The Viennese Fortepiano
 and the World of Fantasy
 Yoshio Watanabe, Fortepiano

 幻想のフォルテピアノ《月光》
 〜クラヴィーアの歴史と名器〜
 渡邊順生(フォルテピアノ)
幻想のフォルテピアノ《月光》

[解説]

 このアルバムは、ヴィーン古典派を代表する3人の作曲家、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンと、この3人のそれぞれに大きな影響を与えたJ・S・バッハの次男カール・フィリップ・エマヌエルの作品を集めたものである。「幻想のフォルテピアノ」とは誠に気障なタイトルだが、英文の方The Viennese Fortepiano and the World of Fantasy(ヴィーンのフォルテピアノと幻想の世界)は、このディスクの内容に即している。ファンタジー(幻想)とは、自由な発想の意であると同時にそれに基づく即興的な演奏を意味しており、超現実的なもの、あるいは現実逃避的なものという意味で用いたわけではない。
 18世紀後半のドイツでは、バロックにおける諸形式を踏まえながらも、新しい楽曲形式を模索し、それを確立していった。従って「形式理念」が極めて重視されたにも拘わらず、作曲家たちはそれぞれが即興演奏の名手であり、固定的な「形式」に縛られるのではなく、自由な発想で、自らの拠り所とした形式の基本的なフォームに種々の改変を加えたのである。この時代には数多くのファンタジー(幻想曲)が書かれたが、当時のドイツでは「即興演奏する」ことを「ファンタジーレンphantasieren」と言っており、「ファンタジー」とは、正に「ファンタジーレンされたもの」という意味であった。また、即興演奏によって生み出されるのは「幻想曲」のみにとどまらず、「ロンド」、「変奏曲」、そして一般的には堅固な形式感を持つと考えられている「ソナタ」などにも、即興的な要素がふんだんに含まれていたのである。このアルバムでは、この時代のそうした特徴を最もよく表している作品の中から、出来るだけ種類の違った作品を集めたいと思い、3つのソナタを枠としながら、その間にロンド、幻想曲、変奏曲などを挟んでみた。
 即興演奏は、楽器の特質と深く結びついている。従って、ここで選んだ曲においては、特に、この時代のピアノの特性が顕著に現れるものばかりである。使用した楽器は、この時代のヴィーンのピアノ製作家の中でも最も優れた名工の一人であったフェルディナント・ホフマンが1790年頃に製作した音域FF-g3(5オクターヴと2度)のフォルテピアノである。現代のピアノと比べるとずっと音量が小さいが、反応が敏感で、減衰が速く、特に弱音で弾くと豊かなニュアンスが得られる。
 モーツァルトがヴィーンに移り住んだ1781年当時は、ヴィーンにおいて優れたフォルテピアノを探すのはなかなか骨の折れる仕事であった。結局、モーツァルトはピアノ製作を開始して間もないアントン・ヴァルターの中古のピアノを入手することになるのだが、この時点では、ヴァルターは、過渡的なアクション(発音機構)に種々の実験を行いながら改良を加えている、という段階にあった。当時のヴィーンでは、南ドイツのアウクスブルクの製作家ヨハン・アンドレアス・シュタインの楽器が高く評価されていたが、シュタインとて、その後ヴィーン式アクションと呼ばれるようになる新しいアクションを完成したばかりであった。モーツァルトは1777年にシュタインのピアノを見て深い感銘を受け、1781年、ヴィーンに移る直前にも再びアウクスブルクを訪れたが、シュタインのピアノはとても手が出せないほど高価で、自ら購入するには至らなかった。ヴィーンに移った当初は、トゥーン伯爵家やアウエルンハンマー家を訪れては、そこにあるシュタインのピアノを弾きながら、自らの懐ぐあいに見合った楽器を探したのである。
 ホフマンは、ヴィーンにおいて、シュタイン方式のアクションのピアノを製作した最初の製作家の一人であった。彼は恐らくシュタインの弟子で、1784年にマイスターの資格を得て自らの工房を開いた。彼は、シュタインのアクションを踏襲しながら、シュタインよりも力強く、よりカンタービレな表情をもったピアノを目指し、ヴィーンにおけるピアノ製作の草創期に、ヴァルターと並ぶ二大メーカーの一人となった。モーツァルトが精力的にピアノ協奏曲を演奏したことも手伝って、ピアノという楽器は急速にヴィーンの音楽愛好家の人気を集め、ヴィーンにおけるピアノ製作は、10年のうちにはロンドンと並んで、ヨーロッパ各地にピアノを供給するほどの成長産業となったのである。ピアノ製作を手がけようとする楽器職人たちは、ヴァルターとホフマンの工房で腕を磨いたが、この両者を凌ぐほどの名工はほとんど現れなかったのである。
[曲目解説]

