Johann Sebastian Bach:
 Suonate a Cembalo certato e Violino solo

 J・S・バッハ:
 ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ
 渡邊慶子、バロック・ヴァイオリン
 Keiko Watanabe, Violino
 渡邊順生、チェンバロ
 Yoshio Watanabe, Cembalo

J・S・バッハ:ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ集

[解説]

■新しい手法による画期的なソナタ集
 バッハ(Bachとはドイツ語で「小川」の意)は、小川ではなく大海である。彼からは何ものも発しない。一切がひたすら彼を目指して進んできた。だから、彼は一つの終局なのだ・・・・・ これは、今日のバッハ観に強い影響を与え、我々のバッハ理解の一部を形成している、有名なシュヴァイツァーの言葉である。しかし、バッハは類いまれなる偉大な実験家でもあったのだ。6曲から成る《ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ集BWV1014-19》において、バッハは、従来、合奏においては専ら通奏低音楽器として伴奏的役割を与えられてきたチェンバロに、独奏楽器としてヴァイオリンと対等な重要性を与え、それまでに例のない、旋律楽器と鍵盤楽器のための二重奏ソナタのスタイルを確立したのであった。
 彼の次男カール・フィリップ・エマヌエル・バッハは、このスタイルを「旋律楽器とチェンバロのためのトリオ」という概念で分類している。確かに、バッハのこの曲集における多くの楽章が、2つの旋律声部のうちの片方をヴァイオリンが担当し、もう一方をチェンバロの右手が担当するという、伝統的なトリオ・ソナタ――2つの旋律楽器と通奏低音のためのトリオ――の書法に従って書かれているが、そのような定式で割り切ることの出来ない楽章も少なくない(第1番の第1楽章、第3番の第1楽章、第4番の第1・3楽章、第5番の第1・3楽章、第6番の第3楽章)――即ち、6曲のソナタを形成する25の楽章のうちの7つまでもが、「旋律楽器とチェンバロのためのトリオ」とは呼ぶことの出来ない書法に拠っているのである。従って、この曲集の特徴を言い表すなら、「旋律楽器とチェンバロのための、トリオの書法を大幅に採り入れた二重奏ソナタ」ということになろう。これは、バッハと同時代のフランスや、ドイツでも古典派の初期に多数書かれた「ヴァイオリンの助奏の付いた鍵盤楽器のソナタ」とも、一線を画するものである。

