Cembalo, Clavicordo & Fortepiano
 J.S.バッハゴールドベルグ変奏曲/渡邊順生
 批評



[推薦]

つい先ごろALMから1996年録音の《半音階的幻想曲とフーガ》などを集めたバッハ・アルバムをリリースしたばかりの渡邊順生のセシル・レーベルのバッハは《ゴルトベルク変奏曲》。ただ、こちらの録音データは単純ミスだとは思うが、欧文で「2月4〜6日」としか記されていない。冒頭の〈アリア〉を聴きだしてまず、エ! と思ったのはそのテンポの遅さだ。いや、正確にはゆったりと感じさせるテンポである。反復を含んで4分38秒という所要時間はたしかに物理的にも普通より長いが、のびやかに、そして十全に「書かれたものを歌いきる」という渡邊の解釈と演奏能力に感服する。さきの《半音階的》の楽器はミヒャエル・ミートケ(1715ごろ)モデルの美しい音だったが、今何の楽器はニコラ・ルフェーヴル(1755)モデルのマルティン・スコヴロネク(1990)。これもまた余韻の豊かなしっとりとした響きをもっており、その性能がよく活かされている。これも《半音階的》同様、渡邊の演奏はきわめてオーソドックスなもので、むしろ今日ではそれもまた新鮮に聴こえる。絶妙なアゴーギクでこの作品の構造的な美しさと音楽性を表現していく演奏は、まさにバロックの音楽的修辞法がきわめて素直に、今日的解釈において再生されていると感じるが間違いだろうか。渡邊自身によるしっかりとした解説も添えられている。  〈武田明倫〉

[推薦]

日本人にょるチェンバロ版《ゴルトベルク変奏曲》には、武久源造(ALM)、鈴木雅明(ロマネスカ)のそれぞれすぐれた録音があるが、結論から言って、渡邊順生が発表したこの一枚も、劣るところのない秀抜な演奏である。古楽研究家かつ演奏家として、1950年生まれの彼は今や円熟にさしかかり、蓄えたものから来る自信――もちろんよい意味での――も身の内に湧いているところなのではあるまいか。《ゴルトベルク》の主題はゆったりと余裕をもって歌われると同時に、自発性に溢れているのが人の心を捉える。変奏もおおむね、テンポをいたずらに急ぐことなく、緻密であると同時に、なにかのびやかな明るさとともに表現されていく。したがって、音型を繰り返しても機械的になることはなく、おそらくバッハもそう望んだであろう人間的な息づきに満ちて響く。言いかえるなら、渡邊順生はこの大作に親しみを抱いて、しんから楽しみながら演奏しており、そのことが聴き手をも楽しませ、くつろがせる。もとより一方では十分に設計に心の配られた、造型的にも精度の高い演奏である。ちなみに演奏者自身による解題(ブックレット10ページを満たしている)を読んでみれば、理解の深さがさらによくわかろうというものだ。それにしても真の名曲というものは、解釈・表現の方法がそれこそ無数に存在し、すぐれた演奏家はつねにそれを掘り起こしては、その喜びを聴き手にも伝えてくれる。そんな当たり前のことを、いまさらのようにしみじみ思わせる、これは演奏であった。  〈濱田滋郎〉

[録音評]

広くはないが響きのいい空間で、比較的近くで聴くチェンバロの音をイメージさせる録音。ホールのステージの床鳴りまでも収めて実にリアルだが、チェンバロは鋭さも響きも強調されずこ収録されている。音場の自然な広がり方から推してシンプルな収録のようで、もしかするとワン・ポイント録音か。98年3月、碧南市、エメラルドホールでの、プロデューサー・遠藤哲司、エンジニア・永山欽也の収録。<98−95>  〈神崎〉

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