■ハイドン:ソナタ変ホ長調Hob.XVI:49
 このソナタは、ハイドンの作曲した60曲余りのクラヴィーア(鍵盤楽器用)・ソナタの中でも、当時のヴィーンのフォルテピアノの特性を最もよく活かした作品と言える。
 第1楽章はソナタ形式で書かれているとはいうものの、ソナタ形式の定式に則しているとは言い難い。普通なら第2主題の現れる箇所で、第1主題の冒頭のモティーフが再び現れる。ソナタ形式における2つの主題は、対照的な性格のものを用いることが多いが、その意味で第2主題的な性格をもった旋律は、第1主題の直後、属調(この場合は変ロ長調)に転調するための推移の部分に現れる。こうした変則的な構成が、即興的な気分の中で実現されていることが、この楽章の大きな特徴となっている。提示部の最後に、同音が4回反復する特徴的なモティーフが印象的に現れる。この動機は、ベートーヴェンが熱情ソナタや第5交響曲で用いたいわゆる「運命の動機」との関連を強く感じさせるものだ。この楽章における16分音符の連続による躍動的な音楽、展開部におけるハ短調からヘ短調へのドラマティックな展開などもまた、ベートーヴェンの音楽を強く想起させる。
 第2楽章は、ABAの三部形式。それぞれのセクションが2部分構成をとっているので、記号で表すとA(a-a'-b-b')-B(c-c-d)-A(a"-b")-Codaとなる。Aのセクションを構成するaとbの部分は、それぞれ反復するたびに、即興的な装飾変奏によって少しずつ姿を変えて行く。この部分は、クラヴィコードをイメージしたものであろう、弱音の中で限りなくニュアンスが変化する。一方、中間部Bはフォルテが主体となり、オーケストラ的な音響が実現されている。
 第3楽章のメヌエットは、これまた変則的なABACAという構成。細かく分けるとA(a-b-a')-B(c-d-c)-a-C(am-e)-A'(a"-b"-a'")ということになる。BとCはそれぞれトリオという性格が強く、従ってこの楽章は2つのトリオをもつメヌエットということになろうが、BとCの間のAは非常に短くて最初の8小節が戻って来るだけ。それに続くCは短調のトリオで、aを短調にしたamによって開始する。つまり、Bのあと、Aの部分が戻って来たかと思いきや、すぐに短調に転ずるという、聴き手の意表を突く趣向なのである。