■成立年代とこの曲集の特質
 これら6曲のソナタは、主に、バッハがケーテンの宮廷楽長をしていた1717年から23年までの時期――おそらくは、その後半期に作曲されたと考えられる。しかし、構想はそれ以前のヴァイマール期にまで遡る可能性もあり、また、ある部分はバッハがライプツィヒに移った後の1725年頃に改訂された(特に第6番の幾つかの楽章)。
 バッハは、1720年前後に、チェンバロを初めて協奏曲の独奏楽器に起用した《ブランデンブルク協奏曲第5番ニ長調BWV1050》を作曲した。この作品は、フルート、ヴァイオリン、チェンバロを独奏楽器とした三重協奏曲であるが、作曲上の力点は、当然、チェンバロ・パートの扱い方に置かれている。《ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ》の何曲かは、この《ブランデンブルク協奏曲第5番》と並行して書かれた可能性が高い。チェンバロ・パートの扱い方には、大幅な影響関係が認められるのである。ただし、《ソナタ》の方では、作曲者の関心がどちらか一方の楽器に大きく偏ることはなかったと思われる。
 これまでの多くの研究者や演奏家の関心は、バッハのヴァイオリン作品の中では、とりわけ6曲の《無伴奏ソナタとパルティータ》に集中しがちで、それ以外のヴァイオリン曲を不当に軽視してきたきらいがある。そのため、この曲集の特徴としては、室内楽におけるチェンバロの扱い方の新しさが第一義的に強調されすぎる傾向があった。しかし、この曲集はバッハの一連のヴァイオリン作品のほぼ最後の方に位置しており、もしかすると部分的にはヴァイマール期の1715年以前に作曲された無伴奏曲集、ヴァイマール期からケーテン期にかけて作曲されたと思われる幾つかのヴァイオリン協奏曲(そのうちの相当数が失われた)という成果を踏まえ、ヴァイオリンとの取り組みの総決算、という作曲意図があった可能性も、十分視野に入れるべきである。このソナタの後に作曲されたヴァイオリン作品は、《ヴァイオリン協奏曲イ短調BWV1041》、《2つのヴァイオリンのための協奏曲ニ短調BWV1043》、そして《音楽の捧げ物BWV1079》に収められた「フルート、ヴァイオリン、通奏低音のためのトリオ(王の主題によるソナタ)」の3曲に過ぎない。この《ソナタ集》は、少なくともその感情表現においては、《無伴奏曲集》よりもずっと幅広い領域に及んでおり、バッハが、高度な技術と緊張感を要求する集中力の極めて高い《無伴奏曲集》におけるよりも、より見通しのきいた高次元の地平に立っていることは特筆されてよいであろう。
 もう一言付け加えておくと、この《ソナタ集》は、「チェンバロの名手による作品」と捉えられ易い。少なくとも、この曲集を「ヴァイオリニストによる作品集」と考える人がほとんどいないことは確かである。それは、今日では、演奏家としてのバッハは、専らオルガンとチェンバロの名手であったことのみが機会あるごとに強調されているからである。しかし、これは「大作曲家は優れた鍵盤奏者である」という19世紀的作曲家観から来る悪しき先入観の顕れでしかない。バッハは優秀な弦楽器奏者でもあったのである。彼は、既に1712年にヴァイマール宮廷の楽師長(今日で言うコンサートマスター)となり、様々な弦楽器作品、オーケストラ作品の創作と取り組み、ケーテンの宮廷楽長になってからも、主にヴァイオリンあるいはヴィオラを弾きながら、自らの楽団を統率していた。このことは、カール・フィリップ・エマヌエル・バッハの証言から明らかである。従って、《ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ》を人前で演奏するとき、彼が弾いたのはヴァイオリン・パートであったかも知れないのである。
 バッハが、この曲集において、これら2つの楽器の組み合わせによる様々な表現の可能性をとことんまで追求したことは言うまでもないが、もう一つ、彼はここで、コレッリ以来の「教会ソナタ」――基本的には、緩急緩急の4楽章形式による――という楽曲形式との総決算を試みているように思われる。彼は6曲のソナタ中5曲をこの4楽章構成で書いた。彼は、1710年代を通じてヴィヴァルディを代表とするイタリアの協奏曲形式と取り組み、種々の協奏曲を作曲すると同時に、クラヴィーア独奏曲の領域にもこの形式を持ち込み、チェンバロにオーケストラ的な表現力を与えることでこの楽器の表現領域を一気に拡大した。後に書いたロ短調の《フルートとチェンバロのためのソナタ》BWV1030やト短調の《ヴィオラ・ダ・ガンバとチェンバロのソナタ》BWV1029などでは、二重奏ソナタという楽器編成の制約の中で見事な協奏曲楽章を書いたのだが、《ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ集》においては、協奏曲の要素を随所に盛り込みながらも、「『ソナタ』という名の協奏曲」を書くことを故意に避けているように見える。個々の楽章では内容に変化を持たせることに腐心しながらも、純然たる協奏曲楽章を書くことを避けることで、曲集全体における形式的な統一性を保っているのである。そのあたりが、また、この曲集の魅力の源泉にもなっているように思われる。

■このアルバムにおける選曲
 このような特徴をもった曲集であるから、6つのソナタ全てを録音したいのはやまやまであったが、我々に与えられたCDという今日のメディアにとってみると、この曲集はいかにも「帯に短し襷に長し」なのである。1枚のCDに6曲のソナタは収まりきらないし、2枚組にすると、1枚ずつの収録時間は今日のCDの常識からすればごく短いものになってしまうにも拘わらず、値段としては高くつく。そんなことを考えて、とりあえず4曲のソナタで1つのアルバムを作ることにした。6曲の中では、内容的にも直截単純で、ヴァイマール期に成立した可能性のある第2番と第6番を除外し、形式・内容の両面で最も変化に富み相互に対照的な4曲を選んだのである。

[曲目解説]

