Cembalo, Clavicordo & Fortepiano
 フォルテピアノ「悲愴」/渡邊順生
 解説



フォルテピアノと私

 「フォルテピアノ」とは、初期のピアノを現代のピアノと区別する時に用いる呼称である。映画『アマデウス』には、18世紀末から19世紀前半に製作されたと思われるフォルテピアノが何台も登場した。ただ、モーツァルトより少し後の時代のものが多かった。
 モーツァルトの時代・・即ち18世紀末のウィーンのピアノは、現代のコンサート・グランドに比べると、音量は小さいが、音色は軽やかでこまやかな色彩に富んでいる。大きさは大分小ぶりで音域も狭い。全長2m10〜20cm、幅約1m、音域は約5オクターヴで、F1−f3またはg3の61〜63鍵が標準である。張力が弱いために構造が軽く、鋳鉄のフレームは使われておらず、全ての構造体が木で出来ている。そのため、楽器全体が振動し易く、反応も敏感で、木質の柔らかい音色をもっている。また、楽器全体が底板によって閉じられた箱の形状になっているので、その箱が豊かな響きを保持している。ハンマー、鍵盤等のアクションも軽い。フォルテピアノの鍵盤は、現代のピアノの鍵盤の4分の1から5分の1の重さで、深さは半分にも満たないものが多いので、奏者のどんな微妙なタッチの変化にも反応する。振動のエネルギーが小さいため音の減衰が速く、それが構造体とアクション双方の反応の敏感さと相まって、極めてニュアンスに富んだ表情を創り出すことが出来る。《歌う》より《喋る》ような表現に適した楽器である。音の均質さを目指した現代のピアノとは製作の発想が全く違う。1台のフォルテピアノでも、高音、中高音、中低音、低音等、音域によってそれぞれ音色の性格が異なっていて面白い。また、ハンマーの小さな木部には薄い皮が二重または三重に張ってあり、フェルトの部分が大半を占める現代のピアノの大きなハンマーに比べると、遥かに、音の立ち上がりがはっきりしている。俗によく言う「玉を転がすような音」というのは、フォルテピアノの音色を形容するための言葉のようである。特に、弱音で弾かれた時の美しさは格別である。しかし、弾き手にとっては、その軽い鍵盤をコントロールして弱音の魅力を引き出すというのはなかなかに困難な課題なのである。
 私が、初めてじかにフォルテピアノの音を聴いたのは、1973年秋であった。ミュンヘンのルードヴィヒ・ドゥルケンという製作者が1790年頃に製作した楽器であったが、そのいぶし銀のような音色の何とも言いようのない不思議な魅力に目の眩む思いであった。しかしその頃私は、チェンバロ奏者を志してオランダへ留学したばかりであったから、道草を食っている余裕は全く無かった。
 私が初めて公開の席でフォルテピアノを演奏する機会を得たのは、それから丁度10年後、1983年の秋のことである。チェンバロ奏者の眼と感覚でモーツァルトをはじめとする古典派音楽と関わりを持ちたくなって来た、そんな矢先でもあったので、2週間の間、フォルテピアノの練習に没頭した。私は、あらゆるコントラストを出来るだけ強調するように努めた。強弱、不協和音と協和音、リズムの規則性と自由さ・・・ 最も興奮させられたのは、自在な強弱を駆使出来ることであった。そして、18世紀のチェンバロ奏者も、初めてフォルテピアノを弾いた時には同じ興奮を味わっただろうと確信した。しかし、実際には、強弱は少しも自在になぞならなかったし、その演奏は、チェンバロ的なものと、モダン・ピアノ的なものの残滓とに分裂したままだった。最も欠落していたのは《スタイル》であっただろう。この場合の《スタイル》とは、文章に於ける《文体》のようなものを言っている。《様式》という訳語はいかにも固い。だから訳さずに《スタイル》と言いたい。感覚と思考が噛み合って来ないと《スタイル》は出て来ない。