■C・P・E・バッハ:ロンド変ロ長調Wq58-5
 C・P・E・バッハは、クラヴィーアの名手として生前には父ヨハン・ゼバスティアンを凌ぐ名声を獲得し、18世紀後半のドイツの鍵盤音楽の発展における指導的な役割を演じた。彼の見事な即興演奏については、1770年代に彼を訪ねたイギリスのチャールズ・バーニーが印象的な叙述を行っている。
 ロンドとは、A-B-A-C-A-D... という風に、冒頭の部分が戻って来ては新しいエピソードが展開して行く、という、極めて即興演奏に適した形式である。C・P・E・バッハのロンドにおいては、Aの部分は転調もするし、若干の変奏も行われており、バロックの協奏曲におけるトゥッティのように扱われている。
 C・P・E・バッハは、1779年から87年まで、「識者と愛好家のための曲集」という表題の下に6つの曲集を出版した。内容的には、ソナタ、ロンド、自由なファンタジー(幻想曲)を集めたもので、第1集はクラヴィコードのための曲集であったが、第2集以降はフォルテピアノのためのものとなった。ただし、第2集以降の正確なタイトルは「クラヴィーア・ソナタ集/及びフォルテピアノのための自由なファンタジーと幾つかのロンド」となっており、この「クラヴィーア」という語はクラヴィコードの意であるとする主張もある。その説を採るならば、これらの曲集におけるソナタはクラヴィコードのためのもので、ロンドとファンタジーだけがフォルテピアノのための作品ということになる。
 このディスクに収録した変ロ長調のロンドは、1783年に出版された第4集の第5曲。ユーモラスな主題をはじめとして古典派的な色彩の強い作品だが、短調のエピソードにおける表情の豊かさや、急激なテンポの変化、荒々しく激しい動きなど、ロマンティックな要素も盛り込まれている。特に、短調のエピソードの旋律がモーツァルトのニ短調のピアノ協奏曲(第20番KV466)の第1楽章のソロ主題によく似ていることは注目に値する。

■C・P・E・バッハ:幻想曲《C・P・E・バッハの感情》嬰ヘ短調Wq.67
 C・P・E・バッハは18世紀後半ドイツの「多感様式」の代表的作曲家であった。多感様式とは、18世紀中葉から後半にかけての北ドイツ及び中部ドイツにおいて盛んとなった、文学における「疾風怒濤運動」(シュトルム・ウント・ドラング)と軌を一にする、激しい感情表現を伴う表現様式であり、前ロマン的あるいは原ロマン的な特質をもっていた。C・P・E・バッハの音楽の中でも、このような傾向の強い作品においては、嵐のような激しさから、静けさの中で表情豊かに歌われる哀しみや憧れに至る、レンジの広い表現が特徴的である。晩年のC・P・E・バッハの作品においては次第に理知的な古典主義的傾向が強まって行くが、死の前年に書かれたこの幻想曲は、「多感主義」の作曲家としての面目躍如たるものである。冒頭の和音の連続が途中で何度も再現されるという点ではロンド形式を一つの拠り所としているが、全体的にはレチタティーヴォないしモノローグ的な自由なリズムによる部分が圧倒的に多く、即興演奏の名手としての面影を偲ばせる、他に類のない作品となっている。