■《ソナタ第1番ロ短調》BWV1014
 バッハは器楽のために数多くの曲集を残したが、このように大胆で型破りな曲を開始曲に用いたのはこの《ソナタ集》だけであろう。4小節にわたるチェンバロの序奏で右手の声部による3度の和音の連続が強く印象づけられると、聴き手は、当然ヴァイオリンにも、重音双方による開始を期待するのだが、案に反して、5小節目で登場したヴァイオリンは、1小節半以上に及ぶ長い音符を披露するのである。そして、その長い音符の後に細かい装飾的な動きによる旋律が続き、2つ目の長い音符が、これまた1小節半の長きにわたって奏される。この、ヴァイオリンによる最初のフレーズは、延々と7小節間の長きにわたるもので、その中には、それぞれ1小節半かそれ以上にも及ぶ長い音符が3つも含まれているのである。このヴァイオリンの開始部は、声楽曲を強くイメージさせるものだが、第16小節になると、チェンバロによる冒頭のモティーフをヴァイオリンが、重音奏法で、しかも6度の和音の連続で奏する。結局のところ、この楽章は5つの声部から成っており、「旋律楽器とチェンバロのトリオ」という概念は、第1曲目から崩れ去る。しかも、この楽章は、前半は明らかにオーケストラ伴奏付の独唱アリア(ヴァイオリンが担当するのは声楽声部)でありながら、後半は堂々たる器楽二重奏曲であり、しかも、全体の統一感には寸分の揺るぎもなく、巨匠の風格さえ感じさせるのである。
 3声部書法による第2楽章のフーガは、3部分構成によっている。中間部は両端部の1.5倍の長さがあり、しかもここでは主題が動機分解されて展開され、転調を繰り返す。やがて確立される「ソナタ形式」の展開部を強く予告するような内容となっている。
 第3楽章はうって変わった親密な音楽である。柔らかいが歓びにあふれるニ長調の響きの中で、ヴァイオリンとチェンバロの右手が、平行3度あるいは平行6度で絡み合う。いかにも幸福感に溢れる音楽と思いきや、ほの暗い哀しみを思わせる溜息にも似た休符が何度も現れる。バロック期における個々の楽曲あるいは楽章が表現するのはほぼ1種類の感情であることがほとんどだが、このように親しみやすく、しかも規模の小さな楽章の中で、表現内容に大きな振幅が与えられているところにこの楽章の斬新さがある。
 第4楽章もまたフーガの書法に拠っているが、こちらの方は、前半・後半それぞれが反復する二部構成をとっている。第2楽章のフーガに比して、終楽章では、主題に対する「対旋律」がより明確に自己を主張している。「対旋律」とは、主題に対して、性格の異なる同一の旋律が常に対置される――すなわち、ある声部が主題を奏する際に、この旋律が必ず別の声部に現れるような場合に、これを「対旋律」というのである。むしろ「対主題」と呼ぶ方が、用語としてはわかりやすい。この楽章の場合は、冒頭の、8分音符の同音反復によるフーガ主題(ヴァイオリンによって奏される)に対して、16分音符の分散和音による旋律(チェンバロの右手によって奏される)がこれである。フーガ主題がいかにも厳しさを感じさせる力強いものであるのに対し、対旋律の方は軽快で疾走するような印象を与えている。
■《ソナタ第3番ホ長調》BWV1016
 このソナタは、全6曲中で最も華麗な作品という印象がある。内容的には2つの緩徐楽章に比重があるが、2つのアレグロ楽章もそれぞれ性格を異にし、終楽章はこの曲集中でも最も華やかさが目立つ。
 第1楽章の冒頭では、荘厳な神殿か何かがそびえ立っているのを見る思いがする。バッハのホ長調作品には、気高くてしかもスケールの大きな曲が多いが、このソナタはそうした作品中でも筆頭に挙げられるべきものだ。その点では、同じ調で書かれた《無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第3番BWV1006》の比ではない。この楽章でもチェンバロは伴奏に徹しているが、ハ短調ソナタの緩徐楽章のような、分散和音による柔らかな伴奏ではない。チェンバロ声部が一貫して5声部で書かれているのは、オーケストラがイメージされているからなのであろう。従って、この楽章は、独奏ヴァイオリンが弦楽オーケストラをバックに奏でるアリアなのである。私は、常々、この楽章のチェンバロ・パートを一度弦楽オーケストラで演奏してみたいと思っているのだが、今のところ、まだそれを実現できる機会に恵まれていない。
