Cembalo, Clavicordo & Fortepiano
 J.S.バッハパルティータ(全6曲)/渡邊順生-
 批評
(レコード芸術・器楽曲部門月評より[1994年1月号])



[特選盤]

J・S・バッハ: パルティータ(全六曲)  渡邊順生(チェンバロ)

(ALM●ALCD1004-5)2枚組¥5000

[推薦]

渡邊順生の、《イタリア協奏曲》などのアルバムに続くチェンバロによるバッハは、パルティータ(クラヴィーア練習曲集第一巻)の全曲である。録音は1993年5月と6月。
 使用楽器は前回と同じフレンチ・モデルのルフェーヴル(1755)のレプリカ(1990)と、新たに、十八世紀初頭のジャーマン・モデルのミートケのレプリカ(1992)である。また、使用楽譜は基本的に1731年刊行の初版によるが、曲順は渡邊独自の判断により一部(第4番と第6番における〈エール〉の場所)入れ換えられている。その他「新バッハ全集」における校訂についても、疑問な箇所は自身の判断によっている。
 こうした積極的な作品に対する取り組みも十分評価に値するが(渡邊自身による解説もまことに読みごたえがある。当然前述の変更の理由も明らかにきれている)、もちろんここで問題にするのは演奏だ。そして、これは前回のバッハでも評価したところだが、これらの作品で渡邊はそれぞれの作品の細部にいたるまでを入念に考察し、その結果を見事に「音楽的に」実現している。
 前述のような個人的な判断と解釈はあるものの、その結果として立ち現われる音楽には、一点もゆるぎがない。「音楽としての原点」に忠実であるとともに、その表現において時代様式の枠内で自由であろうとし、結果としてきわめて説得力のある演奏を展開しているのだ。わが国にもこのような古楽演奏家が現われたことは、まことに嬉しいことだ。
 その表現はさまざまに書いてきたように意欲的なものでありながら、けっして硬直したものではない。ここではバッハの作品を、いわばサラの状態で示されたような気がする。その意味で、これは渡邊のバッハとしても、あくまでも「原点」に立つものであろう。今後彼がどのように成熟していくか、それが楽しみである。そしてそういうものとして、まったく満足できる演奏を示しているということである。
 なお、これは渡邊の責任ではないが、せっかくの見事な解説も紫地に紫の印刷、というのではまことに読みにくい。通常の二枚組より薄いケースは大歓迎なのだが。〈武田明倫〉

[推薦]

日本を代表する中堅チェンバリストの一人、渡邊順生は以前にも録音を発表していたが、このたびの「パルティータ全集」に、まさしくその真価を見る思いを味わった。使用楽器はベルリンのM・ミートケ(1710頃)にもとづくB・ケネディ(アムステルダム、1991/2)、ルーアンのN・ルフェーヴル(1755)にもとづくM・スコヴロネック(ブレーメン、1989/90)の両レプリカ。すなわちドイツ・モデルとフレンチ・モデルの両器で、渡邊はパルティータの1、3、5番を前者、2、4、6番を後者によってひき分けている。音色に変化をつけることで全体を聴きやすくすると同時に、各曲の曲想をも考慮してであるらしい。第1番を聴いた限りでは、伸びやかで率直な演奏スタイルと感じたのだが、聴き進むうち、そんな単純な言い方はつつしむべきだと気付いた。たとえば第3番イ短調にこもる深い情念が、終曲ジーグのもたれかかり気味にねばらせたテンポに象徴されるように、なんと有効に表出されていることか。同時に、そうしたパトスにのめりこんで音楽が一面的なものにはならぬよう、同じ組曲のプルレスカやスケルツォに、奔放でまた毅然とした面差しを与えることも彼は忘れない。温雅ななめらかさのうちに深く気品高い抒情を秘めた第4番と、軽妙なさわやかさを生命とする第5番の対比なども、鮮やかなものがある。第4、第6番で譜面上クーラントとサラバンドのあいだに挿んであるアリアを、この順序は“譜めくり”の都合上にすぎないと断じてサラバンドのあとへ回しているが、たいへんよく納得できる措置と言えよう。これを一例として、演奏全体がこの奏者の深い学究的研鑽の重味を、しっとりと含んでいることを強調しておかねばならない。それは、小冊子と言えるばかりに、30ページほどびっしりと刷り込まれた自筆のライナー・ノートからも、ただちに想像できることである。しかも、肝腎なのは、そうした研究が音楽を理屈っぽく筋張ったものにするのではなく、逆に奥底から豊かな潤いを与えているという事実であろう。当アルバムはおそらく、チェンバロでひかれたパルティータ中、指折りの演奏として残されるに違いない。〈濱田滋郎〉

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