰すると、その後半(第5〜8小節)の旋律を低音でもう一度繰り返す。そして、主音(ト音)のオルゲルプンクト上で、ゆったりとした16分音符の流れに続き、何と、冒頭の2小節が5度低く現れる。なるほど、そうだったのか!――主題の冒頭の2小節がト長調からニ長調へ向かったように、ここではハ長調からト長調という方向で全曲が締め括られるのである。この5度下に登場する主題はたとえようもなく懐かしい。つい今しがたまで舞台上で演じられていた華麗な虚構の世界を反芻し回想しながら、ピアニッシモでフェイド・アウトするように曲を閉じる。夢は終わった。

■二台のピアノのためのラルゲットとアレグロ 変ホ長調 KV6 deest
 この未完の作品の自筆譜は、ベートーヴェンとの親密な関係で知られるルドルフ大公のコレクションの中から発見された。大公の居城であったボヘミアのクロムイジェル城の古文書館で1920年代に楽譜類の目録が作成された時、この楽譜には大公の手で「グルックの作品に違いない」と書かれていたため、長らくグルックの作品と信じられていたのだが、1960年代初めに、ゲルハルト・クロルによってモーツァルトの作品であることが確認された。
 この自筆譜はスコアと第1ピアノ用パート譜から成り、スコアにおいては、36小節にわたるラルゲット部分は完成されており、アレグロ部分の方は、基本的に呈示部の終わり(第108小節)まで書き進められている。但し、第1ピアノのパートは完全だが、第2ピアノのパートにはほぼ30小節分の欠落がある。一方、パート譜のほうは第70小節までであるが、スコアに比べると、多くの強弱記号やアーティキュレーション記号が丹念に記入されている。以上の状態から次のことが推定できる。先ず、モーツァルトが、既に予定されている演奏会でこの作品を演奏するため、急いで作曲を進めたこと。その演奏会では、モーツァルト自身が第2ピアノのパートを、もう1人の奏者が第1ピアノのパートを演奏する予定であったこと(モーツァルト自身にとっては、メモ書き程度の楽譜でも十分であったが、もう一人の奏者は、演奏記号の細かく付けられた完全な楽譜を必要としていたからである)。時間に迫られていたために、作曲しながらもう1人の奏者のためのパート譜の作成を並行して進める、という、いわば異例の手順をとったこと。しかし、何らかの事情でこの曲の演奏が取りやめになったので、モーツァルトはこの作品を未完のまま放置することとなったのであろう。
 では、この作品は、いつ何処で、誰と演奏する予定だったのだろうか。ヴォルフガング・プラートは、モーツァルトの筆跡から、この自筆譜の書かれた年代を1781年以降とし、アラン・タイソンは、ウォーター・マーク(紙の透かし)から1782〜83年としている。そうなると、当然浮かび上がってくるのは、1782年5月のアウガルテン・コンサート、あるいは11月3日のケルントナートーア劇場でのコンサートなど(その他の私的音楽会も含めて)である。相手役は何れも、ヨゼーファ・フォン・アウエルンハンマーであった。
 1781年11月23日のフォン・アウエルンハンマー邸での演奏会で、モーツァルトとヨゼーファは、《二台のピアノのための協奏曲変ホ長調KV365》と《二台のピアノのためのソナタ ニ長調KV448》で共演した。しかし、2台の協奏曲のオーケストラの全奏による壮麗な開始部とソナタ(KV448)の出だしはとてもよく似ているのである。この2曲は、その他の点でも共通項が多い。そこで、再共演の際にモーツァルトは、KV448とは全く性格の異なる曲を書きたい、と思ったに違いない。序奏の付いた大規模なソナタ楽章の中で交響曲と協奏曲の要素を結び合わせる、という雄大な構想は、モーツァルトの情熱の大きさを物語っている。
 この曲の冒頭は、KV365ともKV448とも全く印象を異にする。オープニングで、2台のピアノは、親密に、優しくいたわるような旋律を交替で対話風に奏するが、ラルゲットの中程で短調に転調すると、何とも名状しがたい憂いと憧れが独特の雰囲気を作り出すのである。アレグロに入ると、協奏的な世界が展開するが、KV448とはやや趣きを異にしながらもオーケストラ的な響きが実現されている。
 展開部以降には――呈示部における第2ピアノの欠落部分も含めて――モーツァルトの弟子であったマクシミリアン・シュタードラー(1748-1833)による補筆完成版があるが、展開部が類型的かつ単調なので失望させられる。そうした凡庸さからこの魅力的な作品を救い出したのが、ピアニストでモーツァルト研究家としても知られるアメリカのロバート・レヴィンである。レヴィンは即興演奏の名手でもある。レヴィン以外にも、例えばパウル・バドゥーラ=スコダなどは非常に凝った補筆版を作ってイェルク・デームスと録音しているが、バドゥーラ=スコダの版が「編曲」の感を払拭できないのに対し、レヴィンは「モーツァルトもかくや」と思われるような見事な補筆を行っているのである。レヴィンは《レクイエム》をはじめとしてモーツァルトの他の未完の作品の補筆においても非常に優れた仕事をしている。この曲においても、基本的にモーツァルト自身による素材のみを用いながら、即興的な感覚を生かし、簡潔ながら説得力のある展開部を作ることに成功している。華麗なコーダもまた、演奏者にも聴き手にも充実した満足感を与える。この曲の序奏部はかなり長大なので、締め括りに際して、コーダは是非とも必要なのである(ちなみに、シュタードラーの版にもバドゥーラ=スコダの版にもコーダはないが、尻切れトンボの感は免れない)。
 レヴィンはこの補筆版をペータース社から1992年に出版している(Edition Peters Nr.8721)が、このディスクでの演奏においては、レヴィンの補筆に従いながらもペータース版は用いず、トレモロの和音構成や2つのパートでの旋律の分担の仕方を工夫した独自の版を用いている。

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