Cembalo, Clavicordo & Fortepiano
 チェンバロの歴史と名器[第1集]/渡邊順生
 批評



「音楽現代」2002年8月号■新譜月評

推薦●一昨年『チェンバロ・フォルテピアノ』と題する大部の書を著した渡邊順生。目下その本の内容に沿ったレクチャーコンサートが近江楽堂で行なわれているが、同ディスクはそれに関連して企画されたもの。チェンバロの名器四台(十六世紀伊様式のアルピコルドを始めとして、十七世紀伊様式、十八世紀伊=ポルトガル様式の一段鍵盤、十七世紀フランドル様式J・ルッカースモデルのチェンバロ。いずれも複製)を駆使し、各々に相応しい作品を演奏している。今回はその第一集〜イタリアとフランダース編。なんといっても演奏がいい。スカルラッティのソナタやフレスコバルディ等のトッカータは自由奔放かつ情に満ち、切れ味のよいシャープな表現が光っている。2枚目のフローベルガーやシャンボニエールやバッハ等では、ルッカースの柔らかな燻し銀の音色とともに多声音楽の綾をじっくりと描出し、舞曲楽章は内奥から滲み出るダンスの愉悦に溢れて音楽から典雅な情趣を引き出している。楽器や曲に対する深い造詣と経験をもつ渡邊氏ならではの、豊かな趣味を感じさせる。前述の本とともに聴くもよし、純粋に耳を楽しませるもよし。25ページに及ぶブックレットも充実。古楽ファン必携のアルバムだ。(那須田務)

「レコード芸術」2002年9月号■新譜月評(「音楽史」部門)■特選盤

推薦●渡邊順生さんが「チェンバロの歴史と名器」という野心作を公にされた。チェンバロ音楽の歴史的変遷を縦軸にすえ、一方この楽器の地域的特徴を横軸において、まずは十六世紀エリザベス朝イギリスのウィリアム・バード、ジョン・ダウランドたちから始め、十八世紀の大バッハやドメニコ・スカルラッティらにいたる十五人ほどの音楽家の作品を網離している。『チェンバロ、フォルテピアノ』というすぐれた著書(東京書籍)があるように、渡邊さんは音楽の実践にも理論にもつよい。その好著と連動してこの2枚組のCDには、渡邊さんの意欲や主張、楽器によせる愛着や知識などがたっぷり盛りこまれている。添えられた解説書も充実していて、自分の中に“音”をしっかり持っている人だけが書きえる内容がいっぱい詰まっており、そのガイドのおかげでわたくしたちはほぼ二世紀半にわたるこの楽器の魅力あふれる花園を心ゆくまで散策することができるのである。
 もちろん演奏そのものもすぐれており、情と知とが理想的に両立した音楽を聴くことができる。師匠レオンハルトの薫陶もあるのであろう、楽曲の構成をしっかり把握し、表現力もたしか。海面に技巧的な装飾を波立たせつつ、海の底の深みから湧きあがる太くて強く、広がりのあるうねりが何回も何回もおし寄せてくるのである。「第1集」と記されているところを見ると、今後とも継続されるのであろう。渡邊順生さんならではの野心的なシリーズの成功を心から祈りたい。ただし、4台の使用楽器のすべてが復元品によっているにもかかわらず“チェンバロの名器”と、黄門様の“御印籠” のように大上段に振りかざして名乗るのはいかがなものであろうか。もちろん復元楽器にもすぐれた製品がすくなくなく、また渡邊さんのこの楽器に対するなみなみならぬ思い入れは十分理解できる。「(ヴァイオリンなどとは異なり)チェンバロにおいては、現代に製作されたものでも、そのすばらしさに目を瞠るような楽器にときおり出会う・・・・・」という渡邊さんのお言葉のように、このCDで聴く復元楽器たちが好ましくほれぼれとする響きをつたえてくれるのも確かである。しかしチェンバロの名器とは、やはりリュッケルスらのオリジナル楽器によってこそはじめて誇らしげに名乗ることができる栄光あるタイトルではないだろうか。渡邊さんならそれも可能であろう。栄光にみちた続編を期して待ちたい。(皆川達夫)

