Cembalo, Clavicordo & Fortepiano


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 1950年、鎌倉市材木座の生れ。
 幼少よりピアノを始め、宅孝二らに師事。東京教育大学付属駒場中学・高校在籍中に、当時同校の教諭であったリコーダー奏者・多田逸郎から多大な影響を受ける。高校時代に《マタイ受難曲》を聴いてバッハに傾倒し、一橋大学社会学部在学中にチェンバロへの道を決意して、小林道夫の門を叩く。

 同大学卒業と同時にオランダへ渡り、アムステルダム音楽院にてグスタフ・レオンハルトに師事、1977年最高栄誉賞付ソリスト・ディプロマを得て同音楽院を卒業し、更にプリ・デクセランス*を受賞。78年1月、東京にてデビュー・リサイタルを行ない、80年秋に帰国するまでヨーロッパ各地で活躍。

 帰国後はその精力的な演奏活動によってチェンバロを中心に、古楽器演奏の啓蒙と普及に努めた。特に、20回以上に及んだ「渡邊順生チェンバロ音楽シリーズ」では、バッハの「チェンバロ協奏曲」全16曲や「音楽の捧げ物」、ラモーの「コンセール」をはじめ、チェンバロのために書かれた様々な作品を網羅した。

 帰国直後に共演したフランス・ブリュッヘン、また度々にわたる来日の折に共演したアンナー・ビルスマの二人からは多大な啓発を受けた。1991年にリリースしたCD『バッハ/イタリア協奏曲』(創美企画)は好評をもって迎えられ、94年秋の『バッハ/パルティータ(全曲2枚組)』(コジマ録音)でも絶賛を浴びた。『バッハ/半音階的幻想曲とフーガ』が98年9月に、『バッハ/ゴルトベルク変奏曲』も99年1月にリリースされ、共に「レコード芸術」などで好評を得た。

 1984年にはヴィオラ・ダ・ガンバ奏者の宇田川貞夫らと、我が国初めてのオリジナル楽器によるオーケストラ「ザ・バロックバンド」を結成、ヘンデル《メサイア》、バッハ《ヨハネ受難曲》をはじめ、数々の声楽大曲を指揮したが、特に92年春には、大阪のいずみホールと静岡における『モンテヴェルディ・フェスティヴァル』を立案企画し、オペラの原点ともいうべき《オルフェオ》と宗教音楽の傑作《聖母マリアの夕べの祈り》を指揮して各方面の絶賛を博した。

 1989年にフォルテピアノを携えて全国縦断ツアーを行ない、90年にフォルテピアノのリサイタルCD(ソニー)を、95年1月には『即興するモーツァルト』(コジマ録音)をリリース。独奏や室内楽のほか、モーツァルトのピアノ協奏曲を演奏し、またジョン・エルウィスやマックス・ファン・エグモントらヨーロッパの名歌手たちと共演してリート伴奏にも独自の境地を開いた。昨年暮れ、エルウィスとの共演による『シューベルト/美しき水車小屋の娘』をコジマ録音よりリリース。アメリカ、イタリア、フランスなどに招かれて国際的にも活躍。最近では、クラヴィコードの紹介と演奏にも力を注いでいる。

 1996年12月、文化庁派遣芸術家在外研修員として渡欧、97年3月まで、ヨーロッパ各地で歴史的鍵盤楽器の研究に従事。97年秋に再び渡欧して、イタリアのマニャーノにおける第3回国際クラヴィコード・シンポジウムに参加し、イタリア各地で再び歴史的鍵盤楽器の調査に当った。

 演奏活動の傍ら、論文の執筆や楽譜の校訂も手がけ、全音楽譜出版社より、『モーツァルト/幻想曲とソナタ ハ短調KV475+457』(原典版)を校訂・出版。2000年秋には、東京書籍より大部の著書『チェンバロ・フォルテピアノ』を出版した。

 東京音楽大学、上野学園大学、桐朋学園大学及び国立音楽大学などの講師として、後進の指導に当るほか、毎年夏には、都留音楽祭(1996年まで)、札幌音楽祭(1997年より)でチェンバロ・フォルテピアノのクラスを担当。日本古楽コンクールでは、1989年より95年まで4期にわたり、チェンバロ部門の審査員を務めた。日本クラヴィコード協会会員。

*プリ・デクセランス=オランダの音楽教育において、演奏家コースの学生に与えられる最高の賞。ソリスト・ディプロマ・コースの最終試験における成績優秀者の中で審査会議の推薦を受けた者が、3年間に期間を限って、本人の希望する教育施設(世界中どこでもよい)で研鑽を積み、出身地の音楽院に戻って試験を受ける、というシステムで、ドイツにおける「コンツェルト・ディプロマ」に相当する。チェンバロにおいては、オランダ全土で、トン・コープマン、ケティル・ハウクサント、渡邊順生の3人がこれを受賞した。他の楽器を専攻した日本人では、リコーダーの花岡和生、フルートの有田正広が、それぞれ、ハーグ王立音楽院の最終試験の結果、プリ・デクセランス・コースへの推薦を受けた。その後、オランダにおける教育課程の改革・再編の波の中で廃止された。

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