チェンバロの歴史と名器[第2集]/渡邊順生
 批評

 

「レコード芸術」2003年8月号■新譜月評(「音楽史」部門)

推薦

 イタリアとフランダース様式のチェンバロを扱った第1集のあとを受けて、今回はドイツ様式とフランス様式のチェンバロを取り上げる。使用楽器は、まずドイツ様式を代表してスコヴロネック製2段鍵盤のチェンバロ(1999)、フランスの方は17世紀フランス様式を摸したアンセルム製1段鍵盤のチェンバロ(1998)18世紀フランス様式のスコヴロネック製2段鍵盤のチェンバロ(1990)の都合3台である。

 たいへん豊富な内容で、タイトルこみ27ページに及ぶ解説書も一見に壊する。普通の意味での曲目解説に先立って「この企画ができるまで」「このアルバムにおける選曲のねらい」「楽器について」といった項日が並んで、その中には名器を訪ねて遍歴の旅を重ねた筆者が“度肝をぬかれた”体験談なども織り込まれている。それに日を通して聴きはじめると、ちょうどレクチュア・コンサートのその場にいるような気分になる。

 ドイツ編は、ほぽ同じ年(1616)に生まれ、たがいに友人だつた北ドイツのヴェックマンと国際派のフローベルガーを組み合わせたプログラムで幕をあけ、続いて峻厳で幻想的な北ドイツのブクステフーデといかにも南ドイツ的に甘く満ち足りたケルルを対比させる。対比の軸は、次にブクステフーデとベームの同じ曲名の《プレルーディウム》ト短調に移されるが、ベームのイタリア様式とフランス様式を巧みに取り入れた《組曲》変ホ長調になると、もうバッハ前夜だ。最後は、若々しい情熱をほとばしらせるバッハの《トッカータ》ニ長瀬BWV912である。

 この1枚目を聴いていて、私は2つのことに耳を澄ませた。ひとつは、17世紀ジャーマン・タイプの楽器のひびきだ。後期バロックのツェルの楽器のように強靱で朗々とした響きではなく、ひとつひとつの音を刻みみつけるような素朴でデリケートな響き。それは渡邊がライナー・ノーツで形容するように“辛口だが、美しい”。もうひとつは、矛盾するよぅだが、そうした楽器の響きを意識の外に押しやってしまう渡邊の演奏そのものへの傾聴と集中である。楽器の音色は、いつのまにか透過色になって、音楽そのものが全面に迫る。チェロで聴いていることは事実としても、《白鳥》を聴いているのと同じである。ヴェックマンとフローベルガーを過ぎて、ブクステフーデの《プレルーディウム》にかかるあたりから、わたしはすっかり渡邊の演奏の虜になってしまった。曲調のみごとな掴み方、まるでクラヴィコードで弾いているようなタッチのコントロールとアーティキュレーション。そこから生まれる音楽が、実に素晴らしい。その先は、11曲が、不謹慎だが、ダービーを見る思いだった。名馬というべきか、名騎手というべきか。最後の勝ち馬がバッハで、思わずブラヴォーと叫ぶ。レースが伯仲するにつれて、チェンバロの替きは、次第次第に豊かになり、華鹿になる。ひとことで言って、演奏によって楽器が活き、楽器によって演奏が活きてくる境地を実感させてもらった。得がたい経験である。

 フランス編は、少し趣向が違う。ここで対立軸になるのは、17世紀フレンチ・タイプのどこかイタリアンに通じる明快堅牢な響きと芳醇な美酒のような18世紀フレンチ・タイプのコントラストである。前者でルイ・クープランを、後者でラモーとデュフリを聞く。前者は1段鍵盤、後者は2段鍵盤で、むろん2段鍵盤の方がストップ操作を含めて演奏の可能性も拡大され、多彩な油彩画をしのばせるが、それを聞き終わった上で、もう一度17世紀のタイプに戻ると、そのすっきりとした味わいがまことに捨てがたい。2枚目の方も、作品への共感と哀惜に満ちた演奏だ。

 前回の第1集とあわせて、わたしたちは素敵なチェンバロの旅をすることができた。渡邊の企画に敬意を表したい。(服部幸三)

 

[録書評] 前集と何様、この興味深い企由のCDを聴くと、DATの登場直後、渡邊順生を中心に、小林道夫、副島恭子という演奏家たちに10台に及ぶチェンバロ族を演奏してもらってDATで録音した催しを思い出す。そんな個人的感概は別にして、第2集も第1集と同巧のクリア収録になっていて、3台の楽器の音や響きのニュアンスの違いが見事に捉えられている。小島幸雄による19935月と20029月、牧丘町民文化ホールなどでの収録。<93>(神崎一雄)

 

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