■モーツァルト:ソナタ イ短調KV310
 18曲を数えるモーツァルトのクラヴィーア・ソナタの中でも最も人気の高い作品の1つだが、これ以前に書かれたものと比べて、そのシリアスで深い内容という点で一線を画している。自筆譜には「パリ、1778年」と作曲の場所と年代が明記されている。モーツァルトは、1778年3月下旬から9月下旬までの半年間にわたってパリに滞在した。その間、彼の人生における最大の事件である母の死に遭遇した。7月3日のことである。彼は、自ら手紙に書いているように、それまで人の死に立ち会った経験が全くなかった。初めての経験がよるべなき異国の地における母の死であったのだから、22歳の青年にとっては苛酷すぎる体験であった。このソナタの曲想は、これまでの彼のこのジャンルの作品において特徴的であった明るい平明さとはほとんど無縁である。両端楽章において支配的な暗く悲劇的な気分、とりわけ第1楽章の展開部において特徴的な劇的、あるいは激情的な展開などから、このソナタは常に、母の死と結びつけられて論じられてきた。それを裏付ける客観的な資料はないが、さりとて、それを否定することも出来ない。両端楽章には、一気呵成に作曲されたという印象が強く、「疾走する哀しみ」などという言葉で説明されることが多い。その一方、第2楽章は、やはり展開部は極めてドラマティックに書かれてはいるものの、入念な取り組みと高い精神的境地を感じさせる。傷つきやすい青年の心が、生涯の大事件からそんなにも早く回復出来るものかと、通説に対する少なからぬ疑念を起こさせる。何れにしても、このソナタには、モーツァルトの死生観が色濃く滲み出ていることは間違いない。
 モーツァルトは父に宛てた7月20日付の手紙の中で、ソナタを数曲送ると書いているが、その中にはこのソナタも含まれていた可能性が高い。父レオポルトは、8月13日付の手紙の中で「大多数の人にはちんぷんかんぷんな技巧的和声進行や演奏するのも困難な旋律」という言葉で、息子の音楽を批判しているが、この批判がこのソナタに向けて発せられた可能性は十分にある。聴き手の心を抉るような苦悩と悲しみに満ちたこのソナタは、父親の音楽観とはかけ離れた内容であった。
 このソナタについて特に興味深いのは、第1楽章の展開部にフォルティッシモとピアニッシモの交替が指定されていることである。このような、最大限の強弱の対照というのは、モーツァルトのピアノ独奏曲の中では他に全く例がない。そこで考えられるのは、強弱を瞬時に変化させることの出来る自動的な音量切り換え装置の付いた特殊なピアノにモーツァルトがパリで出逢った、という可能性である。前述のように、モーツァルトは前年の10月にアウクスブルクでシュタインのピアノを初めて見て強い感銘を受け、「自分が今までに見た最高のピアノ」とそれを激賞した。その後に訪れたマンハイムでは、さらに複数のシュタインのピアノに触れる機会があったものと思われる。マンハイムで作曲された2曲のピアノ・ソナタにおける楽器の扱い方の大きな進歩は、シュタインのピアノ抜きには考えられない。そして、このソナタにおけるさらなる飛躍・・・。
 シュタインは、1769年から、チェンバロとピアノの複合楽器の開発と改良に取り組んでいた。弦を叩くアクションとはじくアクションを組み合わせて使うことで、表現力の拡大を目指したのである。しかも、この楽器には実音より1オクターヴ低い弦を同時に鳴らすことの出来るレジスターが組み込まれていたので、重厚な響きを出すことも可能であった。シュタインはこの楽器を「ポリ・トーノ・クラヴィコルディウム」と命名したが、その他にも、ピアノとオルガンを組み合わせ、高音部で旋律を弾く際に両者を同時に鳴らす「メロディカ」という楽器も開発した。18世紀後半には、多くの製作家が新種の鍵盤楽器の開発で腕を競ったが、シュタインは、その中でも屈指の発明家であった。しかし、アウクスブルクのような田舎町では、こうした新種の鍵盤楽器は全くと言ってよいほど一般の関心を喚起しなかった。業を煮やしたシュタインは、1773年、これらの新発明の楽器を携えてパリに赴いたところ、ポリ・トーニ・クラヴィコルディウムもメロディカもあっという間に売れてしまったと云う。もしもモーツァルトが、パリでこの楽器を見たとしたら、大いに刺激されて、重厚かつダイナミックで、軽快さと微妙さを併せもった野心的な作品を書いてみよう、と思い立ったかも知れない・・・このイ短調のソナタのような。