 第2楽章のフーガは、緊張感の高い第1楽章に比して、ずっと緩んだ印象を与える。バッハのフーガは、通常、もっと生真面目であったり構築的であったりするのだが、そうした「硬派の音楽」という印象はこの楽章とは無縁である。こんなにエレガントで、お洒落な音楽は、彼の作曲した厖大な数のフーガの中でも珍しいと言えよう。
 第3楽章は、第1楽章よりも更に長大な緩徐楽章である。4小節を単位としたオスティナート・バスの上で、チェンバロの右手が8分音符で和音を奏し、独奏ヴァイオリンの奏する美しい旋律を迎え入れる。この和音と旋律の分担は、やがて入れ替わり、チェンバロの右手が旋律を奏する時にはヴァイオリンは重音による和音で伴奏する。途中、ヴァイオリンとチェンバロの右手が共に旋律を奏しながら絡み合う部分も印象的だ。バッハの作品中でも最も高貴な音楽の一つ。
 第4楽章は、3つの声部が16分音符による速い動きを競い合う華麗なフィナーレ。中間部では、上2声部に3連音符の動きが現れるが、冒頭の16分音符のモティーフがそれを再三中断する。これは、独奏楽器による旋律に対してオーケストラのトゥッティが切り込みをかけるという、協奏曲の手法である。
■《ソナタ第4番ハ短調》BWV1017
 このソナタは、全6曲中で最も充実した作品という印象がある。第3番とはあらゆる点で好対照をなしており、内容的には2つの速い楽章に比重があるが、2つの緩徐楽章は印象的なうえ、高貴で且つ親しみ深さも感じさせる。しかも4つの楽章の主旋律は、相互に緊密な関係にある。それらは、1つの主題の変奏であると言っても過言ではない。
 第1楽章は、曲集全体の中でも、最もヴァイオリンとチェンバロという2つの楽器の特質が端的に示されている。すなわち、旋律を豊かに歌い上げるヴァイオリンを、リュート的な分散和音を奏でるチェンバロが伴奏するのである。ヴァイオリンのパートは、《マタイ受難曲》の中でも最も有名なアルトのアリア「憐れみたまえ」によく似た、高貴な悲しみをたたえた旋律を、シチリアーノのリズムで、まるで波間にたゆたうように奏する。
 6曲のソナタのうち第6番を除く5曲において、第2楽章はフーガの形式によっているが、このソナタの第2楽章は、全曲中でも最も規模の大きく入念なフーガである。主題は幾つかの跳躍を含んでいるが、それらは、3度、5度、8度、10度というふうに、次第に跳躍の幅が大きくなり、この楽章の力強さとスケールの大きさという性格を集約的に示している。しかも、途中からは繊細な印象を与える装飾的な音型と半音階進行が登場して、表現の領域を一気に拡大する。そうした点で、この楽章にはバッハのフーガのエッセンスが凝縮されていると言うことが出来よう。
 第3楽章は平行長調である変ホ長調に転ずる。ヴァイオリンは再び大らかな旋律を、チェンバロは分散和音を奏でるが、チェンバロの分散和音には旋律的な線が隠されていて単純な伴奏音型による第1楽章とは自ずと印象を異にする。
 力強さと軽快さが交替する終楽章は、このソナタ中で唯一、前半・後半がそれぞれ反復する二部構成をとっている。後半では新しい主題が導入され、それが変拍子的な対旋律と組み合わされるなど、バッハは、次々と新しい手法を繰り出してみせる。
■《ソナタ第5番ヘ短調》BWV1018
 このソナタは、全6曲中でも最も異彩を放っている。先ず、調性であるが、ヘ短調ほど弦楽器奏者にとって嫌な調はない。何故ならば、ヴァイオリンの4本の弦のうち、D(ニ音)、A(イ音)、E(ホ音)という3つの音は、ヘ短調の音階には存在しない――即ち、これらの弦が、開放弦としてはほとんど使えないのである。従って、ヘ短調の旋律を弾くと、ヴァイオリンという楽器は楽器内部の共鳴がほとんど得られないため、極めて貧弱な響きしか出ない上、音程をとるのが極端に難しい。だから、ヘ短調のヴァイオリン・ソナタを書くなどというのは、全く常軌を逸した所業なのである。弦楽器を用いた重要な作品でこの調で書かれたのは、このソナタを除けば、ブラームスのピアノ五重奏曲が1曲あるくらいである。だが、それにも拘わらず――「だからこそ」と言うべきなのかも知れないが――このソナタは素晴らしい作品である。私は、個人的には、全6曲中でこのソナタが一番好きである。