推薦●たいへん興味深い内容であるだけでなく、演奏水準の高さも見事である。演奏者自身がライナー・ノーツでこう語る。「チェンバロを始めて間もない頃から、歴史的チェンバロに触れる機会が多く自分でもそうした機会を求めて、これまでに数百台にのぼるオリジナルのチェンバロを見たり弾いたりしてきた」。そうした体験をベースにみずから書いた『チェンバロとフォルテピアノ』という書物や自身で開いたレクチャー・コンサートの延長線上にこのCDがある。全体計画が示されていないので、今後の予定は不明だが、今回の2枚組のCDの1枚目は、イタリア様式に当てられ、十六世紀イタリア様式のアルピコルド(多角形ヴァージナル、柴田雄康作1992年)・十七世紀イタリア様式の一段鍵盤チェンバロ(柴田雄康作1990年)・十八世紀イタリア=ポルトガル様式の一段鍵盤チェンバロ(スコヴロネック作1980年)の3台が披露される。2枚目はフランダース様式。こちらは有名なヨハネス・リュッカース(1624)の名器をモデルにしたデュコルネ作の二段鍵盤チェンバロ(1999)である。
 こうしたチェンバロの響きと演奏の可能性を開示するための選曲もその説明も、すべて渡邊自身によるものだ。たしかに氏が言うように、音色や音楽についての説明は、音ぬきでは隔靴掻痒の感が否めない。実際に聴いてみて、イタリア系統のチェンバロの晴朗な、やや乾いた青空に抜けるかのような響きとフランダースの系統のざわめきながら芳醇に広がる美酒のような響きは、これが同じチェンバロという名のもとに、ひとつにまとめきれるかと思うほどだ。個々の曲について述べる暇はないが、まずイギリスのバードの作品から出発する渡邊の演奏は、音楽の核心をしっかり捉え、一歩一歩着実に踏みしめて行くかのようなスタイルに、レオンハルトの教えをしっかり身につけた人材であることを窺わせる。イタリア編では、しばらくするとフレスコバルディという峰がくる。とりわけ、《100のパルティータ》の形態的な把握と演奏
がみごとである。バッハの三楽章トッカータでは、緩急の楽章とも一点のたわみもない緊張感が漲っている。2枚目に移ると、大きな山はフローベルガーである。師匠のレオンハルトが、フローベルガーを弾かせると並ぶもののない名手だが、渡邊の演奏も、十七世紀のリストとあだ名される名手の感じやすい内省的な魂と独特の造形感覚に肉薄する。組曲20番冒頭の<瞑想−来たるべきわが死に寄す>は、思いの深さと音楽的な美しさで逸品だ。(服部幸三)

[録音評]

イタリア様式3台とフランダース様式1台による演奏を、それぞれの特長を捉えるために演奏に近く迫って収録しているようで、音色や響きの違い、アクションの違いまでリアルに捉えていて大いに興味をそそる。かつてエラートに似た内容のLPがあった記憶があるが、もっとスケールのある企画意図を感じさせる2枚組である。2001年9月、秩父ミューズパーク音楽堂での小島幸雄の収録。<90-93>(神崎一雄)

「音楽の友」2002年9月号■ディスク・ニュース&トピックス


●まったく偶々の巡り合わせなのだが、快著『チェンバロ・フォルテピアノ』(東京書籍)の書評と浜離宮ホールでの演奏会レポート、そして今回リリースされたディスクのレヴューを担当する役目が回ってきたことで、改めてこの渡邊順生という演奏家の総合的かつ整理の行き届いた視点を認識させられた次第。2枚組の当盤は、彼が前掲書の内容に沿って東京オペラシティ内の近江楽堂で行ってきたレクチャー・コンサートを、ソフトの形でも味わえるように企画された録音ということになる。それゆえ本文部分だけで20ページにわたる詳細なライナーノーツはレクチャーの役割を果たし、読みごたえも充分・・・・・と書くと、古楽特有の小難しい内容が満載されているのかと敬遠する方もいらっしゃるかも知れないが、全くそんな構えを感じさせないのが彼の才人たるゆえんだ。もし演奏だけを聴いたとしても独立した魅力を感じさせ、もっと知りたいという知的好奇心を満足させるために目を通したライナーでさらに興味がふくらみ、同書へと進んでしまうという人がいてもおかしくないほどの有機的なつながり(実際、本とも対応した章番号やページを記す細かい配慮もなされている)を形成しているのには頭が下がる。演奏は1枚目が「イタリアのチェンバロ」、2枚目が「フランダースのチェンバロ」と題され、前者ではバード、フレスコバルディ、スカルラッティらの作品、後者にはスウェーリンク、フローベルガー、シャンボニエールらの作品が解説意図に適う形で(大バッハの作品に与えた影暮も含め)注意深く選曲されている。つまりは点と線、そして面で音楽史に光を当て、より深い理解と鑑賞の手がかりを提供してくれるというわけ。美しいジャケット・デザイン一つとっても凝っているのに、これで2枚組3800円とは随分コスト・パフォーマンスにもすぐれている。全体を通じて“趣味の良さ”が感じられるディスクだ。(吉村溪)
細な音もよく粒立ち、音色も透明で美しい。<90-93>(三井)
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