 その後、バロック・チェロのアンナー・ビルスマと「ボッケリーニの室内楽」で共演した際に、ビルスマが、ボッケリーニの弦楽作品に於いて弱音のニュアンスが如何に豊富で多彩であるかを説くのを聞いて、眼から鱗の落ちる思いであった。ボッケリーニはイタリアで生れ、18世紀の後半にスペインで活躍した、生れながらのチェロの名手である。彼の、弱音に於ける色彩感は、張力が弱く敏感な古楽器を用いなければ実現出来ない。「もしかすると古典派のピアノ音楽の特色もその辺にあるのではなかろうか?」私のフォルテピアノへの取り組みが本格化したのはその後のことである。
 チェンバロ奏者にとって、フォルテピアノは、一歩踏み出せば手の届く距離に在る。それは現代のピアノの奏者が遡らなければならない距離に比べたら、比較にならないほど短い。しかし、18世紀にも、その一歩をためらう音楽家は少なくなかったであろう。その一歩で世界が変わってしまうのである。例えば、ヨハン・ゼバスティアン・バッハは、決してこの一歩を踏み出そうとはしなかった。
 ドイツに於けるピアノ音楽の発展に寄与した偉大な先駆者たちの中で、最も重要なのは、大バッハの次男カール・フィリップ・エマヌエルであろう。彼は、若い頃からチェンバロの表現語法に習熟し、熟達した書法による優れた作品を数多く残したが、1753年に出版された彼の著書『クラヴィーア奏法』を読むと、彼自身はチェンバロという楽器の表現力の限界に満足せず、新しい表現の可能性をもった鍵盤楽器を求めて、クラヴィコードに強く傾斜していることがよくわかる。彼は1740年からプロイセンのフリードリヒ大王の宮廷に勤務しており、この宮廷では1745〜46年にG・ジルバーマンの手に成る極めて秀れたフォルテピアノを15台も購入した。ところが、エマヌエル・バッハがこの新しい楽器にとびついた形跡は全く無い。彼がフォルテピアノに熱中するのはもっと後になってからのことである。
 若い頃からピアノ・ソナタに手を染めたモーツァルトは、フォルテピアノに限りないニュアンスを求めたが、彼はハイドンのようにフォルテピアノのダイナミック・レンジを拡大しようとはしなかった。偉大な実験家であったハイドンは、幾つかの作品に於いて、弱音のニュアンスに極端に傾斜し、ダイナミック・レンジを著しく弱音方向に拡大した。その結果、フォルテは極めて刺激的なものとなり、フォルテピアノのダイナミック・レンジは、モダン・ピアノのそれと比べても遜色のないものとなったのである。しかし、彼の鍵盤用ソナタの大部分は、チェンバロでもピアノでも演奏可能である。彼もまた、フォルテピアノの表現力の核心に迫るのに多くの時間を費やしたのであろう。
 私も、ようやく最近になって、この《一歩の距離》の《近さ》と《遠さ》が共に実感出来るようになって来た。フォルテピアノでベートーヴェンを弾いていて、私のベートーヴェンの音楽に対するイメージは一変してしまった。彼の音楽に於ける、フォルテ、フォルティッシモ、或いはクレッシェンド等のドラマティックな効果は絶大である。フォルテピアノの敏感さを利用した種々のアクセントもまた強いインパクトを与える。しかし、彼のソナタでは、全体の八割乃至九割の部分(!)にピアノ(弱音)が指定されているのである。そこでは、目を瞠るばかりの多彩でデリケートなニュアンスに富んだ世界が繰り広げられるのだ。
 今までの自分の音楽生活を振り返ってみると、私は、大きなサークルを一通り巡って出発点へ戻って来たような感じがする。古典派のピアノ音楽にこんなにわくわくさせられるのは、子供の時以来のことだ。最近では、チェンバロの方からフォルテピアノを見るだけでなく、フォルテピアノの方からチェンバロを眺めることも出来るようになって来たように思う。だから、チェンバロもまた面白い。これからしばらくの間は、今の状態を楽しみながら仕事を続けたいと思っている。  1990年秋

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