 第1楽章はリトルネッロ形式によっている。「リトルネッロ」とは「回帰するもの」の意で、冒頭の旋律が転調を繰り返しながら何度も戻ってくる楽曲形式をリトルネッロ形式と呼ぶのである。バロックの協奏曲と声楽アリアに用いられた形式であるが、同じ名称で呼んでも、協奏曲のリトルネッロ形式と声楽アリアのリトルネッロ形式ではだいぶ趣を異にする。この楽章で用いられているのは、声楽アリアのリトルネッロ形式である。バッハが、声楽リトルネッロ形式を徹底して用いた器楽作品というのは、私の知る限り、この楽章が唯一の例なのである。しかも、この楽章が一風変わっているのは、リトルネッロの冒頭の音型が、一貫してほとんど休むことなく何処かの声部に現われ続けているということだ。チェンバロ・パートは、一貫して3声部で書かれているが、これは、声楽アリアを伴奏する2つの旋律楽器と通奏低音を模してのことである。そのチェンバロに対して、ヴァイオリンが担当するのは声楽ソロの声部で、いかにも単純な旋律が深々と歌われる。その声楽的スタイル、頻出する3度あるいは6度の和音の連続など、第1番の第1楽章と幾つかの目立った共通点をもっているが、楽章全体の曲想は驚くほど異なっている。
 第2楽章のフーガに反復二部形式を用いたのは、このソナタだけである。フーガ主題は、バッハには珍しく単純直截である。このように単刀直入なフーガ主題というのは、むしろヘンデルの持ち味である。バッハの主題は、通常、もっと入り組んでいる。だからこのフーガは、バッハには珍しいほど、男性的で骨太な音楽という印象がある。
 第3楽章は、謎めいた雰囲気をもったデュエットである。但し、このデュエットはヴァイオリンが独りで奏する。チェンバロは、両手のパートとも、伴奏に徹している――左手は分散和音で、右手は音階進行と分散和音の混ざった音型で、共に32分音符で書かれており、それらが交互に現れる。ところが、この楽章が始まると、ヴァイオリンの重音による和音が伴奏音型に聞こえ、チェンバロの右手の音階進行がやや旋律的に聞こえるために、こちらの方がむしろメロディーではないかという錯覚を惹き起こす。曲が進むうちに、初めメロディーと聞こえたチェンバロの右手の動きが重要なものではないことが次第に明らかになるのだが、このような一種の「はぐらかし」もまた、この楽章の独特な雰囲気を作るのに寄与している。ヴァイオリンが独りでデュエットを奏する、と言ったが、重音の和音の連続の中に隠されている旋律はごく控えめに暗示されるに過ぎないが、特別の雰囲気をもっている。
 第4楽章は再びフーガの手法に拠っているが、主題は、第2楽章のそれとは対照的にシンコペーションのリズムによる半音階進行を主体とするものである。この主題に対置されているのが長い音階進行で、随所に現れるが、これらの音階は、委細構わずひたすら最後の音へ向かって中断することなく突き進んで行く。それが、この楽章に極めて強靱なイメージを与えているのである。その点で、ベートーヴェンの最後のチェロ・ソナタ(第5番作品102の2)の終楽章のフーガを想い起こさせる。
 《ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ》は、一気に構想されて通作されたものではない。じっくりと考え抜かれ、書き溜められたものが、まとめられて1つの曲集となったのである。その点では、6曲の《ブランデンブルク協奏曲》とよく似ている。ここには、形式的にも内容的にも、ほとんど計り知れぬほどの奥行きと広がりをある。その点でも、この《ソナタ集》は《ブランデンブルク協奏曲》に勝るとも劣らない、バロックにおける窮極のソナタ集ともいうべき傑作群なのである。

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