■ベートーヴェン:《ルール・ブリタニア》による変奏曲WoO79
 この変奏曲は、ベートーヴェンのピアノ曲の中では重要視されていないが、極めてベートーヴェンらしい作品である。彼は、この「ルール・ブリタニア」という歌に共感し、持ち前の即興の才を生かして一気に作曲したのであろう。彼のピアノ作品の中では珍しく「自由」をテーマにした内容の音楽であるという点でも注目に値する。  この「ルール・ブリタニア」という曲ほど、大英帝国のイメージと結びついた音楽は他にあるまい。英国版「愛国行進曲」と言えばわかりやすいだろう。欧米人ならば知らぬものはないほどポピュラーな曲である。特にイギリス人はこれが大好きで、お祭り騒ぎになると必ずと言っていいほどこの歌を歌い、終いにはユニオン・ジャックの旗を振り回す者も出て来て大騒ぎになるという。日本では驚くほど知られていないが、クラシック映画ファンには懐かしい曲で、大英帝国時代のイギリスを描いたアメリカ映画には欠かせない音楽であった。戦前の「南海征服」(戦艦バウンティ号の叛乱)、「進め龍騎兵」などでは英国人気質のシンボルとして、戦後では「八十日間世界一周」や「あなただけ今晩は」などで、コミカルかつ印象的に使われていた。
 もともと1740年にトーマス・アーンが作曲した仮面劇《アルフレッド》の中に含まれており、あっという間に国民的な人気を得た。「アルフレッド」とは、ヴァイキングを撃退した伝説的なアングロ・サクソンのアルフレッド大王のことである。ベートーヴェンは英国の楽譜出版業者トムスンとの文通による交際をきっかけに、この変奏曲を作曲することとなったらしいが、初版楽譜はヴィーンの美術工芸出版社から1804年に出版された(作曲は1803年)。その後、トムスンとの交際から、イングランド、スコットランド、アイルランドをはじめとする諸国の民謡の編曲が多数生まれることとなる。
 テーマは勇壮で、一度聴いたら忘れられない。いかにもヘンデルの影響が顕著である。テーマの最後で音楽が一段と盛り上がるところの歌詞は、「ブリタニア(英国)、波濤を制せよ、ブリトン人は、奴隷の境涯に甘んずること、なかるべし!」というのである。第1変奏は、うって変わったピアニッシモ。海底の泥が固まって盛り上がり、海面上に躍り出てブリタニアが出現するまでが描かれる。第2変奏は美しい国土、第3変奏は人々の歓び、といったようなイメージであろう。第4変奏ではがらりと雰囲気が変わって短調となり、低音部のトレモロが不吉な轟音をひびかせる。ヴァイキングの脅威とその来襲であろう。そして最後の第5変奏とコーダでは、敵を撃退して勝利の凱歌を上げる。  ベートーヴェンは歌詞の内容に即しながら、極めてわかりやすい、しかも筋書きの変化に富んだ面白い音楽を書いている。しかも、当時のヴィーンのフォルテピアノの特質を十二分に活かしている。第1変奏では弱音のニュアンスをミステリアスに用い、第2変奏ではそれを優美さに変え、第3変奏では軽快な歯切れ良さを生かし、第4変奏では厚かましい低音をおどろおどろしく響かせる・・・といった具合である。
 皮肉なことに、この当時、英国はナポレオンのフランス軍と交戦中であり、英軍の兵士たちはこの歌によって鼓舞されて戦場に送り込まれたに違いないが、一方、ベートーヴェンはフランス革命の理念に限りない共感を寄せ、ナポレオンに対しては、その理念を実現する英雄として崇拝に近い気持ちを抱いていたのである。しかし翌年、その幻想は、ナポレオンが帝位に就いたことで見事に打ち破られる。その後、ヴィーンは征服者ナポレオンの軍隊に痛めつけられるが、1813年、スペインで英国の将ウェリントンがフランス軍を撃破すると、ベートーヴェンは《ウェリントンの勝利(作品91)》(いわゆる「戦争交響曲」)を作曲して、ヴィーンの人々と共にイギリス軍の勝利を熱狂的に祝ったのである。その《ウェリントンの勝利》を開始するのが、やはり「ルール・ブリタニア」の旋律であった。  しかし、この1803年の時点では、ベートーヴェンはまだ後の運命を知る由もない。ナポレオンに対する尊崇の念とは別の次元でイギリス人とこの歌曲に共感を寄せ、それを屈託なく音楽にした。そんなナイーヴな魅力に富んだ作品である。

■ベートーヴェン:ソナタ 嬰ハ短調《月光》Op.27-2
 「月光」というこの曲のニックネームは、ロマン派の詩人レルシュタープに由来する。ベートーヴェン自身は全く与り知らぬことである。ベートーヴェンは、作品27の2つのソナタに、「幻想曲風ソナタ」というタイトルを与えたが、その意味するところは、この稿の冒頭でも述べたように、「即興演奏風」ということであった。
 第1楽章は、モーツァルトの歌劇《ドン・ジョヴァンニ》冒頭の騎士長の死の場面から採られた、一種のパロディである。しかし、西洋人の想像力の中では「月」と「死」は密接に結びついており、そうなると「月光」というニックネームは、ベートーヴェンの意図とあながち無関係とも言えない、というような意味のことを、ドイツの高名な批評家ヨアヒム・カイザーが書いていた。全く同感である。ただし、月の光の降り注ぐあずまやで盲目の少女がピアノを弾いている図、というのは単なる安っぽいセンチメンタルな想像力の産物で、この曲の内容とは何の関わりもない。
 ベートーヴェンは、初期のピアノ・ソナタでは、当時のヴィーンのピアノの特性を考慮して、弱音を重視した。ダイナミックな表現に富むアレグロ楽章ですら、フォルテの部分は全体の3割程度である。そのように弱音偏重のベートーヴェンのピアノ・ソナタにおいてすら、全編ピアニッシモというこの楽章のデュナーミク指示は最も偏った例である。テンポ指定はアダージョ・ソステヌートだが、ベートーヴェンに直接学んだチェルニーやモシェレスなどのピアニストたちは、2分の2拍子で書かれているので極端におそくせず、流れるような感じを出しながら、即興風のテンポの柔軟性も考慮するべきだと助言している。
 第2楽章はメヌエット風のエレガントなアレグレット。終楽章は、うって変わって、ドラマティックな激しい動きが目立つ楽章だが、決してフォルテを主体としているわけではなく、インパクトのある刺激的なアクセントが随所に用いられている。この楽章でも、チェルニーは、即興的なテンポの微妙な変化を多用するように助言しており、このディスクにおける演奏でも、大筋においてその助言に従った。

■フォルテピアノにおけるアルペッジョ奏法について
 このディスクを一聴して、和音の入りをずらす、いわゆるアルペッジョ奏法が多用されていることに驚かれるリスナーも少なくないと思われるので、それについて一言述べておきたい。このようなアルペッジョの多用は、今日のチェンバロ演奏ではごく普通のことである。1840年頃に書かれたチェルニーによる資料を読むと、その当時、ピアノにおける和音はほとんどアルペッジョで弾かれていたことがわかる。こうした演奏法は、チェンバロにおける演奏習慣がそのまま引き継がれたものであると同時に、ヴァイオリン等の弦楽器における重音奏法とも連動していた可能性もある。
 このように、和音において音をずらし、あるいは分散するような弾き方は、その後のピアノ演奏においても長い間にわたって引き継がれ、1920年頃まで実践されていた。20世紀初頭に録音されたピアノのレコードをいろいろ聴き比べてみると、リスト系、ロシア系のピアニストの間ではアルペッジョ奏法が減少傾向にあるのに対し、チェルニーの流れを汲むドイツ派のピアニストたちの演奏では、かなり大きなアルペッジョが頻用されていたことがわかる。ラフマニノフなどは、ロシア人であるにも拘わらず、アルペッジョを多用している。
 このような演奏スタイルは、1920年代、「楽譜通りの演奏」を金科玉条とする新即物主義の興隆によって急速に廃れていくのである。従って、演奏史的に見ると、楽譜上に特別な指示のない和音を同時に弾く演奏法は、20世紀後半に特有の演奏スタイルと言って良く、19世紀ドイツにおけるピアノ演奏においては、シューベルトやシューマン、ブラームスなどにおいてもアルペッジョの多用はごく普通に自然に行われていたに違いない。こうした演奏スタイルは、ブルーノ・ヴァルターやフルトヴェングラーといった指揮者たちのピアノ演奏の中にも、その片鱗をとどめているのである。
 そのような演奏習慣とは別の次元で、アルペッジョ奏法の効用を考えてみると、アルペッジョの速度を変化させることによって、和音のニュアンスもまた、同時に弾くのに比べると、はるかに大きく変化する。従って、和音の性格に応じた表情を得るためにも、これが効果的な手法であることに議論の余地はなさそうである。残るのは、「聴習慣」という問題だが、耳は味覚と同じで意外と早く慣れるものである。私自身の経験から言えば、初めてブルー・チーズを食べた時には拒絶反応を起こしたものだが、すぐに好きになり、今では大好物となった。初めて古楽器でバッハを聴いた時にも、似たような経験をしたものである。

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